第15話あかり、3rd ステップ……の前に一休み
閉じ込められた空間から解き放たれる、
たった一杯の、たった一粒の、何万何億分の一というカプセルに閉じ込められたコーヒーの香り。
ある人は心が安らぎ、ある人は語らう声が弾み、またある人は真剣な眼差しで精神が研ぎ澄まされる。
後者のゆうきは、一口のコーヒーで覚醒し、前者の注目を浴びる。
何度瞬きをしても、ゆうきの十本の指は定位置にある。
止まって見える指が、秒針よりも速く空気圧を刻む。
のぞき見対策を施しているパソコンの画面を確認することはできない。それでもキーボードもデスクトップ画面も正常に起動しているのだろうと、周囲は判断する。
ゆうきの眼差しは真剣そのものだが、苛ついている様子はない。
むしろ悦を隠すよう唇をきつく閉じている。
それでも一部の人間にはゆうきの一部から快感を得ていることが分かるようだ。
「……あのお客さん、すごいな。俺の推測だと、ワープロ検定一級か二級を取っているな。母校の先生もあれに近いレベルだったし。君はどう思う?」
焙煎道具を洗浄しながら話しかける男性。この年大学を卒業したばかりの新入社員である彼は、次期店長候補としてアルバイトスタッフと関わり共に仕事をする。
「君」と呼ばれた、ダークブラウンの長髪を一つの団子にして纏めているは女性は、カウンターから離れプライベートルームに駆け込む。
「私に訊かないでください! 私、あの人のことなんて知りません!」
扉の狭間から覗き吐息のような声で囁くあかり。
「知っているんだね。ま、俺にとってはどっちでもいいけど、仕事はちゃんとしなさい。ボランティアではないんだよ、その制服を着ているということは」
「……はい」
ゆうきが自分の世界で快感だけに浸っていることを願い、あかりはプライベートルームという殻を脱ぐ。
黒縁眼鏡に短い黒髪の見た目通り真面目な彼は、あかりの苦手な人間の一人だ。
幼稚園児でも分かる正論を、耳道を突き抜けるほどの鋭い言葉であかりに届ける。
あかりが先にカフェの仕事に携わったとはいえ、彼は年上であり、組織のピラミッドを見るとあかりの上司にあたる。
反論したい気持ちを抑える以外に何もできない。
過去のバイト先、居酒屋では相手が年上であっても、あかりが先輩だと思えば手助けをした。年上の後輩を叱咤することも多かった。
日々の疲労を感じることで、あかりは外見だけでなく社会にも通用する手腕を持っていると自負していた。
給料日以降は、今ではすっかり疎遠になった彼氏、カイトに小遣いを渡すことで、自立した女子だと勘違いしていた。
二年生をやり直した今では、カフェのバイト代が入っても誰かに簡単に手渡すことがない。
仮にカイトがあかりの部屋に滞在していても、頑として拒んでいるだろう。
年上の彼氏に。
あかりの中に、自分が優位に立ちたいという願望ははっきりと分かるほど残っている。
それでもあかりは自我を抑え、渋々と年上の意見に頷くようになった。
一か月前は一回、一週間前は二回、三日前は三回、と他人の意見を受け入れる回数が増えた。
頷く直前は、無理やり閉じ込められた幼さの残る自我の抵抗する姿が徐々に薄らいできた。
代わりにゆうきの背中が一滴ずつ鮮明に現れた。水で薄めていないインクが滴るように。
男性社員と顔合わせをする前日、あかりはまなみから聞いていた。
親友であるあかりよりも先に、ゆうきがまなみの過去を深く追及することなく受け入れたこと。その後何事もなくまなみに接し、現状から未来を変えるというスタンスで本格的に指導したこと。まなみの父と対面する際、偏見を持たず終始自然な笑顔が出ていたこと。うつ病発病の原因など深い事情を一切訊かなかったこと。
『普通、私は色んな人を見てきたから慣れているの、とか言うでしょう? それがまったくないのよね、ゆうき先生は。むしろ何も言わないの。あかり、どう思う?』
『あの人のことに限っては、何とも言えないよ。でもアラサーの割には貫録が出過ぎているよね』
まなみはあかりの真意を探ることなく、頷いた。眉間に皺が出ていないことから、あかりはまなみがゆうきから「地獄」という言葉を聞かされていないと確信した。
では遠い目をしたあのときの女性は一体誰だったのだろうか? あかりは何日も考えた。
考えるうちに、すべての出来事が些細なものに感じるようになった。喜怒哀楽をまったく感じないというわけではないが、どれも根深く考える必要がないと感じた。
とくに怒と哀に関しては、カフェの先輩スタッフたちがなぜそこまで執拗に話題を共有したがるのか理解ができなくなった。
もともと交流の浅かったスタッフたちとも一層距離を置くようになり、ゆうきに指摘されてからは他のカフェへも足が遠のいた。
今では勉強のためと称してカフェに通う頻度は週に一回以下になっている。
ほぼ毎日、自室にて勉強に励んでいる。
キラキラ女子とは程遠い、簡素な部屋で。
たった一人の人間との出会いで、なぜ自分がここまで変わるのか。ゆうきにはなぜそれだけの力が備わっているのか。考えるほど自分が闇の沼に吸い込まれる錯覚を感じる。
せめて勤務中だけは、とあかりは思考を振り払い、愛想笑いでコーヒーを挽くことに専念し始める。
二十時、ゆうきは二時間のタイピングを経て、ようやく席を立つ。
すっかり冷めたコーヒーを一気に喉に流し込み、割引に使用した私物のタンブラーをバッグにしまう。
「ご馳走様でした~。すみませんね、すっかり長居しちゃって」
ゆうきはあかりを叱咤した男性社員に声をかける。
「いえ、とんでもございません。こちらこそ、素晴らしいものを見せていただきました。中々できるものではありませんよ、あのタイピング」
彼は制服の帽子が外れない程度に頭を下げる。せめて眼鏡が落ちてくれないかとあかりが念じたが、彼は頭を上げると同時に眼鏡の中心部を指で押さえた。
「ありがとうございます。それではご馳走様でした」
ゆうきはあかりを見ずに、カフェを去る。
自動ガラスドアが隔て、ようやくあかりは一息つく。
「いくらすごい方だからといって、君の知り合いだろう? カフェに来られるお客様は一人二人ではないんだぞ。それくらいで疲れていてどうする」
彼はあかりを手で払う。休憩に入れ、という合図だ。
あかりはこの日二回目の正論を突きつけられ、怒りこそ感じにくくなったものの、悔しい気持ちが溢れそうになる。
涙は出ないが、自分自身への歯がゆさゆえに手を握りしめ、爪の圧力で手のひらが痒くなる。
休憩室の椅子に座っても、あかりの両手は強張ったままだった。あかりのスマホが震えるまでは。
まなみにはこの時間帯はバイトで返信できないと伝えている。両親にもバイト先を変えたと報告している。高校の同級生は自分のキャンパスライフ、もしくは就職先の仕事で忙しいはずだ。では、誰があかりに連絡をしたのか?
あかりは見当もつかないまま、そっと拳を開く。ぎこちない指でスマホに触れると、LINEメッセージの通知が一通届いていた。
『お疲れ様。バイト、頑張っているじゃない? その調子だよ、未来の(真の)キラキラ女子!』
ゆうきからのメッセージだった。絵文字は使われていないが、代わりに美川憲一のスタンプが一個送られてきた。
「ポケモンとかサンリオじゃないんだ。ってか、美川憲一の性別は確か……」
キラキラ女子ではないはずだと、あかりは頭を捻る。
会うたびに思うことだが、あかりは未だにゆうきの思考を完全に把握できていない。
ゆうきへの妬みなど負の感情は抱いていないが、真のキラキラ女子になるにはゆうきの力が必要だ。
少しでもゆうきへの理解が必要だと分かっていても、実際に掴むのは非常に困難なことだった。
「今返信したら『勤務中でしょ(怒)』って返事が来るかな」
あかりは既読をつけたままスマホをバッグにしまう。これを察知できただけでも今日の進歩かな、と呟いてから周囲を見渡す。
幸い、誰にも独り言は聞かれていないようだった。
これ以上独り言を言わないように、とあかりは持参の茶を口内いっぱいに含み、一気に飲み込む。
三十分の休憩を終え、あかりは再びカウンターに入る。
残り二時間半は何の戸惑いもなく業務を遂行した。
「お疲れさん。今日は頑張ったな」
先輩の上から目線の言葉を耳にしても、毛細血管が切れる余力は残っていない。
激怒した後の倦怠感を昨冬に体験していたからだろうか、とあかりは思い出す。
非ばかりある自分を先に変えなければ、と終電に駆け込む。
あかりが真のキラキラ女子になるには、あとどれくらいの日数がかかるだろうか?
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