第2話ダメダメ女子あかり登場
多種の花をミックスしたフローラルの香りは、発汗と飛び散った食用油に掻き消される。
二十三時、最終電車にて。
「あ~、今日も疲れた……レポート、まだ終わっていないし、もう面倒くさいなぁ」
一昔前に流行ったブーブークッションが置かれていないおかげで、ソファ席が勢いの良い重圧を最小限に留めてくれた。
ブーブークッションが誰かの悪戯で置かれていたら、女性として、電車に一生のトラウマを持ってしまうところだった。
あかり、二十歳。大学に通いながら、居酒屋でアルバイトをしている。
ジーンズにスウェットパーカー、ダークブラウンに染めた長髪を後ろで一つに束ねたカジュアルな恰好が、あかりの疲弊を周囲により一層強く訴えている。
電車には同じキャンパスに通う学生が同乗しているかもしれないのに、あかりは周囲の視線を気にせず、腕を組み、目をつむる。
約十分の居眠りをした後、駅構内の自販機で缶コーヒーを買い、速足で岐路に向かう。
忘年会の予約が始まった、忙しないある一日の終わりだった。
百円ショップで購入したキャラクターのキーカバーを被せた鍵を差す。未だ主人が敷居を跨いでいないはずの部屋には明かりが灯っている。
「またか……」
あかりはカバンの中身を確認してから、重い扉を開けた。
「ただいまー」
居間とキッチンが引き戸一枚で隔たれただけの安い造りの部屋に、発泡酒の匂いが散漫している。
「おう、あかり」
「また、冷蔵庫に入っていたやつ、飲んだのね。明日休みなの?」
耳までサルのように赤くなった男がうつろ目で振り向く。
カイト、二十三歳。社会人、だった。
「あんなクソ会社、バシッと三行半叩きつけてやったよ」
カイトは最後の缶一本をあかりに渡した。
「また辞めたの? これで何社目?」
あかりは勧められるまま缶を開け、自分の喉に押し流した。
「さぁなー? クソ会社なんて世の中いくらでもあるから、数えたところでキリがねぇよ。それよりさー、あかり」
「なに? あたし疲れているけど、したいの?」
缶をローテーブルに置き、カイトの下半身をじっと見る。目覚めてはいなようだ。
「それも大事だけどよ、俺、明日からまたハローワークに行くから要るんだよな」
カイトは何も乗っていない手のひらをあかりに見せる。
あかりはアルコールで麻痺した脳を酷使し、首を左右に振った。
「知っているでしょ。あたしのバイト先は飲み屋じゃなくて、居酒屋。日払い制度なんてないの。それに、カイトの給料日、先週だったんじゃないの?」
「んなもん、昨日、ダチとの飲みでパーッと使っちまったよ。久々のシャンパン、美味かったぜ~」
カイトは空になった十本以上の缶を、紙吹雪のようにまき散らした。アルコールの影響で、気が大きくなっている。
あかりはため息をついた。
「そう、よかったね。じゃあ、あたし寝るわ。クタクタなんだよね」
「んだよー、冷てーな、あかり! 俺の女だろー?」
生来の寝つきの良さで、あかりはカイトの声が瞬時に遠くなった。
あかりがカイトと出会ったのは、今年の春、バイト先の居酒屋にカイトが客として来店した日だった。
カイトを含めた数人の新入社員の歓迎会として、予約が入っていた。
一目でカイトに気に入られ、数回プライベートで通った彼の想いを受け入れた。あかりとの半同棲を始めたのは、カイトがその会社を辞した夏だった。
その後カイトは自分の賃貸を引き払い、あかりが多忙の日は友人宅に泊まり、週に一度はあかりの部屋に入り浸るサイクルができあがった。
その後彼はアルバイトを含め数社で働いたが、どれも三か月以上続かなかった。
金遣いの荒いカイトは給料日の翌日にあかりから小遣いをもらい、飲み代に充てた。
彼はあかりにとって、人生初の彼氏だった。異性の良し悪しを十分に理解していないため、簡単にだらしない彼を許してしまう。
化粧品や被服も、プチプラショップやリサイクルショップで安く見えないものを選び、家賃や自分の食費をこっそり確保している。
大学の学費は実家の両親が直接大学に振り込んでいるので、カイトに搾取されることはまずない。
カイトの職が安定すれば何も問題ないと思い込み、あかりは両親に何も相談しなかった。
しかし今秋季節の変わり目で風邪をこじらせた際、医者から栄養失調と告げられた。
当時の主治医が、あかりの実家のかかりつけ医の親族であり同じ出身地の者であった。心配のあまり主治医は親族医に連絡し、その経由で両親にあかりの状況を知られてしまった。
両親の荒い声が、スマホの許容範囲を超えるのではないかと思うほど響いた。
生活苦、学力の低下、そして男性問題。
やむを得ずあかりは事情をすべて話した。それで両親が安堵するはずがなかった。
「とにかく、その男とはすぐに別れなさい。無理なようだったら、お父さんがそっちに出向くから」と父。
「そうよ、バイト先も変えて、引っ越しもしなさい。お金の心配はしなくていいから。仕方がないもの」と母。
心配する両親の気持ちを無下にすることも、これから路上で暮らす羽目になるかもしれないカイトを見捨てることもできなかった。
どちらもあかりにとっては大切な人だから。
「大丈夫よ、お父さん、お母さん。要はカイトが無事に職の安定を得たらいいんだから」
それからも何度か両親から電話がかかった。そのたびあかりは同じフレーズで電話を切り、カイトの改心に努めた。
けれど忘年会が始まろうとしている今も、カイトは遊び気分で職を転々としている。
風呂に入ることも忘れるほど疲弊して帰宅するあかりを待っているのが、そのような男であれば、あかりの未来は暗いだけ。
三歳児ですら分かることを、あかりは見えていない。
カイトの何に惹かれたのかすら忘れているというのに、あかりは目覚めのシャワーとともに朝から忙しく動き出す。
そんなあかりとゆうきが出会うまで、残り三日。
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