『ストウレン・ガール』
1.
「セットのドリンクは如何なさいますか」
メニューのドリンク欄を指差すと、中年の会社員と思われる男は、無愛想に「コーラ」とだけ返し、小銭を乱暴にこちらへ投げてくる。「コーラをお願いします」と言えば良いのに。小銭はキャッシュトレイにゆっくり置けば良いのに。どうしてそんな簡単な事が出来ないんだろう、と私は思う。
きっと、アルバイトを始めたばかりの私だったら、こんな客には文句を言ってしまっていたに違いない。そうして喧嘩になり、見兼ねた店長が出てきてひたすら頭を下げる展開になっただろう。
月曜午後のハンバーガー・ショップは、多くのお客さんで賑わっていた。小さな女の子が美味しそうにポテトを頬張っている姿が目に入る。店内を漂うジャンキーな油の匂いは初めのうちは嫌いだったけれど、いつからか気にならなくなっていた。きっと感覚が麻痺している。
「かしこまりました。番号でお呼びしますので、少々お待ちください」私は不満の渦巻く心中を読まれないように、出来る限り丁寧な口調でそう言った。“口に出さないように”それは、以前にユキさんから受けた指導が身体に染み付いていたからだ。
「口に出したら負けだよ」
彼女はよく、私にそう教えてくれた。年齢は私と一つしか違わなかったけれど、正社員で働く彼女は私より幾分大人っぽく見えた。「思っている事は、心に閉じ込めるの。客に悟られたら接客業としては失格。どんなに納得がいかない事があっても、口に出したら負け」
ユキさんは半年ほど前にこの店に転勤してきた社員さんだ。テキパキと店内を動き回り、愛想が良くお客さんからの評判は良かった。彼女の優しく適切な指導は私たちアルバイトからの受けも良く、ユキさんが転勤してきてから店全体の雰囲気が良くなったように思う。
「カナちゃんは思ったことをすぐ口に出しちゃうからな」とユキさんは微笑んで言った。
「私、昔から道理に合わないことをされると、ついカッとなっちゃうんですよね」と頭を搔きながら私は返した。「言っちゃダメだって、わかってるんですけど」
私が満たされない表情でそう言うと、彼女はそんな私を見て声に出して笑った。「ま、それがカナちゃんの良いところでもあるんだけどね」
2.
休憩室で着替えを終えくつろいでいたところに、店長が鼻歌を歌いながら入ってくる。大柄な体型で、見た目はジェイソン・ステイサムに似ていた。彼の瞳が気怠げに閉じかけた時の、哀愁の漂う表情が好きだった。
「お、カナミさんか」と彼は独り言を呟くように言った。
「お疲れ様です」と私は返す。
「おう、お疲れさん」
店長はそのまま給湯室へ行き、ケトルに水を入れて電源をオンにした。暫くしてコーヒーを片手に出てきた彼は私の近くの席に座り、「そういえば、カナミさんはここで働いてどの位になるんだっけな」と話しかけてきた。
「えっと、一年半くらいですかね」と返すと、彼は「そっかぁ」と顎に手を当てて何かを考える仕草をした。
「初めはちょっと荒っぽかったけど、最近は丁寧に仕事をしているし、業務も一通りこなせてる。カナミさんもそろそろ社員になってみるのはどうかな」
「えっ」私は驚いた声を出してしまう。「社員ですか」
「うん。カナミさんにその気があるのなら、俺は推薦しようと思うんだけど」
私はそんな事を提案されるなんて思ってもいなかったから、突然の事に思わずたじろいでしまった。「少し、考えさせてもらっても良いですか」
「もちろん」と店長は言う。「意外だな。カナミさんなら即決で結論を出すのかと思っていたんだけど」と少し笑った。
「正直、社員になるのはどうかなって思っていて。今の生活が気に入っているし、このままでいいような気もするから」
そう言うと、店長は少し目を閉じて寂しそうな表情になった。「ゆっくり考えてみると良いよ。ただ、カナミさんももういい年だし、社員になって経験積んでみるのもありだと思う」
「はい、ゆっくり考えてみます」と私は言った。
「期待してるよ」と彼は微笑んで言い、ふと思い出したように休憩室の壁に貼られている今月の勤務表に目をやった。「そういえばユキさん、まだ来ないな。カナミさん、彼女と親しそうだったけど、そっちに何か連絡って来てない?」
私は店長の目線に合わせて勤務表を見た後、「来てないですね」と言った。10月ももう中旬に差し掛かっていた。社員のユキさんの勤務予定は週5日で入っていたが、今月に入ってから彼女はまだ一度も店に来ていなかった。真面目な彼女が無断欠勤をする事は考えられず、何か事情があるのかもしれないと思案するも、連絡が取れないので店長は頭を抱えているようだった。
「どうしちゃったんだろうなぁ」とため息混じりに言って店長は立ち上がった。飲み終えたコーヒーカップを給湯室に持っていき、休憩室を後にする。
それを見て私もそろそろ帰ろうと立ち上がった。鞄を背負って休憩室の電気を消した時、ポケットに入れていたスマートフォンがブルブルと振動した。
3.
ユキさんと初めて会った時の事を思う。
「だから、なんでコーラなのって言ってるの」
虎の描かれた派手なジャージ服を着た、チンピラの典型例のような姿の青年が、私の運んだドリンクを見てそう言った。同じテーブルに座る他の二人の厳つい見た目の青年も、彼の言葉に同調して私を睨んでくる。
「俺が頼んだのはコーヒーだよ。アイスコーヒー。なんでコーラなんか持ってくんの」
彼は店中に響き渡るような大きな声で私を責めた。その迫力に私は思わず狼狽えてしまう。周りにいたお客さんも何処と無く怪しい雰囲気を感じ取ったようで、少しずつ離れていく姿が視界の端に写る。
コーヒー? いや、彼はさっきコーラって言ったと思ったけれど、私の聞き間違いだったのだろうか。
頭の中で、さっきの注文のやりとりを想起してみるが、当然録音されている訳でもなく確信は持てない。あるいは、彼はコーヒーのつもりでコーラと言い間違えている可能性だってある。
「申し訳ありません。すぐにお取り替えします」
私は一度テーブルに置いたドリンクを下げようと手を伸ばした。
すると、チンピラは「これはいいから、さっさとコーヒー持ってこいよ。当然、この金は払わねえからな」と言った。
「えっ、でも」と言いかけた私を、彼は鋭い視線で睨んでくる。「早くしろよ、客を待たせるなよ」
仕方なくレジ裏の厨房へ戻り、アイスコーヒーを用意する。この時間にスタッフとして入っているのは私と、新入りの大学生二人だった。彼らは私に「あのお客さん、大丈夫ですか」と心配そうに尋ねてくるが、私は「平気、平気。あんなの、よくいるよ」と平然とした振りで返した。新入りのアルバイトの子達にチンピラの相手はさせられない。ここは私が何とかして収めなければ、と思ったからだ。実際、飲食店で働いていると、彼らのようなクレーマー紛いの連中の相手をする事は珍しくはない。「心配しないで」と言って微笑んで、私は再び厨房から出て行く。
「お待たせしてすみません。アイスコーヒーをお持ちしました」
私は心を落ち着かせてそう言うと、ドリンクをテーブルに置いた。
すると、チンピラの青年がチッと舌打ちをして「アイス?」とわざとらしく大きな声で言う。「ホットって言ったよね? なんでアイスコーヒー持ってきてんの」
そう言うと、彼は右手を振り下ろして机を思い切り叩いた。その音は思いのほか大きく、威嚇するには十分だった。店内が一気に静まり返る。
しかし、その音は同時に私の感情のスイッチをオンにしてしまった。腹部のあたりから怒りが一気に燃え上がってくるようだった。
「あんたがアイスって言ったんだよ」気付くと私はそう零していた。
「あ?」チンピラが眉間に皺を寄せてこっちを見てくる。
「だから、あんたがアイスコーヒー持ってこいって言ったんだろうが」
私の声はさっきの机を叩く音に負けないくらい店中に響き渡った。声に出した後で、言ってしまったと思った。
「……お前、客に向かって何言ってんの」
チンピラはゆっくりと立ち上がる。思っていたよりも身長が高く、私は彼の顔を見上げるような角度になり、思わず足がすくんでしまった。
その時だった。
「お客様、申し訳ありません」
私とチンピラとの間に入って、そう言って頭を下げる女性が現れた。彼女はまるで別世界から来た人のように、店内で彼女一人だけ落ち着いているように見えた。
「あなたは奥に下がっていて」
彼女は私を見て、厨房を指差して言った。
「えっ、あ、はい」
私は曖昧な返事をするが、本当に奥へ下がってしまって良いものか迷ってしまう。
案の定、「おい、何勝手に指示出してんの。あいつが客に何したか分かってんの」とチンピラが不満げに声を上げた。
すると、彼女はゆっくりと頭を下げ、
「申し訳ありません。私は社員のユキと言います。彼女に代わって私がご対応させて頂きます」
と、丁寧すぎるくらいに親切な口調で言い、チンピラたちと向かい合った。すると、彼らは怒りのやり場を失ったように、それまでの勢いが失われていくように見えた。
「後は私が対応するから、あなたは後ろへ下がっていて」
彼女は私に、再度そう指示を出した。私は頷いて、その指示に従い厨房へと下がっていった。
そう、あの時、私を守ってくれたのがユキさんだった。
4.
スマートフォンを見ると、ケイスケからメールが届いていた。
『お疲れー。仕事終わった? 良かったら、この後ご飯でもどう?』
時刻は午後六時半を回っていた。
ケイスケはもう大学院の授業が終わったのだろうか。でも、平日の夜に彼が食事に誘ってくるなんて珍しい。いつもは大体週末に予定を入れる事が多いのに。何か用事でもあるのだろうか。
『今、バイト終わって店を出た所!予定ないから大丈夫だよ!』
そうメールに入力した所で、自分の心が躍る感覚に包まれている事に気付き、自然と頬が緩む。ケイスケから連絡が来るのは嬉しかった。お互い忙しくても、こうやって突然の形でも、会えるのは嬉しい。
さっき店長から振られた正社員の話も、ケイスケに一度相談してみようと思った。正社員になれば、今後彼と会うのは難しくなってしまうだろう。それでも正社員になるべきなのだろうか。相談したら彼は何と言うのだろう。
ハンバーガー・ショップの外は片側四車線の大通りに面していて、目の前を数え切れない数の車が行き来している。横断歩道の前に立って信号が変わるのを待っていると、冷たい秋風が頬を摩り体が震える。
信号が変わり横断歩道を渡っていると、歩道の向こう側で何かがあったらしく、突如として物々しいサイレンと男性の怒声が響いてくる。見ると、宝飾品店の前から男性が飛び出し、そのまま歩道を一目散に駆けて行こうとしていた。向こうを歩いていた人々が異変を察知して道を開けていく。逃げ去る男の後を警備員と見られる数人の男性達が追いかけていく。
泥棒だろうか。その先を目で追いかけようとしたが、向こうの人々の姿と重なって確かめる事が出来なかった。もう少し近付けば見えるかもしれない。気が付くと私は横断歩道を駆け足で渡っていた。
その時、
「ユキー!!」
と、男性の叫び声が聞こえてきた。
私はその声を聞いて思わず立ち止まってしまった。叫ばれたその名前は、偶然にも職場の先輩と同じ名前だったからだ。
そして、その瞬間。脳裏に稲妻が走り、まるでフラッシュバックするかのようにユキさんの姿が頭の中に鮮明に浮かび上がってきた。
暗闇の中で、彼女は一人だった。
辺りは暗澹たる漆黒に包まれ、それ以外には何も無い。彼女は寂しげな表情でこちらを見ている。私を見ているのか、こちらを向いているだけなのか、判断はつかない。
彼女は服のポケットから光り輝く物体を取り出すと、それをゆっくりと口の中へ入れた。すると、彼女はまるで透明人間になってしまったかのように、光る物体が彼女の身体を透かして輝きを失わない。頬は緩慢な速度で静かに動き、物体を咀嚼しやがて飲み込んでいく。
ふと、私は彼女が涙を流している事に気付いた。儚く透明な滴が瞳から流れ、そっと頬に線を引いていた。哀しそうでもあり寂しそうでもあり、その表情から感情を読み取る事は難しかった。しかし、いずれにしても穏やかでない感情がその心を支配しているのは間違いない。
そうして、彼女は消え入りそうな囁き声で「逃げて」と言った。
「えっ」私は思わず聞き返す。
「逃げて」彼女は再び私の頭の中に言葉を並べる。
逃げて。
私は目眩がしてその場に座り込んでしまった。何が現実で何が空想か、判別する余力はもう残されていなかった。崩れていく景色と共に、ユキさんの声がただ脳裏にこだましていた。
5.
目を覚ましてゆっくりと瞼を開けると、閃光のように眩しい光が入ってきてすぐにまた目を閉じてしまう。その刺激の強さに頭が締め付けられるように痛み、小さく呻き声をあげる。
「……カナミ?」
すぐ近くで、聞き覚えのある男性の声がした。
あれ、誰の声だったっけ。
私はその声の主を思い出す事が出来ない。意識が散漫になっていて、うまく記憶を辿る事が出来なかった。
「カナミ! 目を覚ましたのか」
再び、男性の声がする。
カナミとは私の名前だろうか。私はカナミという名だったのだろうか。
脳内が混乱していてもはや何一つとして思い出す事が出来なかった。
もう一度、ゆっくりと瞼を開けてみる。今度はさっき程の光の刺激は無く、真っ白い視界が徐々に開けていく。無機質な白い天井だ。視界の右側に、知っている男性の顔があった。
「……ケイスケ?」
私は、ぼんやりと無意識にそう呟いていた。口に出してから、ああ、そうだ、この男性の名前はケイスケだったと、冷静に思い出す事が出来た。彼は幼馴染の恋人だった。
「良かった、本当に良かった。君は丸一日、意識を失っていたんだよ」
彼が安堵の表情を浮かべて言った。
丸一日?
私は一体、どうしてしまったのだろう。ゆっくりと顔を動かすと、右手に点滴のチューブが付いていて、それがそのまま薬剤バッグに繋がっていた。そうか、ここは病院なのだろう。推測するに、私は何らかの理由で倒れて病院に運ばれて、ベッドで一日中意識を失ってしまっていたのだ。
「私に一体……」
何があったの、と訊きたかった。けれど、うまく言葉を発する事が出来なかった。喉の奥に何かが詰まってむせ込んでしまう。
「うん。よく思い出せないんだろう」とケイスケが言う。「先生が言っていたよ。丸一日意識を失っていたんだ。目を覚ましても、記憶をうまく思い出せない事があるって」
私はゆっくりと頷いた。
「特に、刺激の強かった事や思い出したくない事は脳が記憶を閉ざしてしまうらしい。そういう事は無理に思い出そうとしない方がいいらしい」
「そうなんだ」
「だから、ゆっくり休むと良いよ。アルバイト先には僕から連絡をしておいた。店長も君の事を心配していたよ」
「ありがとう」
彼は私がハンバーガー・ショップでアルバイトをしている事を知っていた。気を利かせて店に連絡を入れてくれた事がとても嬉しかった。
彼は優しく微笑み、「みんな君の事を心配している。落ち着いたら、メールを送ってあげると良いよ」と言った。
彼はいつも冷静で的確な思考を持っていて、彼と話をしていると自分の脳内が自然と整理されていくような気がしたものだ。今も彼との会話を通じて、意識を失っていた事を忘れてしまうほど頭の中が整理整頓されていく。
「ありがとう」私は心からそう言った。
その時、
――ブー、ブー。
携帯のバイブレーションが聞こえた。
ケイスケが「あっ」と呟いて自分のポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認すると「ごめん、ちょっといいかな」と言う。
私が頷くと、彼は「すぐ終わるから」と言って通話ボタンを押して電話に出た。
私は目線を天井に戻し、ゆっくりと大きなため息をついた。身体の力を緩め緊張を解こうとするけれど、胸の鼓動は落ち着かない。目を閉じて記憶を失う前の事を思う。ハンバーガー・ショップでのアルバイトを終えて、それからどうしたんだっけ。千切られた本の1ページのように、その部分の記憶だけぽっかり失われていて思い出す事が出来ない。
「……ああ、そうだよ。父さんの言う通りにした。……うん、そう」
ケイスケが誰かと話をしている声が聞こえてくる。声が硬くて、まるでビジネスの会話をしているようだった。けれど、父さんと言っているのだから、彼は父親と電話しているのだろう。特に気にする事もなくただぼんやりと彼の電話のやりとりを聞いていると、
「……彼女は、研究室に閉じ込めてある」
という声が聞こえてきた。
どこか不穏な響きを持ったその言葉に、私は思わず反応してしまう。
「……ああ、そうだよ。彼女の部屋は片付けてあるし、大丈夫だと思う。……こっちの方は、まだこれからだよ。彼女もヘンゼルを持っていた。……分かった、また連絡する」
彼が電話を切った。
私は慌てて姿勢を戻し、目を閉じて寝ていた振りをする。
彼はゆっくりと私の元へと歩いてきて、「ごめん、ちょっと出掛けないと行けなくなったんだ。小一時間もあれば戻って来られると思うんだけど、少し出ても良いかな」と申し訳なさそうに言った。
「大丈夫」と言って私は頷いた。さっき聞こえてきた会話については触れないようにした。
彼は「すぐに戻るよ」と言い、コートを羽織って病室を出て行こうとしたが、「あっ、そういえば」と何かを思い出したように立ち止まった。
ゆっくりと私にそばに戻ってきて、私の手をそっと握った。そうして私の目を見ると、「倒れた時にこれを君が持っていたらしいんだ」と言って私の手の中に何かを入れて、丁寧な手つきで握らせた。
「病院に運ばれる時も、ずっと握りしめていたらしい。とても大事そうに」と彼が言う。
何だろう、と自分の手の中を見てみると、そこには綺麗に光り輝く小さな石があった。
「これ……」
私が呟くと、ケイスケが「何か思い出す事はあるかな」と真剣な表情で尋ねてくる。
何かを思い出しそうな気がしたけれど、脳がその記憶を呼び覚ますのを拒否しているようだった。頭痛が私を襲う。
「分からない。何かを思い出せそうな気はするんだけど」
そう言うと、彼は私の顔を見て頷いた。
「そうか、大丈夫だよ。ゆっくり思い出していけば良い。何かを思い出したら、すぐに僕に教えて欲しい」
そう言うと優しく微笑み、「それじゃあ、ちょっと行ってくるよ」と言って再び彼は病室を出て行く。
私は彼が病室を後にしてからも、しばらく自分の手から目を離す事が出来なかった。
――この石、どうして私が持っているのだろう。
ケイスケには黙っていたが、私は自分の記憶を取り戻していた。
――この石は、ユキさんがたべていた石だ。
6.
ゆっくりと身体を起こしてみる。ずっと横になっていた為だろう、全身に倦怠感はあるものの特に痛みは無かった。どうやら怪我はしていないらしい。
――ここを出よう。
そう決心すると、右腕に刺さっている点滴のチューブをそっと外した。腕にチクリと痛みが走る。
後は服装だ。上下ともにパジャマ姿のままで外へ出るのは不自然すぎる。ましてや自分は内緒で抜け出そうとしているのだから、出来るだけ自然な格好にならなければならない。
辺りを見回すと、背後に洋服ダンスが備え付けてある事に気付いた。開けてみると、中に自分が以前着ていた洋服が仕舞われていた。ひとまずこれに着替えよう。 洋服ダンスには私のカバンも入っていて、中に財布が入ったままになっていた。数万円の現金とクレジットカード、免許証が入っている。
時計を見ると、午後二時半を示していた。ケイスケがさっき病室を出て行ったのがだいたい十五分くらい前だろう。小一時間は戻って来ないと言っていたから、今からなら十分抜け出す事は出来る。
――このままここに居ない方が良い。
本能がそう訴えていた。状況を全て理解出来ている訳ではなかったけれど、身の回りで起きている出来事を自分の解釈で繋ぎ合わせていくと、恐ろしい推測が浮かび上がってくる。
――ケイスケを信用してはいけない。
着替えを終えカバンを肩にかけると、私は立ち上がる。外の廊下へは医者や看護師がいないかを確認してから出る。用心するに越した事はなかった。今は誰も信じない方がいい。
本当はそのまま遠くへ行ってしまおうと考えていたけれど、途中で思い返してハンバーガー・ショップへ寄って行こうと思う。店長に一言伝えなければならない事があったからだ。寄り道をしている場合ではないのは百も承知だが、長居をしなければ問題ないだろう。
お客さんが出入りする自動ドアからショップへ入ると、アルバイトの子が「いらっしゃいませ」と言って頭を下げた。その後で、入ってきたのが私だと気付き「あっ、カナミさんじゃないですか」と驚いた表情になる。
「店長から聞きました。大丈夫だったんですか」と心配そうに彼女は言う。
それを聞いて、そうだった、私は丸一日倒れていたのだった、と思い出して「うん、ちょっと疲れが溜まっていたみたい。でも、もう大丈夫だから、安心して」と微笑んで返す。
「そうだったんですか。心配しました。でも、お元気そうで本当に良かったです」
「ありがとう。ねえ、今、店長っているかな?」
私が尋ねると、彼女は後ろを振り返って「あっ、今、店長は出かけてますね」と言った。
「出掛けてる?」
「ええ、たぶん備品を買いに行ったんだと思います。さっき、トイレットペーパーが無くなりそうだって話してましたから」
「そう……」
どうしようかと私は頭を悩ませた。できれば店長と直接話がしたかったけれど、いないのなら仕方ない。戻ってくるのを待っていては時間が遅くなってしまう。勘のいいケイスケの事だから、もしかして私がアルバイト先に来ているのではないかと探しに来るかもしれない。
「それじゃあ、伝言お願いしてもいいかしら。前にもらった正社員の話だけど、申し訳ないけどお断りしますって、伝えて欲しいの」
「えっ、カナミさん、正社員の話があったんですか」
彼女は驚いてそう言った。
「そう。でも、ちょっと事情があって正社員にはなれないの」
「何かあるんですか。せっかく正社員になれるのに」
アルバイトの子が残念そうにそう言った。その反応に私は申し訳なく思った。出来る事なら私も正社員として働いてみたかった。自分がユキさんにクレーマーから守ってもらった様に、今度は自分が彼女達を守ってあげたかった。
「ごめんなさい。ちょっと引っ越す事になってしまって、もうここには居られないの」
私はそう言うと、「今までありがとう」と行ってそそくさと店を去ろうとする。
すると、アルバイトの子が「カナミさん!」と声を上げて追いかけてきた。
「待ってください。あの、本当は何かあったんじゃないんですか」と彼女は心配そうに尋ねてくれた。「何かあったのなら、力になれるか分からないですけど、私に話してください。協力できる事はなんでもします。カナミさんが店からいなくなってしまうなんて寂しいです」
彼女の温かい言葉に、私は胸の苦しみを抑える事が出来なかった。いっそのこと話してみようかとも思ったけれど、すぐに首を横に振ってその考えを退けた。
『口に出したら負けだよ』
どこかからかユキさんのそんな声が聞こえてくる。
『思っている事は、心に閉じ込めて』
続けてそんな言葉が聞こえてきた。
それは、以前にユキさんが話していた言葉だった。
――そうね、その通り。
私はすぐに口に出してしまうけれど、心に閉じ込めておくべき事もこの世界にはある。
「本当にごめんなさい。でも、もう行かないといけないの」
私はそう言って頭を下げた後、振り返って一目散に走り出した。二度と振り向かない。涙が頬を伝っているのが分かる。彼女を裏切ってしまうようで申し訳なかった。二度と振り向かない。二度と振り向かない。胸の中でただそれだけを唱えて私はひたすらに走ってその場から去っていった。
7.
人の気配の無い夜中の駅のホームで、私は一人電車を待っている。
どこへ行くのかは決めずに、とりあえず一番遠くの駅まで行ける切符を買った。そこからまた行先を考えればいい。
今頃ケイスケは病室に居ない私を探し回っている事だろう。スマートフォンはアルバイト先を出た後、電源を切って川へ放り投げてしまった。もう他人と連絡を取る手段は必要が無かった。むしろ、位置情報を特定されないよう電子機器は手放してしまった方がいい。
ふと、夜空を見上げると、まん丸い綺麗な月が上空に浮かんでいた。
それは、見惚れてしまう程に清らかで美しい月だった。
私は思い出したようにポケットから例の石を取り出して、月光の明かりにかざしてみる。
「……美しい」
言葉は自然と口から出ていた。石は光を反射して、まるで月の氷柱のようだった。妖艶で麗しいそれを、ゆっくりと口の中へ入れてみる。一線を越えていく快感が電流のよろしく私の全身を流れていくのが分かる。
私は石をたべている。
いつかケイスケが言っていた。
石をたべる人がいる。石をたべない人がいるのと同じように。聞くところによると、彼らのたべる石にはある一定の要件があるらしい、と。
ある意味でそれは正しく、ある意味でそれは間違っていた。これまで、世の中には石をたべる種族が存在し、彼らがたべる石を選んでいるのだと思っていた。けれど、それは違った。
“石が私たちを選んでいるのだ”
人が石を選んでいるのではない。
おそらく、石は意識を持ったウィルスのようなもので、人を介して伝染していき宿り主を探している。ユキさんは何らかの要因により石に選ばれ、彼女を介して私の中にも入り込んだ。
ケイスケとその父は石をたべる人たちについて研究している。電話で『研究室に閉じ込めてある』と話していたのは、おそらくユキさんの事だったのだろう。彼らの手により被験者としてどこかに拘束されてしまったのだ。
ケイスケはきっと、私も石をたべる人と何らかの関係がある事に気付いている。遅かれ早かれ、彼らの手は私にも伸びてくるだろう。いや、今この瞬間にも私を必死に捜索しているに違いない。
逃げなければならない。
私は逃げ続ける。どこまでも。
《了》
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