ストウレン・ストーン~石をたべる人たち~

ワタリヅキ

『ストウレン・ストーン』

 石をたべる人がいる。石をたべない人がいるのと同じように。聞くところによると、彼らのたべる石にはある一定の要件があるらしい。尤も、石をたべない僕にはそれを理解することは出来ない。

『ストウレン・ストーン』



1.

 夜の国道を走るタクシーの車内で、窓外に光の線を引く銀座の高層ビル群を眺めていた。タクシーのカー・オーディオからはローリング・ストーンズの《ブラウン・シュガー》が流れている。ストーンズか、と僕は思う。

 ある日を境にして僕の世界観は大きく変化した。いや、一個人の世界観ではなく世界そのものが変化してしまったと言った方が正しいのかもしれない。

「あなたに言っていなかったことがあるの」

 彼女は内奥にずっと隠してきた重大な秘密を打ち明けるように、僕にそう言った。確か、二人でイタリア料理を食べていた時だったと思う。三年付き合ってきて、彼女がその様な打ち明け話をするのは初めてのことだった。

「何だろう」と僕が聞くと、「驚かないでよ」と歯切れの悪い彼女。

 大体においてこういう時の告白は、不吉な結末を含んでいる。

「心臓に悪そうだ」

 胸に手を当てわざとらしく深呼吸すると、彼女は静かに笑った。そうして徐に「私、石をたべるの」と言った。

「えっ」思わず聞き返す。

「石をたべるの」

 それはまるで広大な池にたゆたう一隻の無人のボートのように、言葉は当て所なく僕らの間に響き、出口を見出せないでいた。

 彼女が石をたべることを知ったのは、その時が初めてだった。そうして、世の中には一定数、石をたべる人間が存在するということも、その時初めて知った。

2.

 それからと言うものの、僕は石をたべる人々について調べる様になった。インターネットや都立図書館で検索をしてみたものの、めぼしい情報は得られなかった。仕方なく、大学の同級生で生物学を研究していた友人Kと連絡を取り、「突然すまないが、石をたべる人々について何か知らないか」と駄目元で聞いてみた。

 すると、彼は何かを知っているらしく、直接会って話がしたいと言ってきた。

「こうやって会うのなんて何年ぶりだろうな」

 都内のバーで我々は落ち合い、久々の再会に暫く言葉を交わし合った。Kは現在、都内の大学院で応用化学の研究をしているらしい。身の上話が一通り終わった後、「例の話だけど」とKが神妙な顔付きで話し出した。

「何があったのかは知らないが、石をたべる人とは関わらない方がいい」

 彼は遠くを見る目でそう言った。

「どういう事だ。お前は何か知っているのか」

「悪いことは言わない。お前のことを思って言っているんだ」

 やはりKは何らかの情報を持っているらしい。しかし、何故彼が言い淀むのか全くもって理解出来なかった。関わらない方がいい。そんな結論だけを押し付けられても納得のいく筈がない。

「知ってる事があるなら教えてくれよ。どんな事でも良いんだ」


3.

 それから数日後のことだった。彼女が突然、行きたい店があるからと言って僕を食事に誘ってきた。何でも新宿にある割烹料理店らしい。僕らがその様な料亭で食事をするのは初めての事だった。

「何でまた、急にそんな店に行きたくなったんだろう」と僕はそれとなく聞いてみた。

「たまには会席料理もいいじゃない」と落ち着いた表情を浮かべて彼女は言う。「私の行きつけなの」

 僕はこれまでに会席料理なんて一度も行った事がなかった。あるいは彼女の家は裕福だったのかもしれない。父親が開業医である友人が、月に一度家族で料亭に行くという話を聞いた事があるが、一般的に言って、その様なステイタスの高い家でなければなかなか会席料理なんて行かないだろう。

 そうして疑問なのが、何故僕ら社会人二年目の若いカップルが、その様な店で食事をするのかという事だった。

 新宿駅から繁華街を歩いて十五分程経った所で、彼女は裏路地に入っていった。僕は黙ってその後をついて行く。さっきまでの大通りとがらりと変わって、路地は道幅も狭く薄暗かった。こぢんまりとした個人的な雰囲気の店が並んでいる。こんな所に彼女の行きつけの店があるなんて知らなかった。

 暫く歩いたところで彼女は徐に立ち止まる。「ここなの」と彼女は店の看板を指差した。《懐石料理 グラベル》と書かれている。

 気になったのは、懐石料理の石の字が特に強調して書かれている点だった。何処となく嫌な予感がする。

 店内は広くはなかったものの、一般的な料亭と同様に高級感のある和室が並んでいた。よくドラマや映画などの接待のシーンで使われる様な部屋だ。

「私はいつもので」と彼女が店員に注文すると、店員は「畏まりました」と了解した。おそらく彼女は常連客なのだろう。「あなたは?」と僕に振られる。

 慌ててお品書きに目を通したけれど、慣れていない事もあって何を頼めばいいのかすぐには決められず、薦められたコース料理を注文した。

「今日は大事な話があって、あなたをここに誘ったの」と彼女は静かに話し始める。


4.

「心臓に悪そうだ」と僕が返しても、彼女は真剣な表情のままだった。どうやら本当に大事な話が始まるらしい。

 ふと、先日のKの言葉が想起される。

「石をたべる人たちは、僕らのように石をたべない人たちとは根本的に異なっているんだよ」と彼は言った。「種族が違うんだ」

 グラスの中のカベルネ・ソーヴィニヨンをいわくありげに見つめて、Kは「その彼女の事は諦めた方がいい」と言った。

「よくわからないな」と僕は素直に思ったことを口にする。「そもそも、石をたべるってどう言う事なんだ」

「“たべる”というのが、我々が普段使うところの“食べる”と違うのは、まず間違いないだろうね。僕も彼らが石をたべている所は見たことがないし、そもそも彼らはその姿を他人には決して見せないだろうね」

「じゃあ、表面的には両者の違いは分からないということか」

「恐らく」とKはワインを一口飲み、小さく溜息をついた。「彼らから打ち明けてこない限りは」

「それじゃあ」と僕は言う。「どうして彼女は僕にそれを伝えてきたんだろう。その、石をたべるっていうことを」

「さあ。でも僕が思うに、君と彼女は、決して分かり合えないだろうな」Kは煙を吐き出す様にそう呟いた。

 僕は彼のその言葉に、内心、嫌悪感を抱いた。口には出さなかったものの、彼の意見は根拠がなくおざなりに聞こえた。

「そうかな」と僕は意に介さない口ぶりで答える。「僕と彼女はうまくやっていると思うけど」

 実際、彼女と付き合って三年になるけれど、僕らは趣味も趣向も合い、喧嘩をすることは殆ど無かった。相性の良い恋人だと僕は思っている。何も知らないKに突然分かり合えないなんて言われる筋合いは無かった。

「冷静になれよ。表向きは普通の人を装っているだけで、本質は得体の知れない種族なんだぞ」Kは僕を諭す様に言った。

「悪いけれど、別れるつもりはないよ」と僕は言う。それ以降、彼とこの話題について話す気は無くなってしまった。重い空気が僕らの間に漂い、その後は大した会話をする事もなく別れた。

 彼女がこれから話そうとする大事な話というのが、石に関する事であるのはまず間違いなさそうだった。

 飲み物とお通しが僕らの前に運ばれてくる。僕から話を切り出すのが憚られ、彼女が話し出すのをじっと待つことしか出来なかった。

「大事な話っていうのは」と彼女は静かに呟いた。「私たちのこれからについてなんだけどね」

 私たちのこれからという彼女の言葉を聞いた時、Kの「僕が思うに、君と彼女は、決して分かり合えないだろうな」という言葉が脳裏に蘇ってきて、僕は思わず首を小さく横に振った。

「僕らは分かり合えるよ」と考えるよりも先に口に出していた。

「えっ」と彼女は少したじろいだ。

「全部一緒じゃなくたっていいじゃないか。少しくらい違う所があったって、僕は気にしないよ」僕は感情に任せて一気に話した。「たとえ君が石をたべる人だからって、それが何か問題あるとは僕は思わない。周りがなんて言おうと、僕は君が好きだから」

 僕の言葉に彼女の瞳が少し潤んだように見えた。彼女の胸がいつもより忙しなく動き、早くなる呼吸が僕の耳元に届いてくるようだった。

 暫くの沈黙の後で「ありがとう」と彼女が小さな声で言った。彼女の身体の、どこか深いところから聞こえてくる声のように思えた。


5.

 タクシーが信号待ちで停車すると、窓外に銀座らしいオートクチュールのショーウィンドウの数々が見える。カバン一つで数十万円はする高級ブランドの店舗の前を大勢の人々が行き来している。

 ある宝飾品店の前を通りかかったところで、運転手に「ここで止めてくれ」と伝えた。運賃を支払いタクシーから出ると、真っ直ぐにその店へと向かって歩く。

 すれ違う人々の中で、僕の思いは急速に、そうして複雑に交錯していった。今からやろうと目論んでいる事が果たして本当に正しい事なのか、確信は無かった。

 料亭で食事を共にしたあの日以降、彼女とは何故か連絡が取れなくなってしまった。

 メールを送信しても返ってくる事は無く、電話を掛けても「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」という機械音声が虚しく聞こえてくるだけだった。何度も試したけれど、連絡は一度も繋がらなかった。

 週末、彼女の家に直接行ってみたけれど、どうやら引越しをしてしまった後のようで部屋の中はがらんどうだった。

「どうして……」

 僕はその部屋の玄関先で崩れ落ちた。何がいけなかったのだろう。彼女はあの日どんな気持ちで、僕に「ありがとう」と言ったのだろう。

 考えども考えども真相は謎のままだった。せめて声が聞きたかった。彼女の本当の気持ちが知りたかった。何も分からないまま、このまま終わってしまうのは嫌だった。

 ある時、インターネットを使っていた際、何気なく銀座の、とある有名な宝飾品ブランド店の広告が目に入った。そこにはとても美しいダイヤモンドの写真が載っていた。値段を見ると、五千万円と書かれていた。地方であれば土地付きの一戸建てが十分買えてしまうような金額に思わず目が眩んでしまう。

「もし、これを手に入れる事が出来たら……」

 ふと、そんな考えが浮かんできた。

 彼女は石をたべる人だ。

 石をたべる人がいる。石をたべない人がいるのと同じように。聞くところによると、彼らのたべる石にはある一定の要件があるらしい。尤も、石をたべない僕にはそれを理解することは出来ない。

 この、七色に輝くダイヤモンドは紛れもなく石の一つだ。そうして、世界中にある石の中でも高級で希少な石の一つだと言える。これを手に入れる事が出来れば、あるいは彼女の気持ちを取り戻す事が出来るかもしれない。そう考えたのだった。

 預金通帳の残高は約十万円。これから一生懸命仕事をしたとして、購入できるのは果たして何十年先の事だろう。そんな頃にはもう、彼女とのよりを戻すのは難しくなってしまう。何とかして今すぐに手に入れる方法は無いものか。

 気が付くと、僕は宝飾品店の前に立っていた。自動ドアがゆっくりと開き、店員が礼儀正しく「いらっしゃいませ」と言って頭を下げた。

 ゆっくりと店内を歩き回り、奥の方にある一段と大きなガラスケースへと向かう。思った通り、そこには広告で見た巨大なダイヤモンドが飾られていた。様々な角度から照明に照らし出され、その美しさに思わず息を飲む。

「そちらは世界にも数少ない、特別なダイヤモンドです」と男性店員が近付いて話しかけてくる。「同様のダイヤモンドがあちらにも御座います。よろしければご案内致しますが」

「ありがとう。でも、自分でゆっくり見させてもらうよ」

 店員に礼を言う形で自然と接客を断った。手頃な価格で購入出来るような小さなダイヤモンドに用は無かった。この、目の前で光り輝くダイヤモンドに用がある。

 僕はカバンから特注の金槌を取り出した。車の窓ガラスも簡単に割れる特別な金槌だった。やる事は一つ。僕は迷うことなく金槌を頭上高くに振り上げ、ひと思いに振り下げる。

――ガッシャーン。

 ガラスの破れる音と共に、警報音がけたたましく鳴り響いた。非常事態を知らせるサイレンが大袈裟に響き渡る。女性の悲鳴が上がり、「おい何やってんだ」という男性の怒号が聞こえる。すぐに捕まえに来るのかと思ったが、突然の事態に動揺し警戒しているのだろう、周りの人々は立ち竦んでしまっている様だった。

 そんな慌ただしい店内を気にもせず、僕は至って冷静にダイヤモンドを掴み取り、そのまま店外へと駆け出した。胸の中には興奮を通り越して不思議な快感が広がっていた。踏み出せないと思っていた一歩が、案外簡単に踏み出せてしまった。人間は一度決意を固めてしまえば、こんなにも容易く悪業を行えるものなのだと感動すら覚えた。

 勿論、このまま逃げ切れるなんて思っていない。いや、むしろ捕まるのは想定内だった。本当はこの盗んだダイヤモンドを彼女に届ける所まで成し遂げたかったが、流石にそれは難しいだろう。しかし、僕が強盗犯として警察に捕まりメディアで大々的に報じられれば、もしかしたら彼女の耳にもその知らせは届くかも知れない。それで上手くいくかは分からない。これが正しい方法かも分からない。しかし、僕は何とかしてこの止まりかけた時間と世界を動かすきっかけが欲しかったのだ。

 息を咳切って走る僕を、何人もの警備員達が声を荒げながら追いかけてくる。その足音は一瞬のうちにすぐ背後まで迫って来る。ああ、もうすぐ捕まる。そう思った時、縺れた右足が段差に躓いて体勢を崩してしまった。そのまま倒れ込む格好になり、目の前に地面がゆっくりと迫って来る。僕は目をギュッと瞑り、彼女の名を思い切り叫んだ。


《了》

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