第四章
第64話 闇の獣
透明なプラスチック板の向こうで、ゴトンッと
スーツ姿の池溝は片手で鞄を抱え、頬と肩でスマートフォンを挟んだまま、それを取り出した。
「ええ、はい。……え? 明日ですか?」
病院のエレベーターホール。話口の相手は門倉である。
『お前明日休みなんだろう? 当直でもあるのか?』
「いえ、それはありませんけど……」
『まさか合コンとか言わないだろうな』
「まさか。あり得ませんよ」
『だよな。お前学生の頃も、いくら誘ったって1回も来やしなかったしな』
「優秀な先輩と違って、私にはそんな余裕ありませんでしたからね。――それで時間は?」
池溝が上行きのボタンを押すと、並んだ扉のひとつが間もなく開き、それに乗る。
『15時だと都合がいい。場所はあとでメールで送る』
「分かりました。彼も一緒に?」
『じゃなきゃ意味無いだろ』
「ですよね。分かりました、ありがとうございます」
『ああ。じゃあ明日、ラボで』
エレベーターを降りた池溝は、物静かな廊下を進んで男性用の更衣室へ。そそくさと白衣に着換え、卓上のカードリーダーにIDを
その後ナースステーションに顔を出すと、朝の回診の準備を進めている二人の女性看護師が、宮廷雀よろしくピチパチとお喋りをしていた。
「おはよう」と池溝が声を掛けると、それでようやく彼の存在に気付いたようで、看護師らはにこやかに挨拶を返す。
「おはようございます、池溝先生」
「二人とも早いね。あ、田中さんは夜勤だっけ。それで何の話?」
池溝に他意は無く、何気なくそう訊いただけである。しかしその質問に、若い新人の看護師は口籠った。
「……?」
するともう一人が彼女の代わりに口を開く。
「あの、805のエリオンさんなんですけど……」
「エリオン君? 彼がどうしたの?」
「この子が昨日の夜、変なものを見たって言うんです」
「変なもの?」
首を傾げる池溝に、看護師が困惑の顔で語った内容はこうである――。
真夜中のナースコールを受けて、その患者の対応から戻る時のこと。暗闇の廊下に射す青い光があった。
それはエリオンの病室のドアから漏れ出していたが、ノックをしても返事が無い。それで彼女は、恐る恐るも中へと入って様子を確かめた。
するとベッドで眠る彼の身体が、掛け布団ごと宙に浮き、その全身が青く輝いていたのである。
彼女は慌ててステーションへと戻り、他の看護師を連れて再び病室に戻ると、しかし光は消え失せ、エリオンもいつもと変わらぬ様子で眠っていた、ということであった。
「――誰にも信じてもらえなくて、三浦さんには本気で怒られて……。心配してくれる人もいましたけど……でも本当に、絶対見たんです、私」
若い看護師は小さく拳を握り、
「うーん。私には何とも言えないけど、とりあえず数値に異常は無かったんだよね?」と、池溝は論点をずらしつつ
「はい……記録も正常でした」
「本人には何か訊いてみた?」
「いえ、昨夜はそれきりで、まだ――」
「じゃあ今朝の回診はエリオン君から始めようか。彼自身に心当たりが無いか、私がそれとなく話してみるよ」
「あ、ありがとうございます!」
大袈裟な礼をする彼女に、池溝はぎこちない笑顔で応えた。その心の裏では、一抹の不安、或いは小さな疑念の
***
赤く煌々と光る空――。カザルウォードの魔法が飛び散り、大量の炎は吹雪の如く基地を飲み込んだ。
指先ほどの大きさの『燃える蝿』が、地面や建物に留まると、その火力は一気に増大して、数メートルの火柱が立ち昇る。人間に触れれば瞬時に消し炭となり、燃やされた者は断末魔を上げる暇すらない。
その絶大な効果により、ダカルカン支部が紅蓮の山海と化すまでには、果たして
「あれは……?!」
その様子を、上空まで染め上げる炎を見て、離れた山中で戦うエイレとザガの、戦いの手が止まった。
エイレはザガの動きに気を配りながらも、尋常ならざる地獄の光景に、束の間言葉を失った。
(あれは殊能や兵器とは違う……魔法の類か? しかしあんな規模の魔法など――)
とは云え現実として、彼女の視界の何割かは、基地を燃やせど未だ半分が残る、燃える雲の如き物体で占められている。
(何という威力だ。追跡者を想定して、警備を残したのが仇になったか……? いや、
一方ザガもザガで、敵を食い止める為に残ったアヤメとギルオートの身を案じていた。
(
しかしいずれにせよ、まずは目の前の敵を倒さないことには、次の行動を起こすことも出来ない――その点に関して、エイレとザガの思惑は一致していた。
虫達の鳴き声か羽音か、それとも熱気に揺さぶられる大気の音であるのか――定かではないものの、ゴオオオという山鳴りに似た低音が響いてくる。
「………………」
早期決着を望む二人は、互いに殺意を向け直すと、無言で身構えた。――エイレは爪痕が刻まれたレールガンを投げ捨て、腰の後ろから逆手にナイフを引き抜く。対するザガは前脚を曲げて、頭を低くして唸り声を上げた。
じわりと緊張が高まり、それが弾ける寸前――。
「あらあら、あらぁん?」
甘く絡み付く猫撫で声のような響きが、しかしその場の空気を
「魔王様ったら、いきなり禁呪で
闇の中から、
「?!」
ザガは突如出現した彼女に戸惑いながらも、グルルと牙を剥き出す。
(気配も臭いも無く……だがなんと醜悪な悪意だ。この女、並の魔族ではあるまい。何者だ?)
その疑問の答えを、図らずとも口にするエイレ。
「……ニムヴァエラ、だったな。貴様」
「お久しぶりねん、モリドのお嬢ちゃん。お邪魔をしに来たわん」
「チッ、魔族め……。やはり休戦協定など、最初から守るつもりは無かったか」
「あら、失礼ねん。守ったわよん? だって『神の権限をどちらかが手に入れるまでは』、という約束でしょう? アナタ達がアレを手に入れたみたいだから、それはオワリ。ご苦労さまん」
「ふざけたことを……」
エイレは憎々しく歯を鳴らすと、冷たい殺気をザガからニムヴァエラへと移す。それを受けて身悶えするニムヴァエラ。
「あはぁん、アナタから相手してくれるのん? いいわよぉ……愉しませてア・ゲ・ル」
唇を舐めた舌がズルリと胸元まで伸びて、
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