魔法使いの教室
佐々木ヒロ
魔法使いの戦い
Prologue:1 魔法使いの旅立ち
「おや」
朝。霧の都ロンドンを一望できるパーラメントヒルの展望台。学院の
一面の緑が覆うハムステッドヒースの丘に吹くロンドンの湿った風が、朝方冷えた外気ながら心地よいとすら感じられる。
早朝、お日様も顔を出さない5時前だ。こんなに早い時間を選んだにもかかわらず、私を好敵手と認定して効かないジョン=ソロモン・レイドシリウス先輩その人は、仁王立ちした姿勢でそこに待ち構えていた。
危うく、「おや」ではなく「げ」と反応していたかもしれないくらいに、私はこの人が苦手だった。
「おはよう。カレンくん」
言って、垂れた鼻水を鼻ですする。
一体いつから待ち伏せていたのかジョン先輩は、まだ春も浅い寒々しい外気に中てられてか、震えた声音で私を迎え入れた。
「おはようございます、ジョン先輩。早いですね、一体いつからここに?」
「三日前だよ」
…………まじかこの人。
よっぽど暇なのか、この人は。……しかし、それこそあり得ない。このソロモン王の再来とまで呼ばれた天才召喚術師であるジョン先輩の一分一秒は、私なんか遠く及ばないくらい貴重なはずだ。
「……何故そんな時間を無駄にするような真似を――」
言いかけて、ジョン先輩がジェスチャーで静止する。
ズズズ、と再び鼻をすすって、ゆっくりと口を開く。
「……きみ、なにか思い違いをしちゃいないかい? 言っとくが、僕は怒ってるんだよ?」
ヒリヒリとした空気が周囲を奔走する。針が肌を刺す錯覚と、それほどまでに鋭利な殺気。ジョン先輩は、文字通り怒っている。
先輩のレポートにコーヒーをこぼしたこととか、誤まって先輩の使い魔を殺しちゃったこととか、寝てる先輩の顔にらくがきしたこととか……思い当たる節は数えきれないほどあるので勘弁してください。
「僕は君の
プンプンと子供のように頬を膨らます先輩。………なんだ、やっぱりこの人は、ジョン先輩なんだ。
「それについてはすみません。先輩と本気で勝負なんて、怖くてとてもとても」
「まったく。あり得ないだろ、『
言って、不適な笑みを浮かべて、続けるようにジョン先輩はその饒舌に油を乗せる。
「そこで、簡易的な勝負を思いついたんだ。互いに
確かに簡単だ。これなら周りに被害を出すことなく密かに決着をつけることができる。
基本的に、
しかし、この
「では、始めるとしよう」
言って、服の袖からメモ帳サイズの
パラパラとページが暴れるような勢いで勝手に捲られていく。ピタリと止まったそのページから、浮き出るように魔法陣が光りその真名を囁く。
「
何もなかった虚空から、黒い靄のようなものが現れた。それらが収束し、ひとつの生命のごとく脈動する。――これだ、この人は使役する悪魔の真名を唱えるだけで、そいつを召喚する事が出来る。
……バール。たしかレメゲトン、ゴエティアに記された高位の上級悪魔。メソポタミア神話における主神の銘までもを冠する地獄の第一公王……。なるほど、ジョン先輩の持ち駒の中でも有数の一体、というわけだ。その能力は確か―――
「擬態」
「ほう」
ご名答、と賞賛して今度はジョン先輩が口を開く。
「そうさ、コイツはバール。その権威は擬態。この世の物質、概念をその身に擬態することが出来る。さしずめ、この姿はここロンドンの名物たる霧さ。――さて、霧に物理攻撃は効かないよ。どうやって攻略するかな?」
そう。相手は霧だ。靄――水蒸気が凝結し空気中に漂っているだけの、いわば液体。ただこの場合、物理的な対処はほとんどが無意味であろう。実態が曖昧な相手。であれば、その性質を理解し弱点を突く他に、ダメージを与える術はない。
「ふふん」
「ん……? なんだい、その余裕そうな笑みは」
「先輩――先輩は一つ、大きなミスを犯しました」
懐より、一本の指揮棒を通り出して、囁くように呟く。
「――
瞬間。地面から同じく靄――否、砂塵が竜巻のごとく吹き荒れる。
一心不乱に黒い靄を覆いつくし絡み合う砂塵は、あっという間に霧状のバールを消滅させた。霧とは、つまり水だ。そこに微細な不純物――つまりは砂やホコリのようなものが混じればどうなるか。例で言えばビーチとかで作る砂の城。砂を固めるため際に微量の水を要するような、あれと一緒。
「先輩の敗因は、私にコイツの正体が霧であると宣言した事です。霧であれば、対処はいくらでも可能です」
ぐぬぬぬ……と心底悔しそうに歯ぎしりする先輩。
勝負を仕掛けてきた際、先輩の顔は既に勝ちを確信していた。相当作戦を練ってのことであれば、それはそれはショックな結果だろう。
「……はあ、負けた負けた。いや、恐れ入ったよ。流石はカレンくんだ」
両者共に得物を収める。もう思い残す事はないよ、というジョンの言葉に、少しだけ首を傾げる。
「本当の本当に、このためだけにこんな朝早くからご足労を?」
「当たり前じゃないか。言っただろう、僕はキミのライバルなんだから」
そんな、屈託のないジョンの瞳に、やれやれ、と肩をすくめる。
後ろへと踵を反し、足元に転がっているアタッシュケースを手に取る。砂をかぶったとんがり帽子を頭に乗せて、どこからともなく竹箒を取り出して、言う。
「私も、先輩との戦いは楽しかったです。機会があったらまた、どこかで」
「あぁ、機会があれば、また」
言葉を交わし、お別れを終えようと箒に跨る。
ふわりと宙に浮く体躯。いや、浮くと言うのならそれは箒が、だ。カレンの念に呼応し、自らの使命を思い出したかのように、当然の如く跨る奏者の体躯を持ち上げる。
「――おっと、そうだ。実の所、日本へは何しに行くんだい?」
飛び立とうと思い立ったその時、最後の最期でジョン先輩の呼び止めを喰らった。
「まさか本当に、彼女のためだけ――というわけではないだろう? 本当の理由は、また他にあると見た」
「あ、バレちゃいました?」
クスリと微笑んで、いたずらっ子の如く無邪気に笑う。対してジョンは、やっぱり、と呆れたように溜息を零す。
「で、実際は何しに帰るのさ。キミの祖国に」
ジョンの問いに、微笑みだけ返して、背を向けた。
「ははぁ、私。――少々、魔法使いの教師をやろうと思いまして」
微笑みを最後に、東雲カレンは窓を蹴った。古びた庭箒に跨り空高く、どこまでも――。
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