硝子細工のアネモネの花

六花 ちづる

硝子細工のアネモネの花

 

 ショーコ、と名乗った少女は、かわいそうなくらいに、頭がおかしかった。

 硝子玉のようなまんまるの瞳は、陽に照らされる度にきらきらと極彩色に輝いた。この薄汚れた灰色の世界で、彼女だけが、その色をまだ失っていない。

 ハル、と。彼女はいつもぼくをそう呼んだ。

 ハルと付き合えなかったら、わたし、死んでしまうわ!

 随分と芝居がかった話し方をする少女だったのだ。彼女はいつも満開の笑顔でぼくを振り向く。それはあまりにも眩しすぎくらいの光で、だからぼくは、その笑顔を、ただの一度だって真っ直ぐに見つめ返してやれていない。


 セミロングの美しい髪が揺れるのを、ぼくはいつも視界の端に捉えていた。ショーコの髪が綺麗に整っているところなんて見たこともないのだけれど、そもそも整っているどころかきちんと切り揃えられてすらいなかったのだけれど、何故だかとても美しく見えたのだった。一度でいいから彼女の髪に触れてみたいと、ぼんやりと願ってしまう程度には。

ああでも、ぼくには、手を伸ばす勇気なんてありはしないのだ。今までも、これからも。


 ショーコは時折、おかしなことを口にする。彼女は頭がおかしいので、仕方のないことだった。ぼくはいつもそれを、適当にうんうんと頷いて聞き流すのだ。相槌さえ打てば、彼女は大抵満足する。

 ハルはわたしの言葉を聞いてくれるから好きよ!

 ショーコがそう言うのを聞き流そうとして、失敗した。好きとはなんだ、と、ぼくは足りない頭で一生懸命悩むのだ。


 ショーコの身体はいつだって鮮やかな色をしていた。赤青紫、灰色の世界に慣れ切ったぼくの目には痛いほどの色彩だった。

 いつだったか、ショーコが虹色を纏ってぼくの元へやってきたことがあった。見慣れない、ひたすらに色をぶちまけたような鮮やかな彼女に、ぼくは釘付けになった。

 綺麗だ、と、口をついて出た言葉を、ぼくが自分で認識するよりも早く、ショーコが空気を震わせた。

 綺麗でしょ。

 いつでも真っ直ぐにこちらを見据えていた硝子細工の瞳が、この時だけ揺らいでいた理由を、ぼくは結局彼女に訊けないでいる。ただ、あの美しい色彩をもう一度見てみたい、と今でも思っている。


 ショーコがずぶ濡れで姿を現した日は、日差しの暖かい穏やかな日だった。彼女はいつものように、ぼくから少し距離を取ったところに佇む。頬に張り付いた髪を伝って水滴が地面に落ちるのを見て、何故だか生唾を飲み込んだ、ような気がする。

きっと随分と前のことなので、あまり鮮明に思い出すことはできない。はっきりと覚えているのは、後にも先にも見たことのない、柔らかい桃色が薄っすらと彼女に透けて見えたということだけだ。

 今日は暖かいから、これくらいすぐに乾いてしまうわ。

 ショーコが澄ましてそう言うのを、ぼくはそういう問題なのか、と思ってただ聞いていた。口にはしなかった。


 ある日のショーコは、ひどくご機嫌だった。

 今ならわたし、なんだってできるわ。

 そう言って、ひらりとこちらに寄ってきた。彼女の棒のような足が軽々と柵を越えるのを横目に見ながら、世界征服とか? と呟く。ショーコは笑ってくれた。

 そうね、世界を征服したらハルにあげる。

 彼女がぼくに求めているのがこんな陳腐な言葉ひとつではないことは、ほんとうは、もうとっくに分かっていた。ぼくは、何も言えなくなる。

 ハル、見て、空が綺麗よ。

 淀んだモノクロに引っ掻いたような白い線が浮かぶ上空を見て、ショーコはそんなことを言う。細い腕が何かを求めて持ち上がるのに、必死で気付かないふりをした。

 ハルは空を飛べる?

 許して、と言いそうになるのをなんとか堪える。飛べないよ、平静を装ってそう答えるぼくの声が、震えて聞こえませんように。


 わたしは飛べるわ。


 頭のおかしいかわいそうな少女が、最後の世界を踏みしめて一歩駆け出すのが、まるでスローモーションのように鮮明に目に映った。


 意気地なしの手が空を切り、何も掴めず弧を描くのを目で追った。俯いた視線の奥に、紅色の美しい花が一輪開いた。遅れて耳に届く、世界の終わる音と、観客のざわめき。

 少女が最期に色を遺したこの悲しい世界で、結局、飛べないぼくはひとりで地を這って生き続けなければいけないのだ。


 サヨナラ、少女。

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硝子細工のアネモネの花 六花 ちづる @chidururikka

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