君が泣いてる夢を見た

六花 ちづる

君が泣いてる夢を見た


 鳴り止まない不協和音が、アルコール漬けの脳に響く。雨粒、安物のビニール傘、アスファルト、行き交う喧騒。それから、到底似合っているとは思えないワンピースに、新調したばかりのハイヒール。雨の日にする格好ではなかった。防ぎきれなかった雨をたっぷりと染み込ませて重さを増したそれを、一刻も早く脱ぎ捨ててしまいたかった。

 陽はとっくに沈んでいる、それどころか日付だってもう変わっている。雨が降っていて、暗くて、でも馬鹿みたいなネオンが疲れた目に眩しくて、思わず目を瞑ったら、瞼の裏で輝きが反射した。痛い。酔った状態で目を閉じたまま人混みの中を歩けるほど器用ではないので、都会の夜を、雨の中を、薄目を開けて、早足で、下を向いて歩いた。慣れないハイヒールで転んでしまわないように。



 騒がしい繁華街を抜けて、駅前のロータリーで、ふと、歩みを止めた。規則的に並ぶちっぽけな街路樹の一本、その根元に座り込んで、バラードを奏でる若い男が居た。雨音に混じって聴こえる、アコースティックギターの、どこか懐かしい、小さな音色。引き攣るような音。俯く顔に掛かる長めの前髪を水滴が伝って、弦の上に落ちていくのが、なんだかとても綺麗に見えて、思わず見蕩れてしまって、ああ、でも、目が離せない訳は、それだけじゃない。わかっていた。この空気を、わたしは、知っている。

 名前も知らない曲が静かに終わる。躊躇うこともせず彼の目の前まで歩を進めて、湿った空気を吸い込んだ。

「ミキちゃん」

 自分でも驚くくらい普段通りの声が出た。驚いたようにこちらを見上げる顔は、それでも、やっぱり、見慣れた無表情だった。



 ミキちゃん。三樹雄ちゃん。高校時代の部活の、無愛想で可愛くない、可愛い後輩。女所帯の吹奏楽部で、いつも無表情のままコントラバスを奏でていた彼の愛称。可愛げも愛嬌もないミキちゃんに話しかけたり面倒を見たりするのは、決まってわたしだった。同じバスパートだからだとか、男子は少ないから肩身が狭そうだとか、最初はそんな軽い理由だったはずなのに。気付けば、彼の隣を心地好く感じるようになっていた。いつからかはわからない。ただ、偶に発せられる落ち着いた声、弦を押さえる長い指、俯いた横顔、そういう、何でもないようなこと、静かに流れる時間、それが堪らなく好きだった。



「……ちゃん付けはやめろって、俺、いつも言ってますよね。アヤ先輩」

 数年ぶりに聴く大好きな声は、雨音に掻き消されてしまいそうで、なんだかそれが、酷く勿体無く思えてしまったから。服が汚れるのも構わずに、地面に膝を着いて、傘を放り出して、空いた両手の掌で目の前の骨ばった手を包み込んだ。

「楽器は、濡らしちゃ、駄目だよ……」

「酒臭い、離れろ」

 少しだけ歪められる表情。この微細な変化を見抜ける優越感を、そんなもの今の今まで忘れていたのに、こんなにも簡単に、一瞬で蘇る。思い出してしまう。

「雨宿りしにおいでよ、ね」

 放したくなくて両手に力を込める。記憶の中のそれより幾分か細くなっている手首が、なんとなく、居た堪れない。余りにも陳腐で使い古された誘い文句だったけれど、意外と素直で従順な後輩は、黙って濡れたギターを濡れたケースに仕舞って、手を引かれるまま大人しくわたしに着いて来てくれた。転がったままのビニール傘も、きちんと拾い上げて。



 一人暮らしの狭いアパートの、狭い玄関で、びしょ濡れのまま抱きすくめられる。その頃には酔いも殆ど醒めていて、何してるんだろう、と思わないでもなかったけれど、それでもまだどこか冷静になりきれないわたしがいて、だから、抱きしめ返してしまったのも仕方ないのだ。

「こんな夜中に、男連れ込んで、いいんですか先輩」

「なにが」

「彼氏、とか」

「いません。こないだ振られました」

 へえ、と。訊いてきたくせにあまり興味のなさそうな相槌に、なぜか安心した。

暫くしてから背中に回されていた腕が少し緩んだのを合図に、その腕をするりと抜け出す。脱衣所からタオルを数枚引っ掴んで、一枚を投げつけ、一枚で自分の髪を乱暴に拭い、残ったのを狭いベッドに敷き詰めた。

「大体拭いたら脱いで適当に置いといてよ、明日洗ってあげるから。もうわたし眠い寝ようミキちゃんほらおいで」

「なんなんですかそれ誘ってるんですか」

「え、やだ、親父臭いこと言わないで」

 雨と少しの泥がついたワンピースを脱ぎ捨てて、ああ、これはもう着られないな、と思うけれど、もう今はそんなことはどうでもよくて、さっさとベッドに上がりこむ。顔を顰めながらもきちんと言われたとおりに寄って来て、長い足を窮屈そうに縮こませながら隣に寝そべる年下の男が、どうしようもなく可愛くて愛しかった。



「……まだ起きてる?」

「寝ました」

「ねえ、あんなところで何してたの」

「ギターを、弾いてました」

「それは知ってる……」

 雑に誤魔化されて、それ以上踏み込んで訊くのはやめておいた。至近距離で音量を絞って発せられる声が、こそばゆい。

「そういうアンタは、何してたんですか」

「合コンの帰り」

「楽しかったですか」

「全然」

 素肌の背中に腕が回されて、でもそれは厭らしい動きなんてひとつもしなかったから、黙って好きにさせておいた。大して仲良くも無い大学の同級生と知らない男に囲まれるアルコールの充満した店なんかよりも、数年ぶりに会う連絡すら取っていなかったただの後輩の腕の中のほうが、よほど居心地がいい。

「ミキちゃん」

「はい」

「わたしね、多分、高校の頃ミキちゃんのこと好きだったよ」

「……その言い方、ずるいですよね」

 卒業後全く連絡寄越さなくなったくせに、一回も顔出しに来なかったくせに、彼氏とか作ってたくせに、と途端に饒舌になって延々わたしを詰るその小さな声が、まるで泣いているみたいに震えていた。からかってやろうかとも思ったけれど、それより、もうそろそろ眠気が限界で、だから、それはわたしの気のせいか、もしくは眠り始めの淡い夢だということにしてあげるのだ。もしかすると、余りに急展開過ぎるこの数時間の出来事がまるごとわたしの夢なのかもしれない。それならそれでいいと思う。ああ、でもお願い、夢ならまだ醒めないで。

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君が泣いてる夢を見た 六花 ちづる @chidururikka

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