20.田沼政治継続に向けての対策と江戸城電化計画
「
「やはりそうですか」
「更に囲い込むか、排除すべきか――」
二一世紀から持ち込んだ乾電池のカンテラが田沼の顔を照らす。
老中としての政務、訪問者の面会が一段落した時間だ。
俺は部屋の時計を確認した。二一世紀から持ち込んだ時計だ。
それは、九時ちょっと過ぎを示している。
田沼意次の江戸屋敷。
大書院の間だった。普段は大名などの家格高い者との面会に使われる部屋だ。
畳と木の香りのするこの部屋に、俺と田沼意次のふたりが二一世紀の灯りに照らされている。
「土岐殿から頂戴した書を見ても明らかだろうな」
「そうですか……」
俺は田沼意次に何冊かの歴史書を渡してある。
それと己の経験を照らし合わせての結論だろう。
田沼意次の失脚――
その直接の原因というか切っ掛けは、一〇代将軍の徳川家治の死だ。
原因は「脚気による心不全」とみられている。
足のむくみがあったという情報からの類推だが、当時の死因としては十分にあり得る。
まだ年齢は五〇だった。
その機会に動き出し、田沼失脚に暗躍したのが「一橋民部卿」だろうということになる。
徳川御三卿、一橋家当主だ。
その田沼意次の政敵である一橋民部卿でも、彼に全幅の信頼を置いている将軍・家治が生き続けていれば動くことは困難になる。
「家治様に『ビタミン剤』は? 田沼様」
「いきなりは、危険じゃな。土岐殿」
声を潜め田沼意次は言った。
「危険?」
「裏付けのない薬の利用は避けたい。何で揚げ足を取られるか分からぬ」
「いや…… ああ―― そういうことですか」
科学的に言えば問題は全く無い。
脚気は「ビタミンB1」の不足で起こる病気だ。
玄米ではなく「白米」を食べることが原因で起きる。
原因が分かるのは、かなり先だ。
あの有名な文豪であり軍医でもあった森鴎外も「細菌説」を頑なに信じ続けたと批判されている。
これも諸説あって、まだ評価は定まっていないが。
とにかく「脚気」が日本から駆逐されるのは近代以降。
一九五〇年以降だ。最近といっていい時代だ。
ビタミン剤を供給することで「脚気」は防げる。
しかし――
「上様に毒入れたって話になることですか」
「それよ……」
田沼意次は、将軍家治の様態が悪くなると、名医と評判の町医者二人に将軍を診せた。
そして、薬を出した。
その薬が「毒」という噂が城内に流れるのだ。
まだ七年先のことだ。
しかし、田沼意次にとっては「生々しい今」と言ってもいいくらいの体験だ。
「となると、普段の食事からですかね」
ビタミンBの多い食事。
豚肉がすぐに思い浮かぶ。江戸ならイノシシか?
後なんだ? 小豆とか大豆とか豆類。
蕎麦も良かったはずだ。いっそ、ぬか味噌の搾り実とか――
「それとて、変えるのは容易ではない」
俺の思考を遮り田沼意次が言った。
当時最高権力者の田沼意次でも、急激な変化は起こせない。
実力的には出来るかもしれない。
しかし、そのことで、政敵に「スキを見せる」可能性があるということか。
「しかし、将軍様の食事には毒見がいるはずでは?」
「確かに。普通であれば、そこまで案じることもないが……」
「要するに、田沼様が大きく動いたということではなく、自然流れの中での変化ですかね」
「そうするしかなかろうな――」
田沼意次の政敵は多い。
とくに、今は味方と思っている相手も実は油断がならない。
何がきっかけで言いがかりをかけられるか分かったものではないのだ。
そして、田沼政権の命綱は現在の将軍の家治だ。
政敵もそれを十分に理解しているだろう。
そして、現在警戒すべき相手。先ほども名の出た敵。
一橋民部卿――
徳川(一橋)治済だ。
御三卿、一橋徳川家の当主にして、次の十一代将軍、徳川家斉の実父だ。
「しかし…… こうなると吉宗公も面倒なことを残してくれたものよ……」
田沼意次が嘆息にまじえた呟きを漏らす。
もはやそれは愚痴。
「そうは言っても、吉宗様の時代までは戻れませんしね」
「そうであるがな……」
そもそも田沼家は、八代将軍の徳川吉宗が引っ張り上げたのだ。
実力重視、地縁主義の吉宗は田沼家にとって大恩人なのだ。
しかし今問題となっている御三卿なる「家」を作っちまったのも吉宗さん。
結構、無茶苦茶暴れん坊だよ。やっぱ。
御三卿は言ってみれば、将軍家の血筋を絶えさせないためのスペア。
領地は持っていないが、将軍に跡継ぎがいない場合、そこから将軍を出すことになる。
確かに「徳川家」が滅びないという点では、よかったかもしれない。
しかしそれだけ。
そうなると、そもそも「御三家」という存在があるわけで、彼らはどうなるの? となる。
だいたい、吉宗自身が、御三家の紀州出身だ。
とにかく、これによって城内の権力争いは複雑な様相を呈してくる。
陰謀渦巻く、権謀術策だ――
で、一橋民部卿のような巨魁も出てくるわけだ。
「
田沼意次はそう言って、ナッツ入りチョコを摘まんで口に入れる。
俺が二一世紀から持ち込んだものだ。
モニュモニュと口の中でチョコを転がし「すごく甘いなこれ」と呟く意次。
「甥っ子さんも、一橋家の家老を追放されちゃいますからねぇ」
「そうよなぁ‥…」
田沼意致は意次の甥だ。
そして、一橋家に入り家斉(豊千代)の次期将軍就任への運動を進めていたのだ。
要するに、この時点では一橋家と田沼家の利害は一致していた。
田沼意次は裏切られたのだ。
後世の視点で見れば、根本のところで、徳川(一橋)治済は、急進派の田沼意次とは相いれない物を持っていたと言うこともできる。
しかし、「一八世紀」の「江戸」の今に生きている田沼にとっては、予感を感じても、確実に未来が分かるモノではない。
治済は、手を組む相手を田沼の政敵である松平定信に変える。
しかし、その松平定信も己の邪魔となれば、切り捨てているわけだ。
治済の究極的な目標は、おそらく将軍の父として権勢を振るうこと。
松平定信とは敵の敵であるから組んだだけだが、それが出来るというのが恐ろしいのである。
そもそも、田安家から定信を白河家に養子に出したのも、このオッサンが黒幕といわれているのだ。定信から見ても田沼同様に憎むべき敵だ。
「もう少し、時を…… 家基様が生きておる時代まで…… あの時は動転しておった――」
田沼意次は、本来十一代の将軍になるはずだった家基の名を呟く。
時間は戻ったが、すでに家基は死んでいる。享年一八歳だ。
実は今年(1779年)の二月のことだから、まだ半年もたっていない。
「今さらそれは仕方ないですよ。田沼様」
「そうではあるがな。まあ、やり直しの機会を与えてくれた大元帥明王様には感謝の念しかない」
そうは言っても、田沼意次は家基が死ぬ前に戻れればよかったという思いはあるのだろう。
彼の死因には、毒殺説もある。
そして、その犯人が田沼意次であるという噂もある。
しかし、一〇代将軍の家治は田沼意次を高く評価している。
その直系を暗殺する理由は無いとは思う……
しかし――
「まずは、家治様の死を回避すること。そして、一橋民部卿には、懐柔の方がいいと思います」
俺は話を強引に戻す。田沼政治を継続させるために、これから何をすべきかが重要なのだ。
「懐柔か……」
「田沼家と組んだ方が「得」と思わせればいい。利用すれば、松平定信の抑え込みもできるかもしれない」
俺の言葉を聞ながら田沼意次は、今度は、柿の種を手に取る。
それを一気に口の中に放り込み、もしゃもしゃとやった。
「それも有りか……」
意次は咀嚼音に混ざる様な呟きを漏らす。
息子を殺された怒り、失脚した怒り――
七年前からやってきた田沼意次にとっては、生々しい怒りを覚える出来事なのだ。
それが、彼を後ろ暗い手段に駆り立てないという保証はない。
二一世紀の価値観で一八世紀を見てしまうのは誤断を呼びかねない。
それでも、いつの時代であっても敵の命を奪うような行動は最後の手段だ。
無駄な血を流さず勝利するのが上策だというのは、数千年前に出た結論だ。
そして、二一世紀でも一八世紀でもおそらくは正しい。
とにかく、己が損得を優先させる人間は懐柔すればいい。
その余地は十分にある。
むしろ、政治信念を持っている松平定信の方が、難敵になる可能性がある。
彼の政策、主張はこの時代であれば、かなり「理の有ること」なのだ。
そして、条件を限定するなら、危機的な状況を切り抜ける手腕も持っている。
ただ、そこには変化も進歩もない。
まあ、彼もそんなことを望んではいないのだから当たり前だけど。
田沼意次は口の中の物を流しこむようにしてお茶を飲んだ。
それは、江戸のものだ。
「おお、それはそうと。土岐殿――」
お茶を飲むと「にっ」と笑みを浮かべ田沼意次は言った。
笑みを浮かべると「善人」にはあまり見えない。
もうちょっと爽やかに笑えないモノかと思う。
これも、後世の評価の原因になったのではないかとチラリと思う。
「なんですか?」
「未来の品々、大奥でも評判よ……」
「ああ、そうですかぁ」
大奥には、二一世紀の化粧品とか、石鹸とかシャンプーを持ちこんでみた。
適当にネットで評判のモノを揃えて。
一応、XX染色体を持っているだろう京子にも訊いたが「ああ、私にイケナイお薬を飲ませて…… 先輩、そういうプレイが好きなんですか? ああ、濡れます。京子濡れちゃいます。じゃあ、この媚薬とか――」とかいって、怪しげなサイトを開いたので、思いきりビニールバットで叩いた。
ビニールバット五本目が必要になった。今度まとめ買いするか……
とにかく―― アホウのエロビッチ眼鏡チビは置いておくとしてもだ。
大奥対策も重要なのだ。
田沼意次の政治基盤を支える大きな部分。
それは大奥の支持だ。
なんせ、華美とか贅沢とか放置。
大奥の予算はノーチェックで通過。
おまけに、かなりの色男なのだ。田沼意次。
今は、ちょっとくたびれているけど。
「土岐殿―― エレキテルを作りだすカラクリをこちらにも持って来られぬか?」
ああ、それはいつか言ってくるだろうなぁと思ってましたよ。
すでに、源内邸では、ガソリンエンジンによる発電機がフル稼働している。
パソコンとプリンタを稼働させ、蔦屋と組んでの出版革命を起こす計画はすでに田沼意次には話してある。
とにかく、この時代において俺の絶対的な後ろ盾はこの人と、今はここにいないが、息子の意知なのだ。
そして、「発電機なるものがエレキテルを発し、カラクリを動かす」という仕組みを理解している。
そして、行灯やロウソクなど問題にならない灯りを供給したり、パソコンを起動したりできるわけだ。
江戸城という役所の中で、電気が使えれば、色々と役に立つことは間違いない。
しかし――
日本人本来の「新しいモノ好き」と「頑迷で保守的」な部分。
これが、江戸城内でどんな反応を示すか――
今一つ予測ができない。
「エレキテルとか持ち出して大丈夫ですか?」
「油代、ロウソク代を節約できるならば、反論もでまい。倹約なのであるからな」
「まあ、そうですけどね」
確かに「エレキテル」という考えはすでにあるわけだ。
「オランダなどのモノでなく、日本人が考え工夫したものであるとするなら、反対の理由もなかろう――」
田沼意次がそこまで言うなら、大丈夫なのかと俺は思う。
まあ、単純に「便利」ということ。
幕府が独占しているということ。
であれば、問題もないかもしれない。
「であるなら、源内さんの家で使っている発電機ではなく、別のモノを使いましょうよ」
「別の?」
「別の『エレキテル』ですよ。源内さんのとこのは、結構音も大きいですし、エレキレルの量も少ない」
江戸城内であれば、屋台で使う発電機程度の音は問題にならないかもしれない。
でも、何が言いがかりになるか分からんのだ。
そして、電力は大きい方がいいはずだだ。
「お堀の水を低いとこに流すことできますかね?」
「掘りの水か?」
意次は「いったい何をいっているの?」って感じで俺を見る。
「水車ってありますよね」
「ああ、この時代でもあるが――」
「あれを作れれば、それでエレキテルを動かせます」
俺は言った。簡易水力発電機だ。
燃料もいらないし、安定した電力供給が可能になる。
もし、可能であれば、この江戸城が一気に電化されるのである。
田沼意次は、ナッツチョコをまとめていくつか口の中に入れる。
時々ナッツをかみ砕く音が聞こえる。
「城の近くか?」
「出来ればですね。遠いとエレキテルを流すのが面倒ですよ」
ケーブルは延長できるが、雨風にさらされたらメンテとか大変だ。
できれば近くがいい。
田沼意次は「ふむ」という感じで頷いた。
「では、普請奉行に話してみるか」
田沼意次は言った。
それは「やる」と言ったのと同じ意味だと俺は理解するのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます