第19話 理由
古いマンションに警備の充実した玄関はない。
能登はマンションに着いたら、その足で2階まで登ろうと考えていたが、その必要はなかった。階段を降りた南口前ロータリーの端に、赤いポルシェが停まっていた。
そして、赤いポルシェとマンション玄関の間。
牧本が望月の手を握り、引きずるようにポルシェへと向っていた。
「牧本!」
叫んだつもりの声は、情けないほどに小さい。能登の声は、取っ組み合う2人には聞こえなかったらしい。能登はよろよろと進み、ポルシェの前に立つ。学生の頃ならば、何十キロだって顔色を変えずに走れたのに。こんなことならば鍛え直しておけば良かった。脇腹が痛い。
能登が膝に手をやって息を整えていると、ようやく2人は能登に気付いた。
「お前、能登か?」
驚く牧本につられて、望月がこちらを見る。
「能登さん?」
望月は信じられないといった表情で呟いた。
望月がようやく自分の存在を認めた。その事実を前に、能登は笑う。
「こんなところで会うなんて、奇遇だね」
しかし、格好を付けている場合ではない。能登は牧本に向って言った。
「牧本、望月さんを離せ」
牧本が能登の登場に驚いたのはもつかの間だ。牧本はすでに、能登のことを食って掛かるように睨みつけている。
「どうしてここにいる?」
「牧本こそ」
「能登には関係ないだろ」
「いや、関係ある」
能登の言葉に刺激され、牧本は苛立った様子で言う。
「見れば分かるだろ。俺は今から、望月とデートなんだよ。中学の頃ならまだしも、今ならお前らのことは関係ない。俺は1人の男として、望月を連れていく」
牧本が望月の腕を無遠慮に引っ張り、望月は思わず「痛い」と嘆いた。
「だから待て」
能登が再度呼び止める。しかし、牧本はなお能登の横を通り過ぎようとする。望月も「放して」と訴えるが、牧本は気にしない。愛の伝道師が聞いて呆れる。
能登は牧本の手首を掴んだ。
牧本の体が止まる。能登が押さえつけたのではなく、牧本が強引に進まなかった。牧本は私との話し合いに応じてくれるのだろうか。
「手を離せ」
牧本が能登を睨みつける。能登はそれに対峙するため、顔を引き締める。能登は内心、牧本に殴られるのではないかと冷や冷やしていた。能登の腕力では牧本に敵わないだろう。笑う膝が情けなかった。不安が表情に出ないよう気をつける。
大丈夫だ。私の知っている牧本は、そこまで酷い奴ではない。能登は自分に言い聞かせる。
「……付き合ってるんだよ」
「なんだと?」
能登は仕方なく、咄嗟に思いついた作戦を口にした。
「私と望月は、付き合ってるんだ」
能登の作戦はシンプルだった。
望月はすでに付き合っている相手がいて、だから牧本からの誘いは受けられない。望月の付き合っている相手とは能登のことだから、能登には望月を誘おうとしている牧本を止める権利がある。思い付きを口にした割には、上出来だと思う。
ただ、この作戦には大きな穴がある。もしも望月が能登に話を合わせてくれなければ、この作戦は全く意味を成さない。突然現れた能登に対して、望月は話を合わせてくれるだろうか。
「馬鹿なことを言うな」
牧本は能登の話を頭から信用していないようだった。
余裕を持つ牧本の対応に、能登は不安を覚える。冷静に考えれば、私と望月が付き合っているなど、嘘くさい話にしか聞こえなかったかも知れない。それとも、牧本が取っ組み合いから開放されたことで、先ほどよりも落ち着いて見えるだけなのか。
牧本に倣うわけではないが、能登も姿勢を崩すわけには行かない。
「本当だ。嘘だと思うなら、望月にも聞いてみれば良い」
「そうだな、それが1番だ」
牧本は自信があるのか、能登の提案にすんなりと乗った。
「望月、嘘なんだろ?」
能登はここが正念場だと思う
望月が能登に話を合わせてくれることが前提だが、急に芝居につき合わせた望月の言葉では、どう転んでも嘘臭くなるに違いない。だから、能登は望月の言葉を補強しようと考えていた。能登は望月のことが本当に好きなのだから。本心をぶつけてやれば、それで良い。
能登と牧本は、望月の言葉を待った。
駅前ロータリーは、一転して水を打ったように静かになった。能登の耳に、踏み切りの警報音が小さく届いた。時刻表通りに、次の列車が満谷駅へと到着する。
「隠していてごめんなさい」
能登の予想と違い、望月は戸惑ってなどいなかった。
「牧本は顔もスタイルも良いし、性格だって素敵よ。でも、私は牧本とは付き合えないと言ったわね。私が牧本と付き合えない、本当の理由を言うわ」
3人が同級生だった頃の、頭の回転が速く、堂々として気が強い望月。望月の姿は、能登の目に欠点の見えない同級生として映った。
「私、本当は能登さんと付き合ってる。だから、牧本とは付き合えない」
望月が自然と牧本から離れ、能登に近づく。
望月は能登に抱きついた。望月の胸が能登の肘に当たる。
そこで牧本の表情が崩れた。
「嘘だ」
牧本は吐き捨てる。
「能登と望月が付き合ってるだと?」
牧本の姿勢は変わらない。しかし、話し合いにはその場の流れがある。望月の演技で、場の流れは能登に傾いた。それに安堵をつきながらも、能登は気恥ずかしくなって俯いた。自分が立てた作戦であったとしても、ここまで公言されるとむず痒い。
「悪い?」
「悪いかって……」
牧本は望月の言葉に言い淀む。
――なぜならば。
能登の悩みの根源を、牧本は困惑しながら口にした。
「お前ら、女同士だろ?」
能登は唾を飲み込む。
そう、能登と望月は同姓だ。中学生の能登が受け入れられなかったように、牧本も受け入れることができなかったらしい。だが、それが何だ。
「この世界には、何百万人と同姓愛者がいる。それは突然変異でもなんでもない。牧本の目の前に同性愛者がいたって、不思議じゃない」
能登の言葉を、牧本は否定しなかった。
「勝てないわけだ」
牧本はぽつりと呟くと、身体を翻した。能登は牧本の手首を掴んだままで、反動によろける。牧本が「離せ」と短く言い、能登は慌てて手を離す。
牧本はポルシェに乗り込んだ。素早くエンジンを掛け、そのままロータリーから飛び出して行く。能登と望月を残して、ポルシェが小さくなっていく。
呆然とする能登に対して、望月は悪戯っぽく笑った。
望月の笑みで、能登の時間はまた動き始める。
「名演技だったね」
「望月の方こそ」
牧本が去ったことで、能登はようやく生き返った気がした。能登は深呼吸をして、震える足を叱咤する。
「能登さんがこんなに積極的だなんて知らなかったよ」
望月はそう言いながら笑い続けている。
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