黒猫が三毛猫に変わるまで

星浦 翼

第1話 驚くべきことが起きた

 能登は急いで自転車から降り、バスターミナルを抜けて満谷駅の改札へと向かった。


 満谷駅は東西に伸びる関西線に覆い被さる構造をしている。車道にかかる歩道橋をイメージすれば分かりやすいだろう。満谷駅の入り口は北と南の2つがあり、どちらも2階へと続く階段になっている。満谷駅のホームに降りるためには、一旦2階に昇り、そこから改札を抜けて1階に降りるしかない。


 1階に改札があれば、階段の昇り降りをしなくても済むのに。


 能登は荒い吐息を隠そうともせずに、北口の階段を登る。


 学生時代に遅刻をしたことのない能登は、それを就職活動の売りにさえしていた。他に取り立てて特技がなかったわけではないけれど、それが力になったことも確かだろう。企業が部活や生活態度など、根本的な要因を重視するのは本当らしい。能登は自分に義務付けているわけではないが、今の職場に就いてから一度も遅刻をしていない。


 改札を抜けると、次は降りだ。


 ここまで来てしまえば、駅のホームを見下ろすことができる。


 ホームには急行の車両が覗いていた。さらに、顔見知りの駅員が大きく手招きしている。能登の足は悲鳴を上げていたが、駅員の心意気に応えるためにも走り切る。


 滑り込むように乗車すると、能登はほっと胸をなで下ろした。


 秋分の日が過ぎたと言っても、スーツ姿で走れば汗だくだ。首元にはうっすらと汗をかいていた。座席は埋まっており、座ることもできない。毎朝通り、1両目に乗ることも叶わなかった。


 能登はつり革を掴み、視線を車窓へと移す。


 満谷駅に停車している車窓からの眺めは、駅前のマンションに閉ざされている。


 子供の頃から満谷駅を最寄り駅として利用してきた能登にとって、マンションの裏側は見慣れた光景だった。そのマンションは満谷駅と負けず劣らずの築年数を誇り、1階裏側に設置された排気ダクトや貯水タンクには、雨の這った痕が目立っている。汚れを直視しても楽しくないため、能登は2階へと視線を移した。2階から最上階までは各階とも手すりのついた通路となっており、通路には部屋番号の記された扉が幾重にも並んでいた。


 能登にとって、マンションの裏側を眺め〝なぜ自分が、あの扉の1つに住んでいないのかと考える〟ことが習慣になっていた。


 能登がいつも通りにマンションを眺めていると、ちょうど見上げていた正面の扉が開いた。


 扉から出てきたのはスーツ姿の女性だった。彼女はこれから出勤なのだろう。そそくさと玄関から出ると、こちらに背を向けて鍵をかけ始めた。


 扉が開く前から見ていたとしても、彼女を見続けるのは趣味が悪い。能登は意識的に視線を逸らそうとしたが、それを実行することはできなかった。


 鍵をかけ終わった彼女が、くるりと回り、こちらを見つめたからだ。


 能登は彼女と目が合ってしまった。


 マンションの2階から車両までの距離は15メートルほどで、目が合ったと感じたのは能登だけかも知れない。だが、その距離は彼女の顔が十分に見てとれる距離でもある。能登の脳に〝彼女はとても美人だぞ〟という情報が伝わるが、能登は同時に、女性の胸元を見てしまったような居心地の悪さも感じた。能登は今度こそ視線を逸らそうとする。


 しかし、またしてもそれは叶わなかった。


 その瞬間に彼女の口が開いたのだ。


 車窓からの眺めなので、当然だが声は届かない。それは愛の告白かも知れないし、無粋な視線を寄こす者への嫌味かも知れない。現実的に考えれば、答えは間違いなく後者だ。彼女に対する不信からか、能登はまたしても視線を逸らすことができなかった。


 自動ドアが閉まり、微弱な振動とモーター音が車内の床を伝う。


 狙ったわけではないにしろ、能登は電車が動き出すその時まで、彼女のことを見つめてしまった。


 そこで、驚くべきことが起きた。


 彼女が能登を見つめたままで、手を振っていた。


 能登はぎょっとして周りを見渡す。しかし、能登の周りにいるのは、新聞に目を落としたオヤジや、眠たそうなサラリーマン、携帯電話をいじる学生ばかりだ。彼女が手を振っているような相手は見つからない。


 電車が動き始めたことで、能登は軽い重力を感じた。重力に引っ張られるまま、乗客が波打つように揺れる。車内アナウンスが次の停車駅名を繰り返している。


 能登の視界からいなくなるまで、彼女は手を振り続けていた。

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