第37話 口づけの仕方も知らない

「どこでどうしていたの?」


 平田は部屋の扉のすぐ前で、少女を固く抱きしめたまま尋ねた。

 大層疲れて青ざめた顔をしていたので、すぐにでも畳の部屋に上げたかったのだが、ここでこうしていたいと和子は言い張った。

 幼い舌足らずの口調と声だったが、彼女は昭和20年3月9日の夜に愛し合った昭島和子だった。


「わからない」


 和子は一層不安げな様子を見せて腕を伸ばし、平田の首にしがみついた。


「何も覚えていないの。どこから来たのかもわからない」

「お父さんとお母さんは? 親はいたんだろう? 一緒に暮らしてたんだろう?」

「わからない。親っていたのかな……家もあったはずなのに、どこでどう住んでいたか忘れちゃってる」


 少女にどう接したらいいのか平田は混乱していた。

 和子ではあるが自分が知っている彼女とも違う。

 丸眼鏡をはずして少女を見た。

 すると世界の輪郭がぼやけて、違和感が多少軽くなった。

 こうやってわざと曖昧にして初めて、俺は俺の女を正視が出来るのかもしれない。

 一方目の前の少女は、瓶底眼鏡をはずし大きな目をしばたかせて自分を見る平田に微笑を向けた。


「おもしろい。そういう顔初めて見た」

「そうか? で、君はどうやってここに来たの?」

「それもわからなくて……でも、気が付いたらこの家に向かっていたの。ここにあたしの場所があるって、それしか考えないで歩いてた」

「和子……ちゃんの場所?」


 平田は、目の前の幼い彼女を呼び捨てにするのをためらった。


「いきなりちゃんづけっておかしい」


 少女は口の片端だけで笑った。


「和子って、呼び捨てにすることが怖いんだ」

「だよね。あたしも怖い。自分が誰なのかわからない。でも」


 和子は平田の膝にそっと頭をのせた。

 男の膝の上から彼を見る目は、あどけない面立ちや体つきと反した、大人びた脆い色気をたたえている。


「でも平田さんを好きになって、平田さんも私を好きになってくれて、ずっと二人ともお互いを探してたって事はわかるわ」

「降りなさい」

「いや。こうしていたい」

「降りろ」


 自分にひたと照準を合わせ情熱を向けてくる少女に、心動かされないわけではない。

 むしろ逆で、そのひたむきさに欲情せずにはいられなかったが、平田は必死に堪えた。

 彼女の言葉を信じるなら、まだ12歳。

 だがもっと幼く見える。

 ほんの子供なのだ。


「じゃ降りるから愛して」

「そんなことを大人に言うもんじゃない」

「平田さんは子供よ。大人の体をした、あたしと同じ子供よ。だから愛してる」


 和子は何度も何度も愛してほしいと口にした。


「お願いだからこれで勘弁してくれ」


 平田は少女のか細い体を抱きしめ、小さな口を唇でふさいだ。

 だが、少女は驚いたように歯を食いしばり、平田の唇も舌も受け入れない。

 愛してと言葉は繰り返すのに、彼女は口づけの仕方も知らなかった。


 足が痛いと駄々をこねる12歳の和子をひょいと横抱きにして、平田は敷きっぱなしの自分の布団に下ろそうとした。

 だがすぐに考え直し、結局畳んだ布団の上に座らせた。

 白いブラウスに青いスカートの少女が自分の布団に寝るという図は、生々しすぎる。


「ごろんと横になりたかったなあ」


 おさげ髪を解きながら、和子は残念そうに頬を膨らませた。


「馬鹿を言うんじゃない。俺の汗が染みていて臭いかもしれないんだぞ」

「私、あなたの汗の匂い好きよ。さっき抱っこしてくれた時に充分かいだわ」


 そんなに汗臭かったか、昨日も風呂に入るの忘れていたからなあ。

 平田が思わず自分の体をかぐ隙に、和子はひょいと脇から顔を出してちゃぶ台をのぞき込んだ。


「お腹すいちゃった。平田さんは何食べてたの?」


 卓上に汚く食べ散らかした、爪が着いたままの鶏の脚と、目をつぶった鶏の頭を見てしまった和子は、あわてて顔を覆って布団に突っ伏した。


「気持ち悪い……平田さん妖怪みたい……」

「すまんすまん。南国の食べ方だよ。安くて栄養があるんだけどなあ」

「ごめん、ちょっと吐きそう……」

「なにか調達してくるから待っててくれ」


平田は残りの鶏を、流しの目に触れないところに片付けた。



 顔にかかるざんばら髪をひもで一つに縛り、彼は街に出た。

 ついでに浴衣の帯も締め直し、顔も洗った。

 籐の買い物かごを下げ、下駄を履いた足も急ぎ足で、からころと今度は軽快な音を立てる。

 すれ違う近所の婆さんたちが、誰? という顔で見ていく。

 髪を結わえて顔をすっきりと出しただけで、他人の目がこうも変わるものか。

 余程今までが酷かったんだなと彼はぼんやり思った。

 千束通りの商店街に再び戻った彼は、とりあえず「普通の」食べものを探した。

 女学校に入る前の女の子が喜んで食べそうなもの……卵とパンと、ジャムとバターとサイダーを買い求めた。

 それに季節の初夏の果物、枇杷も。

 卵をバターで目玉焼きにし、パンにジャムとバターを添え、テーブルに並べた。あまり冷えていないサイダーの栓を抜き、黄金色に色づいた枇杷は洗ってそのまま皿に盛る。

 二人は小さなちゃぶ台を挟んで向かい合い、ままごとのような夕餉をとった。



 夜がすっかりと更け、奥浅草の路地の奥は梅雨の晴れ間特有の、ねっとりとした湿気の闇に包まれた。

 でも気温は決して高くなくむしろ梅雨寒。

 まとわりつくようなぼんやりとした霧の中、たまに夜烏の鳴き交わす声が響く。

 平田の長屋はぴたりと雨戸が閉まっていた。

 雨戸の外には屋根の雨樋から下げた縄に、濃い緑の葉のユウガオが這い上り、大きな白い花を咲かせている。


 自分の背後から差し込むほのかな光に、和子は目を覚ました。

 男の汗の匂いのする煎餅布団に包まって、いつの間にか眠っていたのだ。

 たった一組の布団を少女に使わせ、部屋の主の平田は部屋の隅っこで座卓に向かい仕事をしていた。

 隅と言っても狭い4畳半の長屋である。

 いくら灯りが少女の元へ行かないように遮る姿勢をとっていても、青年の丸めた背中や肩、筆を動かす腕の間から漏れて、眠る和子の顔にかかるのだ。

 平田は机に向かい一心に絵を描いていた。

 美術絵画ではなく、新作の紬の柄の下絵である。

 さっきはあんなに驚いて戸惑った顔を見せていたのに、今は瓶底眼鏡の奥の切れ長な目を光らせ、引き締まった顔つきで画板に向かっている。

 首尾よくいかないのか、時にざんばら髪をかきむしりながら小筆を走らせ、また止めては考え込んで首を振る。

 いつも他人から怪しまれる彼が滅多に見せない神聖な瞬間だ。

 眠る少女のために電気を消した座卓の上には、一本のろうそくがちらちらと炎を小刻みに振るわせて灯っている。

 平田はその薄暗く頼りない光の元、図案を書いていた。


 炎の光。


 突然、彼の背後で小さな悲鳴が上がった。

 振り返る平田の目に、白いシュミーズ姿の少女が布団の上に起き直って、怯えた顔で震えている。


「どうした? ネズミでも出たか?」

「夢を見たの。怖い夢。あなたもいたわ」

「俺が? どういう役割で?」

「……そのろうそくの火……突然炎が大きく燃えて、あたしの体に燃え移って、あなたと離れ離れになって焼けていくという夢よ」

「あはは。それは夢だよ。自分でも夢だと言ってるじゃないか。疲れと環境の変化が見せたんだよ」

「そうかなあ。でもこの夢は体のどこかにいつも潜んでいて、時々顔を出す記憶みたいなものなのよ」

「大丈夫だよ。俺がちゃんと気を付けて、火の始末はしてるから」

「お願い平田さん、一緒に寝て」


 和子はばっと掛け布団をまくり上げ、自分の隣に隙間を開けた。


「ここに来て、あたしと一緒に寝てほしいの」


 平田は面食らったがすぐに気を取り直し、少女の体を薄い掛け布団でくるんでやると、ポンポンと上から押さえた。


「今夜はもっと仕事を進めなくちゃいけないから、それはできないよ。でも、近くに寄って、俺の膝を抱いて寝てていいよ」

「いいの?」

「いいよ。和子だから、特別に許可する」


 和子は小さくうなずいた。

 平田が布団を自分の傍まで引っ張って寄せると、和子は胡坐をかいた彼の脚を抱きながら、安心して眠りについた。

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