第36話 訪れた少女

 平田は意に介していなかったが、ご近所や界隈の住民からの警戒ぶりには理由がある。

 前年冬に起こった帝都不祥事件(2・26事件) 以来、東京全体が浮足立ち、刹那的な世相に拍車がかかっていた。

 そんな中、無政府主義者や共産主義者、ソビエトのスパイと言われる者たちの逮捕摘発も相次いだ。

 街には変った人物、自分達と様子が違う者を極度に警戒する空気がみなぎっていた。

 だが観光地・歓楽街としての浅草は空前の好景気に沸き、六区の映画館街、芝居小屋は来る日も来る日も満員盛況。人々は東北の不作や娘身売り等の暗い話を忘れたかのように、ひと時の快楽にふけっていた。

 一方「昔ながらの下町」としての奥浅草は、そうではない。

 警戒を怠らず、相互監視の網が張り巡らされているのだ、


 鶏の脚と頭を齧っていた平田は、ふと、茶卓の脇に放り投げていた手紙に気が付いた。

 いつ時受け取ったのか。随分前に届いた、田舎に引っ込んだ両親からの手紙だ。

 いわく、新聞によると帝都の治安はよくないようで、心配である。帝都が危なくなったら、図案書きの道具だけ持って田舎に来い。

 図案や生糸染付の仕事はこちらでもできるだろう。無理はするな。


「無理はするなって言っても、親への仕送りはもっとしろっていうのがお前らだろう?」


 平田はうんざりしたように、畳にごろんと仰向けに転がった。

 天井に蜘蛛が巣を張っている。

 そこに、先程からぷんぷんと飛び回っている青銀色の蠅が飛び込んだ。

 たちまち蜘蛛の糸にとらわれ、振り切って飛んで逃げようとすればするほど、がんじがらめになっていく。


「俺は世間って奴にひっかけられないように、逃げ切ってみせるさ」


 うそぶいた平田の耳に、どんどんと戸を叩く音が届いた。

 八百屋か米屋のつけ払いの催促か? 

 やれやれと褌と浴衣の襟と帯回りを整えながら、平田は起き返った。


「誰だ? 八百七か?」


 屋号を出して問いかけるが、返事はない。


「名乗らねえと開けないぞ」

「あたしです……」


 か細く幼い声がした。

 平田はとんで行ってきしむ戸を開けた。


「……あたしです」


 白いブラウスに鮮やかな空色のスカート、丸い帽子をかぶったおさげ髪の少女が立っていた。

 可愛らしい顔を真っ直ぐに向け、切れ長の涼やかな瞳で平田を見詰める。

 清楚であどけない表情の中に、どこか人を不安にさせる『不均衡』さがあった。

 平田はそれが『昭島和子』だと直感し、間髪入れず抱きしめた。

 12歳くらいの少女は、彼の胸までの背丈しかなかった。


「おかえり……」


 平田は胸の高鳴りを押さえるのがやっとのように、かすれた声で呟いた。

 しきりと少女の髪を撫でるが、膝と腰を屈めないと口づけしようにも顔が届かない。


「待っていてくれた?」


 和子の声は幼い少女の、多少舌足らずなそれだったが、口調は年増女のように大人びている。


「ああ。ずっと待ってた……」


 平田は少女を胸に固く抱きしめながら、後ろ手で戸を閉めた。

 その姿を近所の婦人たちが見ていた。

 どこから見ても、劣情に駆られて少女を家の中に引っ張り込む、怪しい男そのものだった。

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