第32話 大空襲

 浅草の街は静まり返っていた。

 たまに聞こえてくるのは隣組の防火見回りの靴音と、窓をがたがたと激しく揺らす北風の音、また遠くで鳴いているメス猫の盛っている声くらいだ。

 キンと張り詰めた怜悧な夜気の立ち込める、痛いほどに暗い夜だった。


 突然、警戒警報が浅草の街に響き渡った。

 電柱のてっぺんのスピーカーから大音響の警戒音が鳴る。

 平田と和子は飛び起きた。


「ラジオ、ラジオをつけて!」


 平田は箪笥の上にある古いラジオのスイッチをいれ、二人でじっと聞き入った。


『ただいま警戒警報が発令されました』


 時計を見ると夜の10時半。ラジオからは緊迫した今福祝アナウンサーの声が流れてきた。

 彼は日本放送協会のアナウンサーで、陸軍の東部軍司令部の放送設備に出向し、帝都の警報類などのラジオアナウンスを一手に引き受けていた。


『一つ、南方海上に敵らしき数目標、本土に近接しつつあり。

二、目下敵らしき不明目標は房総方面に向かって北上しつつあり。

三、敵の第一目標は房総半島より本土に侵入しつつあり。

四、房総半島より侵入しつつある敵、第一目標は海岸線付近にあり。

五、房総南部海岸にありし敵第一目標は、反転南下して目下房総南部にあり』


 平田は慌てて窓を開けると、同じように不安げに顔を出す近所の年配の人たちと目が合った。

 隣に立つ和子はあわてて襟元をかき寄せた。


 10時50分、ラジオが敵機の逃走、次いで警戒警報解除を告げた。


「 敵第一目標は洋上はるかに逃走せり 」


 だが実際は、合計4機の先遣隊が、房総半島上のあらかじめマーキングして置いたスポット四カ所を、一時間半にわたってぐるぐると大きく旋回しつつ、後続の大編隊の爆撃機に電波誘導を行っていたのである。

 またその際サーチライトやレーダーサイトの位置も特定していたため、満を持して帝都上空に到達した米機の大編隊はまず、自分達を照らすサーチライトに集中攻撃し、これを沈黙させた。

 そして細かいアルミ片(チャフ)を夜間空中に撒布し、ただでさえ脆弱なレーダーの電波をかく乱し、これも無力化した。

 3月9日から10日に日付が変わるころ、帝都および関東の空は丸裸でB29の大編隊の前に晒されていた。


 0時7分。

 無防備に等しい帝都の空にやすやすと侵入したB29の編隊は、実にその数325機。

 マリアナ基地から搭載した爆弾は、火災発生用のナパーム弾3700発、延焼促進用の焼夷弾8500発。それは空中で分解し、40万発の小型焼夷弾となる。

 B29は機銃など荷重物を取り外し、その分焼夷弾を詰めるだけ積み込み、日本に向かって来た。

 かねてからの作戦通り房総沖で二手に分かれて侵入したB29は、現在の江東区、深川・木場付近に最初の焼夷弾を投下した。

 それらは用水路に沿って炸裂し、たちまち山のような火の手が上がった。

 警戒警報が解除になり、大抵の都民は寝ていた時間である。

 国民学校の六年生たちにとっては、間もなく迎える卒業式のために帰京し、久々に両親のもとで布団に包まる事の出来た日だった。


 屋根を突き破り家の中に落ちた焼夷弾は、すぐに四散し、粘り気のあるナパーム剤を火が付いたまま撒き散らした。

 柱に、障子に、壁に着くやすぐに炎を吹きだし、はたいても水をかけても消えない。

 粘性のある火薬相当の化学物質なのだから当然なのだが、空襲を受けた人々はそんなことは知らない。

 慌てつつも日ごろの防空訓練通り、汲み置きの水に長いはたきのような「火叩き」をつけて湿らせ、焼夷弾の火を叩き、むしろをかけて消火しようとした。

 また、焼夷弾の欠片はスコップですくって表に投げろと、命じられたままに動こうしたものもいた。

 飛び散ったナパーム液が服に着いた者は、そこから瞬時に燃え上がった。

 悲鳴を上げる間もなく、ふらふらと歩きながら火花を散らす明るい松明と化した。

 そしてぱたりと倒れ、その上からも容赦なく小型ナパームの雨が降り注ぐ。

 手足をひくひくと動かしながら、まず柔かい眼球がどろりと溶けて瞼から流れ、衣服が、髪が火を噴き続ける。

 ひゅーううーひゅううーという風を切ってナパームが落下する音、炸裂する音、B29の低いエンジン音、バキバキと燃え上がる建物の音。

 全てが赤い暴風となって下町を襲った。

 だがこれはまだ序章に過ぎなかった。

 帝都の下町を守るべく配置された、月島の高射砲第一大隊は急ぎB29に向かって砲撃を開始したが、既に江東区は輪状に炎の壁に取り囲まれていた。


 0時15分。ようやく帝都に空襲警報が鳴り響いた。

 だがそのころ、荒川と隅田川に囲まれた大きな中洲、江東区や墨田区は火の壁に閉じこめられていた。

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