第31話 3月9日の初夜

 二人の初めては、傍目に可笑しいほど手際が悪かった。

 お互いを脱がせ合うわけでもなく、平田は自分のゲートルを足から解くのに難義し、シャツを脱ぐときに丸眼鏡を床に吹っ飛ばしてしまった。

 和子もブラウスのボタンを自分で外していいものか、それとも近所の婆ちゃんに下卑た笑いと共に教えられた通り全部男にゆだねた方がいいのか迷い、ただ膝を抱えて座っていた。

 平田が気付き、押入れから一枚だけの毛布を出し、和子に放った。

 そして解きかけたゲートルに自分の足を絡めて、転びそうになった。


「じ、自分で脱ぎたいときはどうぞ。俺は良く分からんから」


 和子はようやく可笑しそうに笑い、毛布を肩からすっぽり被り、中でブラウスを脱ぎ、もんぺのひもを解いて脱ぎ捨てた。

 ちらりと衣服の隙間から見えた健康的な浅黒い肌と、ポツリと小さな乳首の胸に平田は圧倒された。

 俺は本当にこの子を抱くんだろうか。

 彼はくるりと背を向けて国民服のズボンを脱ぎながら、骨だけが目立つ己の貧相な体を恥じた。


「てるてる坊主みたい?」


 和子が不意にあどけなく尋ねた。この落ち着いた無邪気さを、無意識に計算して醸しているとしたら大したものだ。


「ああ。軒先につるす前の、子供が作ったてるてる坊主みたいだ」

「平田さんは案山子みたいね。田んぼに立って鳥や虫を追っ払う」

「でもこんなガリガリだから何も守れないよ」

「私を守ってくれたじゃない。嬉しかった」


 平田は夢中で和子に口づけし、残りの衣服を脱がせて覆いかぶさった。

 明日は陸軍記念日で、職場や町内の人たちは


「アメ公は狙ってくるんじゃないか」


とささやき交わしていた。

 今夜だっていつ警戒警報が鳴るか分からないのだ。


 彼らの交わりは稚拙だった。

 平田も職場の先輩から武勇伝やら手ほどきやらを聞くだけで、決して女をよく知っているわけではない。それどころか限りなく童貞に近い。

 だが見るからに硬直して横たわっている無垢な和子には、少しでも苦痛を与えたくなかった。

 体に唇を這わせながら、指で要所要所をよくほぐしてやりたがったが、こんな時に爪が伸びていたことを思い出した。

 ……だから俺は駄目なんだな。

 同僚だったら、初めて抱く娘の体を前にして、そんなことをいちいち思い出さず、すぐに自分のものにしただろう。でも俺は駄目だ。

 だが彼が指の出し入れをし、少しでも自分が入ることで苦痛を与えまいとしていると、和子が甘い声で呻き始めた。

 平田はその声と自分の背にしがみつく掌に勇気を得て、やみくもに和子の中に入って行った。


「すまん。君の事を気遣ってやれなくて」

「ううん。嬉しかった」


 狭い台所の土間の上、大きな木の洗濯桶の中に和子がしゃがんで、湯を静かに体にかけていた。

 平田は大事に取ってあった、固くひび割れた舶来の固形石鹸を和子に渡し、体を洗うのに使わせた。

 汗と埃と、少しの血で濡れてしまった彼女のために、大急ぎで鍋に湯を沸かし、桶で即席の風呂をこしらえたのだ。

 その真ん中に座って、和子は放心したように一点を見詰めていた。

 男は大事な人形を扱うように、注意深く丁寧に彼女を洗ってやった。

 自分の手の触れたところ、唇の触れた所、そして押し入ったところ。

 そこに触れようとすると和子の体がビクンと警戒を示したので、平田は手を止めた。

 和子は俯いて背を向け、何度も自分で洗った。

 平田は黙ってその背にお湯をかけてやった。


 女が湯から上がり、また毛布を頭からかぶって横になると、今度は平田が入った。

 自分は普段から烏の行水だ。

 頭から湯を被り目を開けてみると、煎餅布団に横になり、掛け布団に包まった和子と目が合った。

 和子は布団を通して分かるくらい体を丸め、こちらをじっと見ている。

 その目に捕らえられ、平田はバシバシとしばたいた。

 ふと、布団の隙間からちらと女の指先が見え、すうっと彼の方に白い腕が伸びてきた。

 至極真面目な顔のまま、和子が平田を手で差し招いていた。

 平田が前を隠したまま湯桶から立ち上がると、和子は肌を交えて以来初めて笑った。

 そして布団の端にそれ、掛け布団をめくって場所を開けてくれた。

 半分濡れた体のまま入ると、そこは女の体のぬくもりがふんわりと残っていた。


 二度目の交わりは、最初よりは少しはましだった。

 平田には和子の表情や吐息、手や足のこわばりと弛緩、力の入り方や脱力など、気を遣いながら体を進める余裕が出来た。

 とはいえ稚拙で下手くそな事に変わりはなかった。

 和子の上気した肌、切れ切れのむずがるような声を感じるたび、慎重に進めようというわずかな理性が飛んでしまう。


 俺たちは二人とも半分半分で不完全な存在だけど、それでよかったんだ。

 いつだったか菩提寺の坊主が言ってた。

『絆』という字は互いの半分同士が糸で縫い合わされたという事を示す文字なんだと。

 ようやく、俺は自分の半分を見つけた。

 平田は口に出して言ったかどうかわからない。言ったとしても和子の耳に届いていたかは怪しい。

 だが和子は体をがくがくと揺すられ、何度も目をつぶったまま頷いた。

 その顔が、表情がいじらしくて、平田は何度も口づけした。


「明日、電車で俺の田舎に行って、親の同意を貰おう。そして役所に届けを出して結婚する」


 平田は和子の傷ついた局所にとっておきのガーゼを当ててやりながら、言った。

 和子は横たわって手足を投げ出し、されるがままに体を預けながら天井を観ていた。

 何を考えているのか読めない、その女の目の曖昧な焦点に平田は不安になった。


「私、あなたの事を思い出したわ。いつだったか逢った事があるわよね」


 和子は静かに口を開いた。


「いや……」


 平田は何度も思い出そうと頭の片隅まで記憶をたどったが、どうしても思い出せなかった。


「ごめん。俺は思い出せない」

「そう……記憶違いなのかな」

「そうだと思う。俺はあの工場で君を初めて見た」

「そして、発作を起こしているところに私が通ったのよね」

「ああ。君は俺の観音様だ」


 平田は布団の中で和子を抱きしめた。

 湿気と体温が互いの肌の間を行き来する。

 そうして二人とも、互いが相手の半身であることを確信した。


 お互いの肌の感触は名残惜しかったが、二人はきちんと服を着て寝た。

 平田はゲートルまで巻いて身支度を整えた。

 いつ警報が鳴るか分からないからである。

 防空頭巾と鉄兜と鞄を枕元に置き、それでも互いに抱き合って眠りについた。

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