第9話 昭和が終わる日のキス
昭和20年の、3月10日の夜、強い北風が吹いて、窓がガタガタなるような寒い夜。
私は20歳だった。近くの工場に勤めながら、一人で暮らしていたの。
その日の夜中の10時過ぎ、一度警戒警報が鳴ったの。でも間もなく止んだ。今のは間違いだったのかなー、なんて思いながらまたとろとろ寝たわ。
ラジオでも敵機は去ったと言っていたし、そのまま寝ちゃった。
もう一度警戒警報が鳴って、今度は空襲警報になったの。
私は知り合いと一緒に逃げた。
でもあまりに多くのアメリカ軍の爆撃機が爆弾を落として、街は火の海。
あとで聞いた話だけど、アメリカ機は下町の周りにぐるりと大きな円を描くように焼夷弾を落として、炎の壁を作って逃げられないようにして、人を追い込み漁の網に追い詰めるようにしてから、真ん中にどんどん爆弾を落としていったんだって。
爆弾って言っても爆発して終わりじゃないの。粘っこいタールみたいなものが入ってて、それが燃えながらあちこちにくっつくの。
するとそこから激しく炎が上がって、水をかけても消えない。
そうやって家も道路も、子供も、年寄りも何もかもろうそくみたいに燃えて行った。
倒れたそのままの形で炭になってくのよ。
私は言問橋を渡って対岸の向島に逃げようと走った。
今立っているこの橋よ。
でも一緒に逃げた恋人とはぐれてしまったの。
なにしろ荷物や家財道具を積んだリヤカーやら、大八車やら、人であふれているの。
浅草側ではもう、炎が製鉄所の炉の中のように真赤に吹きあがって、火山の火口に叩きこまれたみたいで逃げようもない。
だから言問橋に来たのだけど、向こうの墨田区側からも必死の形相の、服があちこち焼け焦げた人達がどんどん逃げてくるじゃない。
見ると向こう側も火の海。炎が渦を巻いてゴーッと追いかけて来るの。
走って逃げる人たちを次々と燃やしながら、人から人へと燃え移りながら火が走って来るのよ。
両側からの避難者で橋はもうぎちぎち。身動きも出来ない、満員電車の中みたいに詰まっちゃった。
戻ろうにも戻れないし、そのうちに人の頭を炎がザーッと舐めてきて、倒れる事も逃げる事も出来ないままに火の柱になって叫びながら燃えていくのよ。
私は恋人と手をつないでいたけど、火がこちらに届く前に、彼が私を持ち上げて、欄干の向こうの川の中に放り投げた。逃がそうとしてくれたのね。
でも川の中も逃れて飛び込んだ人でいっぱいよ。
体を踏み台にして、押さえつけて顔を水面に出そうという人、死に物狂いでしがみついてくる人。
地獄ってああいうのを言うのね。
私は水の中で踏みつけられながら、時々全力で顔を出して空気を吸うと、また引きずり込まれて沈んでと繰り返しているうちに、気を失ってしまったの。
気が付いたら墨田公園の向島の側に打ち上げられていた。
周りは半分黒こげになった死体でいっぱい。
何層にも折り重なって浮かんでいるの。
その中で私は、運よく顔を水面に出して、炎にも舐められずに生き残った。
私は彼を探してずぶ濡れでまた橋に戻ったけれど、一面折り重なった人型の炭でいっぱい。
朝なのにまだくすぶって、煙が立ち上っていたの。
足の踏み場もないから死体を踏んで歩いたけど、足がずぶっとめり込むと、きのこの胞子のようなガスを出すのよ。
人の体の中からね。
そして崩れていくの。
彼を探して随分あちこちを回ったけど、見つけられなかった。
生きてどうにか逃れたけれどはぐれてしまったのか、それとも山積みになった死体の中に紛れていたのに私が探せなかっただけなのか。
それからの人生なんて、だらだらと惰性で生きてるようなもの。
なんで生きているのかよく分からないままに、死ねないでいる感じなの。
「知ってる? 浅草側の墨田公園の中には、空襲で死んだ人たちの慰霊碑があるのよ。死体が一時、公園の中に集められて処理されたから」
「……生きましょう、昭島さん」
平田は青ざめた顔で、老女の小さな手を引いた。
「ごめんなさい。嫌な話を続けちゃった。今まで誰にも話したことがなかったのに」
老女は美しい顔を俯けた。
「そんなことはありません。知ってよかったと思います。このままだったら知らない事で、誰かを傷つけてしまったかもしれない」
「でも知らないなら知らない方がいいかもしれないわよ」
「いいかもしれないし、悪いかもしれない」
「じゃどこに行くの? また戻ってるみたいだけど」
老女は手を引いたままどんどん歩いていく若者の背に、不安そうに声をかけた。珍しく動揺した声だ。
その不安げな感情の揺らぎもまた愛おしいと、平田は密かに悦んだ。
「浅草寺に戻るんです。もうこの時間だから入れないかもしれないけれど、昭島さんの恋人のために、お参りしてきましょう」
浅草寺の広い境内は普段なら24時間開放されている。本堂その他のお堂自体に開門・閉門時間はあるが、基本いつでも参拝は出来る。
だが昭和天皇が亡くなったというこの日は、敷地北東の浅草神社を中心に大勢の警察官が配置され、不審者に警戒の目を光らせていた。
過激派がこの機に乗じて、爆弾テロを仕掛けようとしているとの噂があるのだ。
だが酒の入った平田と昭島さんは、広い敷地のあちこちに建つお堂にお賽銭を入れながら、手を繋ぎつつふらふらと歩き回った。
昭和20年の冬の地獄絵図。
そんな話を聞いてしまったからだろう。
平田は昭島さんが心から恋人を愛し、死んでしまったかもしれないのにまだ忘れていない事に動揺していた。
「寒いから走りましょう!」
「いいわよ。こういう建物を見ると隠れんぼしたくならない!?」
「なるなる。なります」
「じゃあしちゃおうか。こんな日だし、特別よ」
「いいですよ。あなたがどこに隠れても、僕はきっと見つけ出します」
浅草寺の外側の植込みの周囲で、二人は子供の様に戯れ、大声を出してはしゃいだ。
樹の陰に隠れたり、建物の後ろでしゃがんだりと怪しい動きの彼らを、警備員はぴったりとマークしている。
気付いた2人はあわててごめんなさいと謝り、その場を離れた。
シャッターの締まった仲見世通りの奥、もう記帳客も切れた新仲見世通りの間の暗い路地で、平田はグイと彼女を引き寄せ、強引に唇を奪った。
自分でもなぜそんなことをしたのか不思議だったが、彼女は抵抗はしなかった。
彼の腕の中で少し顔を横に向け、胸に手を突き離れようとしたが、平田の若い性急さの方が勝った。
勢い余って二人の歯と歯がカツンとぶつかり、平田の上唇が切れて口の中に鉄臭い味が広がったが、すぐに昭島さんの唇の甘い香りで打ち消された。
長いキスの後、どちらからともなく顔を離した2人は、ひどく真面目な顔をしていた。
どうしたというのだ。今日の午後に、すぐそばの境内で出会ったばかりの老女ではないか。
彼の母親よりまだずっと年上の、おばあさんだ。
「……年寄りをからかうものじゃないわよ。復讐してあげようか?」
昭島和子は極めて真剣な顔で、真っ直ぐに平田の目を見詰めて言った。はっきりと咎められているのだ。
この目だ。この真っ直ぐで深い、吸い込まれたら出て来られない湖の中のような、静かに揺らめく瞳だ。
この瞳のおかげで、さっきは情けなく身動きも出来なかった。でも今は違う。
平田は、今度はそっと顔を近づけると、彼女の唇を覆った。
浅草寺の正面から見て右。
二天門を出てすぐの、立体駐車場と古い住宅地の中にちんまりとある、薄暗く古ぼけたラブホテルに2人は泊まった。
1月7日の夜。
昭和が終わり、新しい元号「平成」の世に切り替わる直前のホテルは、どこも混んでいた。
みな誰かと一緒に新しい元号の来る時を迎えたいのだろうか。
だがその新しい日々も、夜が明けたらまた退屈な、昨日と地続きの「今日」にしかならないのも知っている。
だから誰かと交わりながら、特別な瞬間として通過したいのかもしれない。
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