第4話  昭和64年冬の浅草一丁目

 浅草駅近くの簡素なビジネスホテルは、掃除が行き届いていなかった。

 洗面台周りに髪の毛が落ちているし、浴室の床や壁が濡れているのもしばしばだ。

 残業で終電を逃すと平田はいつも、経費でビジネスホテルに泊まったが、今朝は一際、つんと鼻の奥を突き刺すような鋭い静けさに満ちている。


 昭和64年1月7日。

 本来なら七草粥を炊き、地方によっても違うが玄関の門松がとれ、『松の内』では無くなる日である。

 デパート他の衣料品のショップでも、初売りから引き続き冬のバーゲンに突入する頃だ。

 浅草周辺も松屋デパートや、上野の松坂屋、浅草橋の問屋街や浅草寺を中心に大賑わいを見せる時期だが、今は違う。

 最低限の車の音や電車の音、生活音が街に響くばかり、痛いほどの沈黙だ。雪も降っていないから、音が吸収されているわけでもないのに人々の話声すらまばらだ。

 終電を逃してホテルに駆け込んだはいいが、深夜残業の疲れが取れず、ろくに寝付けないまま起きてしまった平田は、身支度を整え早めに出勤することに決めた。

 一階ロビーで簡単な朝食バイキングが無料提供されているが、昨夜ホテルに入る前に買いこんだアンパンと缶コーヒーで済ませる。

 暖房の効いた狭い部屋でテレビを見ながら、シャワーを浴びたり薄いひげを剃ったりしてぎりぎりまで過ごせるのも、新たに配属された部署体制がまだ整っておらず、上司も同僚も何となくゆるりとした雰囲気のまま働いているからだ。

 広告業界に繋がっている営業一課や、海外発注が主流の営業二課の連中は、レンタル布団を床に敷いて会社に泊まり込んでいる。


「島流しだからなあ、俺のいる部門は」


 会社に近いビジホに泊まった朝ならではの、ささやかなゆとりある朝だ。

 アナウンサーとゲストがまくしたてる早朝のテレビが苦手な平田は、ラジオを聞くことを好んだ。

 出勤前くらい落ち着いて脳や神経を起こしたい。

 甘ったるい缶コーヒーを一口飲んだところで髪を整え、剃る必要もなかったほど髭の薄い頬をバシバシと叩き、ワイシャツのボタンを留めている最中、それまで交通情報を流していたラジオがピーッと音を立て、全ての音声をとめた。


 落ち着いた女子アナウンサーの声も、背後に流れる静かな音楽も(天皇快癒祈願の自粛ムードで、賑やかなサウンドは余り流されなくなっていた) 一斉に消えた。

 何事かと手を止める平田の耳に、一瞬の沈黙の後、年配の男性アナウンサーの声が流れてきた。


「ここで臨時ニュースをお伝えします。天皇陛下は今朝四時過ぎからご危篤の容体が続いていましたが、今朝6時33分お亡くなりになりました。天皇陛下は今朝4時過ぎからご危篤の状態となられていましたが、今朝6時33分お亡くなりになりました。宮内庁はこの後高木侍医長が陛下のご病状経過を発表する予定です」


 天皇陛下の死を知られるラジオ放送だ。

 平田の目の前で、唐突に昭和が終わった。

 狭いビジネスホテルの一室で、缶コーヒーとアンパンを頬張り出勤準備という日常が、突然目の前でぐにゃりと曲がった気がした。


「天皇陛下はおととし9月22日、宮内庁病院にて腸の手術を受けられましたが、12月にはご公務にも復帰、昨年の夏には栃木県の那須御用邸にお出かけになるなど、元気を取り戻されました。しかしこの頃から発熱に見舞われ、宮内庁が体調を気遣われるようになり……」


 ホテルのFMラジオから流れる冷静な男性の声は、次第に一昨年から今日までの振り返りになっていく。

 平田は記憶を蘇らせる暇もなく、日常を取り戻そうとあわてた。

 大学を出て就職し、あわただしい新人時代を過ごして、失敗続きの営業も、先輩からの体育会系むき出しの飲み会攻めもやり過ごし、必死に会社にかじりついて、飛び回って歩んできた年月だった。

 でも今は出世コースから外れた部署に椅子を用意され、出向に近い形で地方の下請け工場巡りをしている。

 昭和が終わる秒読みの期間は、自分が社会に出て「お前は所詮この程度だ」と思い知らされる時間だった気がする。


 ラジオから流れるアナウンスが経過説明の繰り返しになって来たので、平田はテレビをつけた。

 画面の中で宮内庁長官や、官房長官の淡々とした会見が続いていた。

 奇妙なことにコマーシャルが一切流れない。

 テレビやラジオ、マス・コミュニケーション全体が、早くも喪に服してしまったようだ。

 そうだ。仕事はどうなるんだろう。自分達の会社は老舗玩具メーカー。

 この場合真っ先に自粛対象になる『娯楽』に関する事業所だ。


 上司と会社に電話をし、一応会社自体は開いているので出勤することにした。

 出向は取りやめになり、元居た部署で一日中電話の対応や工場への今後の予定変更の連絡、ファックスのやり取りや流通関係の手配に追われた。

 だが上司の命令で全員定時帰宅になった。

 会社を出ると、看板や門には黒い布が掛けてあった。

 若い平田は初めて見たが、『喪章』という物らしい。

 角々には、やはり黒い喪章をかけ、ポールの半分の高さまでしか上がっていない日の丸の旗が掲げられている。それが弔意を表す『半旗』という物だと、平田は初めて知った。


 賑やかな浅草のパチンコ屋はシャッターが下り、開いている店も軍艦マーチではなく静かなクラシックが流れていたし、今日を含め3日間は短縮営業だと張り紙が貼ってある。

 旧六区の映画館も場外馬券売り場も、飲み屋街も閑散として、仲店通りは殆どの店が閉まっている。

 平田の目の前で、見慣れた浅草の街が異界に変っていた。

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