今宵君にグラスを捧げて
野暮天
一章
第1話
雨は嫌いだ。
じっとりと湿った空気が支配するこの場所で清水亮は傘もささず最寄りの駅から自宅までの道を歩いていた。
「今日の夕飯どうするかな」
自分の苛立ちをごまかすように独り言をいう。それが余計に怪しさを倍増させ皮肉だなと思った。
亮は高校卒業後定職にもつかずふらふらとコンビニのバイトと派遣の仕事で食いつないでいる。
実家を出てかつての故郷のもとを離れ一人悠々自適に暮らしている。
その生活に将来性はないが焦りを覚えるにはまだ早い。同年代の人間も自立しているような年頃でもなかった。
そんな考え事をしていると自然と足も遅くなる。
だから気がついていなかったのだ。
目の前に一人の少女がいることに。
「あのうすみません」
可憐な少女の声がする。誰だろう。相手はずぶ濡れでキャミソールが透けている。
「すみません」
彼女の手には一枚の葉書が握られていた。
「あなた、清水亮さんですか?」
確かにそうだがずぶ濡れの少女に見覚えがない。雨で髪型は台無し。前髪も目につくくらい長いので顔がよく見えず誰か判断できないのだ。
「私、愛川千春です」
その名前はよく知っているものだった。
だがあまりにも苦い幼少期の思い出だ。
いっそ忘れられたらいいのにと強く思う。
「これあなたが引っ越すときに渡された葉書だそうです」
それは高校卒業時に世話になった人たちに渡した葉書だった。
簡単な引っ越し先と連絡先だけを記した葉書。
「あなたは私の大切な人だったんですよね?」
まるですがり付くように亮に語りかける。
不思議だ。前にあったときよりも他人行儀になった千春は亮を必死に見つめる。
まるで過去の記憶がないように。
「どうして質問するんだ。千春、君は俺の幼馴染みだろう」
至極当然の答えを言ったのだが千春にはそれが理解できないようだった。
「君は高校を卒業して地元の大学に入って心理学の勉強をしていた。どうして俺に会いに来たんだ?ご両親にも反対されていただろう」
「わからない……。ただあなたに会いたくて」
「それは俺に対する当て付けか?」
まさかこんな冗談で亮を騙そうとしているとは思わなかった。新しい詐欺の一種か。
「うちに怪しげな石を売り付けても金がないから買えないぞ」
嫌みっぽくそういうと彼女は傷ついたような顔をした。
どうしてそんな顔するんだろう。
もう二度と会うつもりもなかった相手のその顔に亮はひどく苛立ちを覚えた。
「違うんです。私あなたに会えればなにか思い出せると思って」
要領の得ない話し方で彼女はそう告げた。
「思い出せるって君はふざけているのか?」
幼いときから同じ学区に住み暇さえあれば顔を合わせ一緒に遊んだ仲だ。思春期にもなるとそれが気恥ずかしくなり距離をおいたがそれでも時々会話を交わすくらいの関係だった。
「ふざけてません!私記憶がないんです……」
まるで小説のヒロインみたいなことをいう。
「記憶がない?冗談もほどほどにしてくれ」
久しぶりにあったのに彼女は全くとっていいほど別人になっていた。
「俺をからかっても面白いことは起きないぞ」
根が真面目な彼女がそうするわけはないとわかっているのだがどうしても信じられなかった。
「違うんです。私事故に遭って……それで昔のことが思い出せなくなったんです」
そういう姿はどこか苦しげで見ていて可愛そうになる。
だけどそんなバカなことが起きるはずがあるのだろうか。
「これ……私が大事に持っていたと母が教えてくれました」
濡れて字の滲んだ葉書を亮の方に見せる。
「高校卒業してから引っ越して誰とも会わなくなったって本当ですか?どうしてそんなことしたんですか」
「まるで詰問だな」
苦笑いを浮かべると彼女はすまなそうにする。
「でも携帯電話にかけても返事はないし……」
当時の番号から変えてしまったのだ。それは理由があったわけでもなくただなんとなくの理由だったが。
「それで俺を待ち伏せたということか」
「一日中待ったんです。今日は傘を忘れてしまって……帰るに帰れなくなりました」
彼女の記憶がないという話も半分疑っていたが本当かもしれない。
昔の天真爛漫な姿からは想像もつかないほど変わってしまった。服の好みも変化しているらしく今は地味なワンピースを着ている。
そして性格もどこかおとなしい。
これでどっきりだったらとんだ笑い者だけれど。
それでも信じてみようかと思う。
「わかったよ、ここじゃなんだから上がってくれ」
二階建てのアパートの部屋の一室に向かう。
それが亮が二年間借りていた部屋だった。
まだ誰にもあげたことのない自分だけの特別な場所。
高校を卒業してから友人も作らず気ままな生活をして二年。
誰かのプライベートに深入りしようともしなかったしその逆もまた然りだ。
それが千春の登場によって生活も変化することになろうとは亮は思ってもいなかった。
記憶喪失か。
もし本当だったとしてもどうして彼女が自分を探したのかはわからない。
千春との幼い日々の思い出はどうしてか苦い感情しか込み上げてこない。
忘れていたかったのに。
彼女はパンドラの箱を開けてしまったのだ。
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