第3話 私的純文学について(再掲と追記)
「純文学とはなんぞや」
多くの人がこれに対して、曖昧な答えしか持っていないと思う。
ウィキペディアなどでは単純に、芸術性のある作品としているがこれは大きな誤解を生みかね無い表現だと前々から私は思ってきた。
じゃあ、あなたは純文学とはなんぞやと尋ねられたら、どう答えるのですか?と問われればこう答える
「感受性を文章に表した作品」
だと。
最近の芥川賞作家さんの中では又吉さんが一番それが色濃いように感じている。
受賞作の火花より、次作の劇場の方がそれが良く出ている。
又吉さんと同時受賞された羽田さんは多分純文学を私と似た感じに捉えてらっしゃるのでは無いかと感じる。
というのも、「純文学は何でも出来る」というような事を仰っていたから。
そうなのだ、純文学は一見小難しい芸術作品だと誤解されがちだがそうではなく、作者の感受性を文章で表しながら主人公の生活の一部分を切り取ったようなストーリーで作られている事が多い。
なので作者の感受性を出す小説ならば、エンタメ小説かと思われるようなストーリー展開が奇抜な作品や世界観でも純文学は出来てしまう。
大事なのは作者の感受性。
純文学に私小説があるのはモロ、作者の感受性出しまくりが私小説だからだと思える。
芸術性という意味合いで、メタファーが純文学と考える方もいるがメタファーはあくまでメタファー
作者の感受性ではない。
感じた事、感じ取った事を文章で表現していないと純文学とは少し違うのではないかと思う。
そしてここからが少し前に書いた追記なのですが、情景描写を細かく書く事も純文学とは関係ないと思っています。
むしろ、文學界に載っているような作品には情景描写はほとんど無いものも多いです。
内面描写も細かく説明するものは、あまりありません。
状況やこういった性格なのだ、という事を人物の言動によって表される事がほとんどです。
それが読者にグワっと入ってきたり、琴線に触れたりするのが純文学だと私は考えています。
太宰治の人間失格で父親にお土産が何がいいか言えず、欲しくないシシマイを父の手帳に書いた葉蔵の言動、心理、あの部分は純文学っぽい内容と表現だなと思います。
そういうのを純文学だと私は認識しているので、カクヨムで純文学のタグがある作品をウキウキ読みに行き、あれ?と思う事が多く今回語らせて頂きました。
私の純文学の見方が完全なる正解とは言えないかもしれません。
ですが感覚的にはかなり良いところにいっているとは思っています。
カクヨムで純文学読みたいんです!
どうか、皆さんの感受性を乗せた作品お待ちしています。
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