マのない世界の魔法使い

倉石ティア

昔々の御伽草子

第1話

 昔々あるところに、一人の少年がいました。

 狼のように精悍な顔、屈強な体を持つ少年でした。

 彼は気立ても良く、村のみんなから好かれていました。身寄りのない少女にも、揉め事を起こして他の村から追い出された厄介者にも、誰にも平等に接する少年でした。幼い頃に両親を亡くした彼だからこそ、他人の不幸や痛みに敏感だったのかもしれません。

 誰もが笑顔になって欲しい。

 少年はいつも、そんなことを口にしていました。

 彼が住んでいたのは貧しくも平和な村です。

 静かで、穏やかな日々が過ぎていました。

 ところがある日、未曾有の大雨が村を襲います。川に近いこの村は、畑や田圃のほとんどを濁流にのまれてしまいました。犠牲者は出ませんでしが幸運が続くとは限りません。それに、何度も農作物に被害が出ると生活すらままならなくなってしまいますからね。

 しばらく経ってから、村の大人達が相談をして堤防を作ることになりました。水をせき止め、村を守るための堤防です。しかし、問題がありました。

 そこは、貧しい村だったのです。

 堤防を作るためには沢山の人間と、お金と、時間が必要でした。次の大雨が降る時に間に合うかどうかも分かりません。村の大人たちが頭を悩ませていると、村中から慕われていた少年が声を張り上げました。

「僕がなんとかするよ!」

 あぁ、無碍なるかな。

 子供一人に、何が出来るというのでしょう。

 少年の身を案じた大人達は、彼を諫めようとします。しかし少年の熱意は目を見張るものがあり、彼らは逆に説き伏せられてしまいました。自信満々に語る少年の目は人々を救う慈愛と正義感に溢れていました。だから大人達も、彼に従うことを決めてしまったのです。

 少年の案は、次のようなものでした。

 雨の日は川の近くに少年が陣取り、増水を始めたら太鼓で合図を送る。更に水嵩が増したところで、もう一度合図を送る。こうして水が増える度に合図を送ることで村に甚大な被害が出る前に土嚢を積み増せればいいな、そう考えたのです。

 少なくとも人的被害を減らそうという魂胆でした。

 他に案も思い浮かばなかった大人達は少年にこう言いました。

 仕方がない、物は試しだ。

 危なくなったら、逃げて来いよ。

 大人達と約束をして、少年は川へと駆けて行きました。

 それから十日ほど経った頃、村に雨が降り始めました。小雨だったそれが徐々に強まっていくと、川の方から少年が駆け戻ってきました。川が氾濫する、急いで逃げなくてはならない。村中が蜘蛛の子を散らしたような騒ぎになりました。

 家財一式を持ち出す人、子供を背負って走り出す人、あまりに驚いて泣き出す人。瞬く間に川から溢れ出した水が平野の村を飲み込んでいき、後ろを振り返る暇もなく村人たちは近くの山へと昇りました。

 そして、誰かがふと気付きました。

 身寄りのない少女と、あの少年の姿が見えないのです。

 村へ戻って探そうか。だが、あの水じゃ難しい。戻ったら自分たちが飲み込まれる。

 喧々諤々の話し合いを経て、意を決した数人の男が山の高台から降りて行きました。泥水に飲まれて濁った世界には、遠くの山々が一望できる他は何もありません。激しい雨に流された家も多かったようです。

 途方に暮れ、悲嘆に沈みかけた男達は、視界の端に彼の姿を見つけます。

「こっちだ! こっちに来い!」

 大人達は必死に呼びかけました。少年も彼らの姿に気付いて、ゆっくりと、流木や不意に揺らぐ足元に気を付けながら歩み寄ってきました。刻一刻と水量の増える中、永遠にも感じられるほど長い時間でした。

 泥塗れで、酷く疲れてている様子でした。腰まで沈む水の中を、自分とふたつも変わらない少女を背負って歩いてきたのです。年端もいかぬ少年がするべきことではありませんでした。彼を目にした大人達は、彼の正義感と善意の強烈さに背筋が冷たくなったほど、とも言いました。

 少年が背負っているのは、身寄りのない少女でした。彼女は足に怪我をして、気を失っているようでした。駆け寄っていった一人の男が少年の代わりに少女を抱きかかえると、彼は安堵したように柔らかく笑いました。

 そして、傍にいた男達の誰かが手を伸ばすより早く。

 伸ばそうとした手が、届くよりも早く。

 背中から、泥水に倒れました。

 男達が手を伸ばすよりも、彼が流れていく方が早かったと言います。少女を安全な場所に避難させた男達は村人たちに言い訳を重ねました。彼らが少年を助けられなかった理由を並べました。

 大雨を神様のせいにして。

 防げなかった被害を、金と時間のせいにして。

 それでも大人達の心から後悔の念は払拭されませんでした。俺が代わりに行っていたら。もっと早くに気付いていれば。自分のことばかりに、気を取られていなかったら。誰も口には出しませんでしたが、思うところは同じです。誰もが、少年のことを考えていました。

 雨は二日間振り続けました。

 村のすべてを流し去った大雨が上がった後、男の子を探すため、何人もの村人が村だった場所を歩き回りました。だけど、誰も少年を見つけ出すことは出来ません。氾濫続きで川の流れは変わり、どこが誰の畑だったのかも判別できない有様でした。

 再興を諦め、他の村へ移ることを思案する人が出始めた頃、ふと、少年を探す一団の中で声が聞こえました。それは、あの少女の声でした。

「お兄ちゃんがいる」

 少年に助けられた少女が指を差した先に、一体の地蔵が転がっていました。

 濁流に押されて、上流から流れてきたものでしょうか。しかし、その表情の穏やかなところは少年に似ていました。誰にも見つけられなかった少年の、せめてもの形見になるだろうか。村人たちは上流の村々を辿り、その地蔵が何処から流れてきたものか遂に不明であったことを知ると、それを村で預かることに決めました。

 以来、その地蔵は村の守り神として川縁の神社に奉納されているのです。

 これが、この町。

 未桑町に伝わる昔話のひとつです。

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