第5章 リ・チャレンジ ⑨いざこざ、再び。
相変わらず空は、よく笑い、よく動き、よく泣く。
時々、目を離していると思いがけないものを口に入れているので、出すのに一苦労する。リモコンは投げて壊されたし、取り入れた洗濯物をグシャグシャにされ、よだれまみれになってもう一度洗い直したこともある。だが、「あー、やったなあ」と、空にちょっと怖い顔をして見せるぐらいで、本気で怒る気にはなれなかった。泣いている時も、笑いながらあやせるようになった。
――もう少しで合格できる。そしたらリアル・ペアレントになれる。
そう思うと、鼻歌を歌いたいぐらい気分が高揚するのだ。
流も一人で空を散歩に連れて行ったり、お風呂に入れるようになった。
「やってみたらできるもんだね」と、流も楽しんでいるようだ。
――このままいったら、A判定もらえるかも。
美羽は久しぶりに心が満たされる日々を送っていた。
その日は定休日で、美羽は家で空と遊んでいた。チャイムが鳴ったのでインターフォンに出ると、見知らぬ男性が立っている。
「どちら様ですか?」
「あの、先日、ブラック・アンド・ホワイトのベビー服を届けに参りました、高柳と申します」
「ああ、あの時の」
一週間前のことが脳裏によみがえった。
「今日は、突然押しかけて申し訳ないのですが、その、レンタルベイビーの寸法を測らせていただきたいと思いまして……」
「え? そんなこと、聞いてませんよ」
「ハイ、あの、その辺の事情は僕も分からないのですが、直接行ってみるように社長に言われて……」
また朱音が強引に話を進めたのだろう。美羽はため息をついた。
「今、流に確認してみますので、ちょっとお待ちください」
「ハイ」
流に電話すると、「は? そんな話、聞いてないよ。また母さんが暴走してるってこと? なんだよ、まったく」と呆れている。
「私もよく分かんないんだけど、どうする?」
「知らないから対応できないって帰ってもらえば?」
「でも、あの人はわざわざ横浜まで来たみたいだし、命令されているだけみたいだし」
「その人には罪はないって思うよ。でも、知らない人をいきなり部屋に入れるのは危なくないか?」
「確かに……」
電話を切ってから、美羽はインターフォンで高柳に話しかけた。
「今、流に電話したんですが、流も話を聞いてないって言ってました。何も事情が分からないのに部屋に入っていただくわけにはいかないので、今日のところはお帰りいただけませんか?」
「そんな、せっかく来たので、そこをなんとか」
「そう言われても、こちらも困りますから」
「迷惑かけているのは分かるんですが、このまま手ぶらで帰ったら、社長に叱られるんで」
「そんなこと言われても」
「お願いしますっ」
いきなり、高柳が画面から消えた。カメラが高柳の姿を追う。高柳は床に這いつくばっていた。一瞬、何かを落として拾っているのかと思ったが、頭を何度も上下させているので、そうではないらしい。
――えっ、もしかしてこれ、昔のドラマでたまに見る、土下座ってやつ? 初めて見た。
「お願いしますっ、どうかお願いしますっ」
高柳は何度も頭を地面につける。外から帰って来たマンションの住人がその姿を見て、ギョッとして飛びのいている。
美羽は仕方なく、高柳を部屋に上げることにした。
「ありがとうございます、ほんっとうにありがとうございます!」
高柳は土がついたスーツ姿のまま部屋にあがろうとしたので、さすがに美羽は止めた。
「すみません、すみません」
高柳は玄関の外で土を払い、中に入った。よく見ると、背広の肩にはフケがつき、背広もスラックスもヨレヨレだ。無精ひげも生えている。白髪交じりの容姿から、40代ぐらいだろうと推測した。
――もしかして、この人、何日も家に帰ってないとか?
美羽はまず玄関先で用件を聞くことにした。
「服の大きさをレンタルベイビーに合わせないといけないので、寸法を測るスーツを着せていただきたいんです。30分ぐらい着せていただいたら、動いた時とか、色々なデータをとれると思うんです」
美羽は「分かりました、それぐらいなら」と承諾した。
「ありがとうございます!」
高柳は何度も頭を下げてから、「これ、つまらないものですけど」と、紙袋を渡した。美羽はお礼を言いつつも、とくに有名でもないお店のおせんべいなので、「本当につまらないものだな」と思った。
高柳は空を見て、「うわ、本当に本物そっくりですね」と触ろうとしたので、「先に手を洗ってください」と慌てて制した。土下座して地面に手をついているのに、汚れた手で空に触るなんて、とんでもない。
空に黒いゴム製のスーツを着せるのを美羽も手伝った。ちょっと窮屈なので、空は苦しそうにしている。
「ごめんね、ちょっとだけガマンしていてね」と美羽は声をかけた。
その後、高柳は「よっこらせ」と床に胡坐をかき、タブレットを操作し始めた。
――普通、座っていいですかって聞かないかな。
美羽はちょっとイラッとした。
「それじゃ、自由に動き回ってもらえませんか? データをとりたいんで」
いきなりやや上から目線になっているので、美羽は「何、この人」と内心思った。
空をベビーベッドから抱き上げ、床に座らせる。よほど窮屈なのか、空は服を引っ張ろうとしている。
「あー、あんまりいじりすぎると壊れちゃうんで。おとなしく着ていてもらいたいんですけど」
「赤ちゃんにそんなことを言っても、分かるわけないですよね?」
美羽が少しきつい口調で言うと、高柳は黙った。
「じゃあ、ハイハイしてもらっていいですか?」
美羽が四つん這いにさせようとしても、空は嫌がって体をそらせる。スーツがきつくて動きづらいのだろう。
美羽がそれを指摘すると、「えーっ、ハイハイしているデータも欲しいんだけど、困ったな」と大げさにため息をつく。
――知らないよ、そんなの。スーツが悪いんじゃん。
空がぐずりはじめたので、「もう脱がしていいですか?」と聞くと、「まだ、待ってください」と慌てた。
「あー、じゃあ、ハイハイしなくていいんで、もう少し動きを……高い高いしているところとか」
美羽が空の体を掲げて下ろすと、空は眉間に皺を寄せて泣き出しそうだ。
「すみません、もうスーツがホントにきつそうなので」
「仕方ないなあ。じゃあ、手を叩いているところだけでもいいですよ」
美羽はキレそうになるのをかろうじて堪えた。
――なんなの、この会社の人は。お義母さんといい、この人といい。
ベビーチェアに座らせると、空は手を叩くどころか泣きべそをかきはじめた。
「もうホント、限界なんで。スーツを脱がせます」
「え~、ちょっと待ってくださいよお。ロボットなんだから、きつくてもいいじゃないですか。死ぬわけじゃないし」
悲痛な声を上げた高柳に、美羽は「はあ?」と目を吊り上げた。
「死ぬわけじゃないって、何それ。ロボットでも、人と同じように痛みを感じるんだから。それに、それが人に頼みごとをしている態度? 何の連絡もなく、勝手に押しかけて来たくせに。何度も言ってるけど、支援機構で借りてください。うちが協力する理由はないんで」
美羽が声を荒げると、高柳は申し訳なさそうな顔をするどころか、「フンッ」と小さく鼻を鳴らした。
「ケンカ売ってるの?」と突っかかりそうになったが、すぐに、こんな人の相手をしているのは時間のムダだと思い直した。
空をベッドに寝かせてスーツを脱がせていると、「全然データが足りないな」と高柳はブツブツ言っている。美羽は聞こえないフリをした。
「もう帰ってもらっていいですか? 二度と来ないでください」
美羽がスーツを投げて返すと、高柳はさすがに顔色を変えた。
「オレも、本当はこんなことをしたくないんですよ。社長がどうしてもやれって言うから、やってるだけで。あの社長の性格、あなたも分かってるでしょ? 人の意見は聞かないんだから。人が足りないから、忙しくてもう三日も寝てないし。安月給でこき使われて、大変なんだから」
――うわ、何この人。急に仕事のグチ? 私、あなたの友達でもなんでもないんですけど。
美羽は苛立ちがマックスに達していたが、空をおびえさせたくないので、何とか堪えた。
「このプロジェクトが失敗したら、うちはヤバいんですよ。知ってますよね?」
「知りませんよ」
「だから、うちは倒産寸前なんですってば。このプロジェクトを勝ち取って、補助金をもらわないとヤバいんです」
「そんな話、聞いたことないし」
「ああ、次男とは仲が悪いって、社長言ってたっけ」
高柳は頭をボリボリかいた。フケがパラパラと背広に落ち、美羽は露骨に眉をしかめた。
「海外に出店しすぎて、負債がかさんでるんですよ。おまけに、社長の旦那さんのデザインも最近は不発だし。今は、昔考えたデザインで採用しなかったのを、ちょこちょこ直して使ってるんですよ。だから、協力してあげたほうがいいんじゃないですかね。僕が言うことでもないですけど」
「ええ、あなたが言うことではないと思います」
美羽がすかさず返すと、高柳は小さく舌打ちをして、目をそらした。
「あー、この話、社長には」
「あの人と話す気は一ミリもありません。あなたとこれ以上話す気もないから、もう帰ってください。何度も言いますけど」
高柳が帰ってからリビングに戻ると、高柳が座っていた辺りがうっすらと汚れているので、美羽はげんなりした。結局、高柳が歩いたところはすべて掃除をし直すことになった。
――それにしても、流に何て言おう。流も、お母さんの会社が危ないってこと知らないんだろうし。ショックを受けるかも。
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