第3話 今を繋ぐもの
単に書けなくなったと言えば嘘になる。書き終えて後悔することが増えただけだ。
正解が何か分からないが、望む出来栄えではないことは確信していた。消したいと思えるデータばかり増えていく。誰かのために物語を紡げなくなっていた。
このころ、携帯小説サイトでサークルの後輩が書いた小説を見つけた。
アプリコットフィズ。私に振り向いてというカクテル言葉を、題名に選んでいた。
二十歳年上の教員に恋した女子学生に期待して読み続けたが、サブキャラを出し過ぎて構成が破綻していた。小説の更新頻度は激減し、後輩は書けない苦しさからアカウントを消してしまった。
「もったいないなぁ。笹野さんの文才」
磨く原石を間違えているのは惜しい。少人数を描く方が断然うまかった。
そんな僕の呟きを優奈が拾い上げた。
「寺本くん。あなたも笹野さんの小説を読んでいたの?」
このころの僕らは「河井さん」「寺本くん」と呼び、一定の距離を保っていた。二年生でコースが分かれるまで同じチューターだったが、授業以外で会話することは少なかった。久しぶりに盛り上がった反動で、言わなくてもいい思いをぶつけてしまった。
「だけど、消して正解だったかもしれないな。作品の半分くらい無駄がありすぎる。あれじゃあ、少しの人しか読みたがらないよ」
そのときだった。眉をひそめた河井は、傲慢になっていた僕を変える一言を放った。
「作品を出したこともない人が、どうして笹野さんのことを否定できるの?」
あの一瞬で魅せられた。射抜くような瞳に。
とくんと胸に響いた甘い衝撃に浸りたい。だが、本気で向かい合う河井に失礼だと思い、すぐに平生を装った。
「作品を生み出す苦労が分かっていない、か」
思わずこぼれた言葉は、僕の闘志に火をつけた。
もう一度、誰かを笑顔にさせるために短編小説を書きたい。僕はある提案を持ち掛けた。
「学祭で配る部誌に、僕の小説を載せる。そのとき、笹野さんが未完にしたものより超えていると思ったら、さっきの言葉を訂正してもらえるかい?」
河井が自信たっぷりに頷いた後で、僕は軽やかに部屋を出た。賞を獲る前の無邪気さを、捨ててしまった夢を掴むために。
執筆のきっかけを聞き、社先生はしばらく黙り込んでいた。口下手な僕が熱心に語ることが珍しかったかもしれない。
河井とのやりとりは伏せて話した。恋の勝負に恩師を巻き込むのは、なけなしのプライドが許さなかった。あくまでも、過去の自分から脱却するために使える手札を切っただけだ。
「甘い批評はできないよ?」
社先生がおどける様子を見せたのは一瞬だけだった。原稿を受け取った途端、優しげな瞳は肉食獣のように鋭くなる。
「文章は問題ない。構成は『行きて帰りし物語』だね。試練を経て主人公リノが成長する王道のプロットがうまく使われている。ただ……」
序盤から本質を突く指摘に、思わず唾を飲み込んだ。
「リアリティーに欠けるところがいくつかあるね」
僕はきょとんとした。該当箇所がすぐに思いつかなかったからだ。
「たとえば森の中でオオカミに怯える場面。この前の描写に木の形や葉が落ちる音の不気味さなんかを加えてみると、より一層恐怖を掻き立てられるんじゃないかな」
僕は思わず苦笑した。街路樹を参考にしただけでは描写が甘かったようだ。
「インドアが災いしました。森に行って観察した方が良かったですね」
「いや。夜の学内も怖いよ。ときどき、イノシシと鉢合わせすることがあるから」
笑い話に聞こえない。
この日の収穫は大きかった。止まっていた時間がゆっくりと動き出し、荒削りの部分を見つめ直すことができた。加筆修正を繰り返し、ようやく納得のいくものが完成したころは締め切りの前日だった。
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