終わる世界の物語 ~虚無なる神々の残響~

くま猫

第一章:破界と再世の少女 ~楽園の墓碑銘~

 ある世界に、神々の寵愛ちょうあいをその一身に浴びて生を受けた、銀色の髪を持つ美しい少女がいた。少女の名はソフィア。


 その魂は、夜明け前の湖面のように静かで、深淵を映す瑠璃るりの色をしていた。少女が生まれた世界は、慈愛と光に満ち溢れ、永遠の春を謳歌おうかするかのようであった。


 そこでは、色とりどりの花々が甘い香りを漂わせながら咲き乱れ、瑞々みずみずしい緑葉を茂らせる樹々では、名も知らぬ鳥たちが宝石のような声でさえずっていた。人々は互いを疑うことなく思いやり、その微笑みは陽光のように温かかった。


 まさに、神々の祝福そのものが形となったような、真に愛と光に満ちた世界。少女が生を受けた世界は、ビオトープ神々の匣庭――天界と呼ばれていた。


 このビオトープ神々が管理する匣庭には、死や苦しみ、悲しみといった負の概念は存在しなかった。ただ美しい花や樹々、清らかな水、そして穏やかな生物たち。


 人々の心は慈愛と善意のみで満たされ、悪夢すら見ることのない眠りについていた。完全に秩序と調和が保たれ、神々によって寸分の狂いもなく創り上げられた匣庭の世界アヴァロン。少女が過ごした日々は、まさに楽園そのものであった。


 ソフィアという少女は、決して特殊な出自を持ったわけではなかった。両親からの、まるで尽きることのない泉のような無償の愛に包まれて育ち、周囲には常に美しい物があふれ、人々の慈しみ深い眼差しに支えられ、何一つ不自由を感じることなく成長した。


 だが、少女にとって、その全てが無価値だった。両親からの無償の愛も、風に揺れる可憐な花々も、鳥たちの甘美な歌声も、耳に届く優しい音楽も、瞳に映る世界の輝きも――その何一つとして、彼女の心に小さな波紋すら立てることはなかった。


 世界が色褪せて見える、という表現すら生ぬるい。彼女にとって、世界は存在しないも同然だった。


 ――――ゆえに、少女は常に、絶対的な孤独の中にいた。

 その孤独は、他者との断絶から来るものではなく、世界そのものとの断絶であった。



 ここは、天獄。



 神によって完璧に管理された、息詰まるほどの理想的なディストピア。

 最上位の天使、熾天使セラフィムによって、感情の起伏すら制御された操り人形達が暮らす理想郷ディストピア


 少女にとって、この世界は精巧に作られた鳥籠であり、その中で彼女はただ一羽、異なる色をした鳥だった。


 少女にとっては、目をつぶり、意識の深淵に沈み込み、完全なる暗闇の中で静寂死の気配を想うことだけが、唯一の安らぎであった。


 その静寂だけが、彼女の魂に触れることを許されたかのように。少女は静寂を愛し、そして、あたかも意思を持つかのように、静寂もまた少女を愛した。


 やがて、その静寂は少女の魂の深奥に魅入られ、彼女の内に秘められた、声にならない願いを叶えてあげようと、そう考えたのだった。


 少女――ソフィアの願いは、ただ一つ。それは、この完璧で息苦しいビオトープ神々の匣庭の、完全なる死。


 それは、この世界を創造し維持する上位者――熾天使セラフィム――に対する、明確かつ絶対的な叛逆を意味した。少女のその純粋で根源的な想いを叶えるため、静寂は、まるで恋人と抱き合うように、少女と一つになった。その瞬間、ソフィアの銀色の髪はより一層冷たい光を放ち、瞳の奥には宇宙の終焉にも似た深淵が宿った。


 その日から、世界は変容を始めた。少女がでた花は、その色彩を失い、急速に枯れて塵となり、風にさらわれた。彼女が触れた樹々は、内側から腐り落ち、悪臭を放つ黒い液体を滴らせた。


 やがて、鳥たちの美しいさえずりも聞こえなくなり、代わりに不気味な静けさが森を支配した。少女がその白い指を浸した清らかな湖は、瞬く間に強酸の沼へと変質し、泡を立ててかつての生命の残滓を溶かしていった。


 少女が関わる全てのものは、例外なく静寂に包まれた。少女を心から愛した両親も、少女に親しく微笑みかけていた周りの人間たちも、まるで糸の切れた人形のように動きを止め、その瞳から光を失った。彼らの顔には、苦悶も安らぎもなく、ただ虚無だけが浮かんでいた。


 少女は、その静寂に満ちた光景の中で、初めて真の理解を得た。私が心の底から真に求めていたのは、この景色だったのだ、と。


 枯れ果てた花園、泡立つ強酸の沼、腐臭を放ちながら崩れゆく死骸の山。その全てが、少女の胸を高鳴らせた。少女はこの時、生まれて初めて「美」という概念を、その戦慄と共に理解したのだった。それは、調和や秩序とは対極にある、崩壊と滅亡の中にのみ見出される、歪みきった至高の美であった。


 少女によって、この世界に初めて生まれた概念――「死」。それは、かつて神々が世界の創造の際に、辺獄リンボパンドラの奥深くに厳重に封じ込めたはずの、禁断の概念だった。


 少女は、この世界の全てにとって、自身が異物ウィルスであり、破壊のための触媒であることを、明確に理解していた。


 そして、この世界の維持を司る大いなる意思は、体内に侵入した異物ウィルスを排除しようとするかのごとく、少女を滅ぼさんと動き出した。


 だが、皮肉なことに、この完璧に管理された世界ビオトープ神々が管理する匣庭には、これまで殺意や憎悪といった、他者を害するための概念が存在しなかった。


 そう――ソフィアが、その禁断の果実を世界にもたらすまでは。憎悪、嫉妬、恐怖、絶望――新たな多様な負の概念が、まるで闇色の花々のように次々と萌芽ほうがしていく様に、少女は歓喜の声を上げた。それこそが、彼女の求める世界の真の姿だったからだ。


 ビオトープを管理する、この世界の絶対的な管理者である熾天使セラフィムたちは、その永遠とも思える存在の中で、初めて「畏れ」という概念を理解した。それは、自らの創造物が、自らの手によって崩壊していく様を目の当たりにする、根源的な恐怖だった。


 熾天使セラフィムによって、その異物たる少女を討つために遣わされた一体の智天使ケルビムは、ソフィアの前に立ちはだかった。しかし、少女がただ静かにその智天使を見つめると、神聖なる天使の体は見る間に石化し、やがて塩の彫像のように脆く崩れ去り、風に吹かれて消え失せた。


 永劫えいごうの時を刻むはずの神の使いにとって、あり得てはならない「死」。


 それが、たった一人の、か弱く見える少女によって、いとも容易くもたらされたのだ。「死」という概念を理解し、その恐怖と同時に、解放の可能性を知ったビオトープの人間たち《かつての操り人形》は、ついに自らの意思で動き出した。彼らは、これまで自分たちを支配し、偽りの楽園に閉じ込めていた管理者たち――下級の天使や神官たち――を襲い、虐殺し始めた。かつて慈愛に満ちていた瞳は憎悪に燃え、優しい言葉を紡いだ唇は呪詛を吐き出した。


 ――匣庭ディストピアの破壊と、混沌なる創世の七日間が始まった。神々を滅ぼし、その支配から逃れた匣庭の住人糸の切れた人形たちは、しかし、次なる自由を手にしたわけではなかった。


彼らは、解放された本能のままに、次は同族である人間同士で互いを憎しみ、奪い合い、殺し合うようになった。それは、かつての調和とは似ても似つかぬ、醜悪な――否。ソフィアにとっては、これ以上なく美しい光景であった。


 彼らがかつて愛と慈しみに包まれていたのは、ただ、知らなかっただけなのだ。死を、殺意を、憎悪を、裏切りを、絶望を。それらの概念を知らなかっただけなのだ。


 そのかせが外れたいま、彼等は檻から解き放たれた飢えた獣に等しかった。ビオトープの、完全なる終焉。そして、新たな世界の、血塗られた黎明。


 これこそが、少女ソフィアが心の奥底から求めていたもの。武力真理啓蒙絶対的な力による虚構の破壊と真実の露呈であった。


 少女は、かつての神々の玉座があった場所から、今や互いを殺し合う人間の群れを静かに一瞥いちべつし、そして、ただ清らかに、かつて天使たちが歌ったものとは異なる、終焉を讃える讃美歌サルムうたうのであった。


 その姿は、もはやただの少女ではなく、破壊と再生を司る、新たな世界の神そのものであった。少女はこの歪んだ真理を、この美しき絶望を、他の無数の世界にも伝導するため、次元の壁を超え、多元世界を渡ることを決意した。


 これは、数多の異世界に、美しき終焉をもたらすことになる、虚無なる神が誕生した時の、最初の物語である。

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