心痛

 桜井哲也を連れて行ってから半日が過ぎ、風香が病院から戻ってきた。

 俺と葉風は、霊気の流れにやや異常が見られた垢舐めの治療をしていたので、終了後に風香の部屋へ行くと約束した。

 蝶子からの報告では、風香の顔色は優れていなかったという。心配だったが、患者の治療を放り出すわけにもいかない。


 垢舐めの症状は食べ過ぎによる体調不良。

 本来の垢舐めは生物の老廃物を食すあやかし。だが、神渡ビルで暮らす垢舐めは食材系のゴミを食べている。


 カラオケボックスやレストランなどで出る食材系のゴミは膨大で、数人の垢舐めが食べたところで処理しきれるものではない。近々、食材を近場の産地から直接仕入れる計画があり、ビルから出る生ゴミで堆肥を作ろうという計画もある。実際、生ゴミ処理用の設備は何が良いのか調べている最中と聞いている。


 だから垢舐めが無理をしてまで食べる必要はない。だが、彼らにすれば食事自体が仕事となっているため、頑張りすぎてしまう。新たな生ゴミ処理の仕組みができても、彼らの食べ残しで堆肥を作るから仕事がなくなるわけではないと言われていても危機感をもっているのだろう。


 神渡ビルは今や殺生石を浄化するためだけのビルではなく、人間社会と折り合って生きようとするあやかしの生活空間となっている。そのことを十分知っているから、あやかし達の生活が脅かされるような状況を玖音が作るはずはない。

 その点はあやかし達も判っているはずだ。だが、やっと手に入れた安心な生活が失われるかもしれないと考えてやはり心配なのだろう。 


 だから俺は「今後も安心して生活できるから無理はしないように」と伝えながら霊気の乱れを治していく。玖音の妹である葉風も一緒に「玖音姉さんはみんなの生活を守りますから」と言って安心させようとする。


「私も玖音様を信じています。でもやっぱり不安で……」


 治療のためにベッドに横たわるふくべの表情は見えないが、声にはやはり不安が残る。


 高天原にあやかし用の居住地を用意して貰った。確かに食べる物はあるし、人間社会のルールに沿って生きる気遣いはない。だが、発展しいつも何かが変わっていく現世と違い、数千年数万年も何も変わらない場所で生活したくない者も居る。神渡ビルはそういった者達にとって大切な場所なのだと、垢舐めのようなあやかしと話をすると再確認する。


 およそ一時間ほどの施術を終えた。

 霊気の流れはしっかり整えたが、この分だとしばらくしたらまた治療する羽目になりそうだ。


「とにかく、食べ過ぎはダメだぞ? このビルの強めの霊気を浴びてるからこの程度で済んでいるけれど、たびたび同じような症状を起こすようだと仕事から離れなきゃいけなくなるからな?」


 「気をつけます」とふくべの返事を聞いて見送る。

 

「さ、風香のところへ行こう」


 葉風に声をかけ、受付けで蝶子に自室に居るからと伝えてエレベータ向かった。


・・・・・

・・・


 部屋に戻ると、風香と紫灯が待っていた。

 ダイニングの椅子に座る風香のために、いつも通りの穏やかな表情で紫灯はコーヒーを淹れていた。

 そして戻った俺達と目が合うと「お疲れ様です」と一言だけ言い、食器棚から俺達のカップを取り出した。


 俺と葉風は、風香の正面に並んで座る。

 俺達に向けた表情はいつもより少し暗い。


「お疲れ様」

「ああ、風香もお疲れ……それで桜井さんは?」

「うん、身体は問題ない。擦り傷すらもなかった。でも、攫われたことを覚えていないの」


 とりあえず桜井の身体が無事だと判り安心する。

 攫われたことを覚えていないというのには、少し驚いた。だが、ならば芦屋のことも知らないままということだと考えれば、この先もずっと俺達との繋がりも判らない。

 そう考えれば、悪いことばかりじゃない。

 風香の態度から、他のことは記憶に問題ないようなのだから。


「薬か何かで?」

「詳しいことは調べて貰っているからまだ判らない。でも多分そう」

「じゃあ、目を覚まして驚いていただろう?」

「とてもビックリしていた。最後の記憶は、出社のためにマンションを出たってところでね。気がついたら病院のベッドですもの、当然ね」


「そうか。でも、芦屋のこと知られなくて良かったじゃないか」

「でも、二日間の記憶がないのだから、どうしようか戸惑っていた」

「どうしようって?」

「自分の身に何が起きたのか……警察へ届けて調べて貰いたいと考えるのは自然よね」

「まあな」

「だけど調べたところで、誰かに攫われたことと、川崎のトイレへ連れて行かれたってことくらいしか判らないでしょう?」


 葉風の言う通りだ。

 芦屋の存在が表沙汰になるようなことはできるだけ避けたいだろう。

 ならば、人ではなくあやかしか式神を使う。そこら中にある監視カメラに映った情報を確認して、映っていた情報を追いかけても、警察の手が芦屋へ届くことはないだろう。


「そうだな。芦屋のことだから、あやかしか式神を使って桜井さんを連れ去り、そして……」

「ええ、私もそう思う。あやかしか式神が実行犯じゃ、警察がいくら調べたところで犯人を見つけ出せないもの」


 葉風も俺に同意した。


「それで風香は彼にどう話したんだ?」

「何も」

「……そうか」


 そりゃそうだよな。

 事件の詳細を話したら、何故知っているのかということになる。

 巽総司おれを誘い出すために、陰陽師が俺と近しい人の関係者を誘拐したなんて言えない。

 嘘をつくくらいなら知らないことにしたほうがいい。

 

「彼をたまたま見つけたのはうちの従業員で、意識が無いから病院まで運んだことにした」

「ああ、それはだいたい真実だからな」

「……彼のこれからについては、明日また話すことにして帰ってきたの」

「警察へ行くという話か?」

「そう。私達は意識の無い彼を見つけただけであとは何も知らないことにしているから、どうするかは彼の考えに任せるより他にできることはない」

「ああ」


 確かに、風香の言う通りだろう。

 俺達は桜井を見つけて病院へ連れて行っただけ。

 風香は、彼と一緒に事情を知りたい姿勢を見せるべきだ。

 ……どうせ何も判らないだろうが。


「……この件が落ち着いたら、私……姉さんに頼んで崑崙で修行しようかと考えてる」

 

 俯きながら神渡ビルから離れると言い出した。


「性急に結論を出すなよ」

「だってどうしようもないじゃない」

「玖音様と話したのだが……」


 芦屋分家と本家の姿勢の違いや、芦屋栄の目論見が外れつつある点を説明した。


「……だから、もうしばらく様子を見て、それから考えても良いと思うぞ」


 うっすらと涙を溜めた風香に、判断を急がないようにと説得する。

 葉風は風香の横へ座り、「とにかく落ち着こうね?」と肩を抱いた。


 芦屋の件で、桜井に影響が及ばないようになったとしても、風香が納得して今の生活を続けようと考えるかは判らない。

 だがこの先、誰に対しても愛情を抱かずにいられるか?

 いつかきっとまた誰かを愛するんじゃないだろうか?

 感情に激しいところがある風香なら、きっと愛してしまうだろう。

 ならば、今は辛くても気持ちに折り合いをつけて前向きに生きられる方法を探すべきじゃないか?


 葉風の胸に頬を当てる風香を見ながら、「見つけなきゃいけないんだよな」と心の中でつぶやく。


「あと、芦屋本家にこちらから乗り込んでもいいんじゃないかと考えている。もちろん玖音様が許してくれればの話だけどな」

「栄達の首に鈴をつける……ってこと?」


 風香の髪を撫でながら顔を向けて訊いてきた葉風に頷く。


「そして本家の考えも訊いておきたい。分家を潰したら本家が出てくる……なんて面倒は避けたい」


 芦屋猛と栄にはきっちり痛い目を見せておきたいところだ。

 だが桜井哲也も無事に帰ってきたことだし、これ以上の面倒を起こさないと本家が約束するなら、こちらもつよしの命を奪ったこともあるから帳消しにしてもいい。

 ま、これは俺の考えで玖音がどう考えるかは判らない。


 藍睨果の話だと、どうやら本家は分家の動きに気付いているようだ。

 だが、ここまでは動きを見せていない。

 その辺も不気味だから、やはり本家とは一度会っておくべきだろう。


 それはそれとして……とにかくこの場は風香を元気づけなければな。


「ま、まだまだ問題は残っている。だけど、桜井さんが無事だったのだから、それを幸いとして一旦落ち着こう。風香、今夜も葉風に添い寝して貰えよ。お前も甘えん坊なんだからさ」

「あ、甘えん坊? 失礼ね!」


 急に目つきに力が戻ってきた風香だったが。葉風から離れない。

 風香を見る葉風の表情も少し和らいだ。


「大丈夫。朝凪には内緒にしておくからさ」


 この時向けられた、最低最悪の何かを見るような蔑んだ風香の視線を俺は生涯忘れない。

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