クロック・アンド・ドールズ

狐狸夢中

ごめんなさい

本日、12月の、22だか23だか。雪が降ってる。とても寒い。でも手袋は付けないよ。帽子もマフラーも。防寒具つけたところでまた破けるからね。さてさて今回で何回目だ。もう覚えてないよ、そのくらい挑んできた。最初のうちはまだよかったな。負けて帰ったら悪かった所をノートに書きまとめた。毎日挑んで毎日負けて。ノートに書いてはまた一から読み直して。三冊目がぼろぼろになった頃に読むのを辞めた。そうなったのが今年の夏か。今年の夏はどうやら異常気象だかなんだかでかなり汗をかいた記憶がある。体を強くするために鍛えたりご飯をいっぱい食べたりした。各筋肉を鍛えるメニューを考えて、筋肉の成長のことだけを考えた食事をとった。食費が無くなってきた頃に食事をするのを辞めた。そうなったのが今年の秋か。秋は過ぎるのが早かったな。いつか紅葉を見に行こうと思ってたら、水たまりに沢山のもみじが落ちているのを見かけた。

――さてと、今日も今日とて行きますか。攫われた姫を救いに。


僕の姫はわがままで人を弄んでそのくせ寂しがり屋で面倒くさい女だ。でも神様はバランスを取ってくれたのだろうか姫様は顔が良い。世の男性に理想の女性像を問えばそれらを総合すると彼女になるのでは思う。

すまん、それは言いすぎだ。人それぞれに好みはある。だがその好みの定義が決して変わることはないと強く誓ったものでなければ、彼女を見た者の好みは彼女になるだろう。彼女の容姿について説明しようと思ったがどうやら僕の辞書では容量が足りなすぎる。誰か村上春樹を呼んでくれ。

そんな僕と彼女はどのような関係なのか。僕にも分からない。彼女に恋をしたら彼女がもう一人の彼女に連れ去られたのを偶然目撃し助け出そうしてるだけだ。

ふむ。“彼女に恋をしたら彼女がもう一人の彼女に連れさられた”だと事実なのだが伝わりにくいな。彼女の名前は鏡子きょうこ。苗字は知らない。だから先程のは“鏡子に恋をしたら鏡子がもう一人の鏡子に連れ去らてた”となる。分かりやすくなっただろうか。今、ドッペルゲンガーや双子を思い浮かべただろう。残念だが違う。


「運命の人は二人!?もう一人の彼女の正体は…?双子か他人の空似かそれとも…。衝撃の真実にあなたはきっと驚きを隠せない。○○が描くミステリー恋愛小説!」


……こんな感じか。売れない小説の帯コメントのようなことを安易に想像したな?そんな二人だけの小さい風呂敷内の内輪揉め話ではなく、もっと大きく複雑な展開だ。僕もむしろ帯コメントの方の展開ならばよかった。こんな愚痴は何千回と頭の中に書いただろう。例のノートにもびっしり書いてるのでなかろうか。そろそろ目的地の時計台に着く。今日も変わらず三角錐型の芸術的な構造の時計台だ。時刻は6時を回ろうとしてる。星は今日は見えないな。何を言ってる当たり前だ。雪が降っているのだから雪雲に隠れて星は見えない。アンドロメダって冬の星だっけ秋の星だっけ。

今日も張り切って行きましょう。


街のシンボルのあの時計台には僕だけが知ってる隠し扉がある。この扉に入り浸りすぎて第二の家の如くなのだが。隠し扉の先には薄暗い通路と螺旋状の階段が。まったくもう、もっと時計台内の照明の感覚を狭めてくれよ。暗くて不気味ではないか。螺旋階段をある程度登って上を見上げると螺旋階段は壁伝いに長く高く続いている。絵画かよ。何処へと繋がっているかは知らないが果てしない道のりだ。いや何、距離的な果てしない道のりではない。問題はあれだ。ある程度登るとそれは現れる。かつんかつんと律儀に一段一段降りながら僕に向かってくる。僕としては是非とも無視したいがね。さて今日も始まるよ。


階段を降りてくるのは鏡子だ。

いや違う鏡子じゃないよ。

鏡子の姿をした人形だよ。

でも鏡子なんだ。しょうがないだろ。

鏡子の瞳には光がない。濃い藍色一色だ。そんな人間いるわけないと思うだろ。でもあれは鏡子だからな。そういうものなのだ。本当は鏡子ではないが。

鏡子と僕の距離がすぐ近くまで来た。僕の二段上に鏡子は立っている。僕から何もしなければ鏡子も何もしない。だけど踏み出さないわけにはいかない。僕は一歩を踏み出す。

左ほっぺの方がじんじんする。ああ、殴られたんだな。鏡子の方に振り返ると目の前に拳があった。吹き飛ばされる僕。視界が銀色に歪んだ。螺旋階段を転がり落ちる。捕まるところが何処にもないため地球さんの重力の赴くままに転がり落ちる。どうやら殴られたときに鼻血が出た。勢いよく吹き出した鼻血は殴られた位置の壁から現在地まできれいなさざ波を描いている。

また進む。するとまた殴られた。殴られる覚悟は出来てたから踏ん張ることが出来た。これでも秋ぐらいまで鍛えていたんだ自律人形相手に無抵抗なほどやわではない。

左、左、左、右。僕の顔が殴られた順だ。殴られた箇所は面白いほどに腫れ上がり、酷いところは皮膚が切れてしまって出血している。瞼の上を切られて血が左目の中に入った。左側の視界に真っ赤なカーテンがかかった。鏡子、いや鏡子の姿をした自律人形は僕の死角となった左側から何度も拳を叩きつける。人形に殴られるととても冷たいのだ。皆も一回殴られてみればいい。人間に殴られる時は感情と血の巡りが感じれて温かいが人形は違う。僕を時計台から追い出すためにひたすら殴る。感情などない。おそらくAIも搭載されてない。たった一つの命令を守っている。

「侵入者を排除せよ」

それだけだ。でも僕は行かなければならない。

歯が折れた。また折れた。口から吐き出そうと思ったタイミングで丁度殴られたため間違って舌を噛んでしまった。さらに出血する。しかも折れた歯を飲み込んでしまった。ちゃんと消化してくれるだろうか。さすがに僕も怒るので殴った手をしっかり握り押さえつけた。すごい力で抵抗される。このエネルギーは一体なんなのだろう。筋肉とはまた違う力だ。左腕を押さえつけてたら右腕で顔を殴られた。でも離したりしないぞ。そんなことを思っていたら今まで以上の力で投げ飛ばされた。壁に叩きつけられるとそのまま下に落下し、螺旋階段をごろごろと転がり落ちる。まるで折り紙のようにぐしゃぐしゃになってしまった。さっきまで人形の左腕を押さえつけていた僕の左腕の関節が普段曲がらない方向に曲がっている。指なんかもっと酷い。五本の指が飴細工のように綺麗にばらばらの方向を向いて何本かは骨が剥き出している。痛い。空気に触れるだけなのに、皮膚が剥がれた筋肉に直接ガムテープを貼られてそれを勢いよく剥がされてるみたいだ。氷海に素手を突っ込んだようにびりびりと痛むのに呼吸するたび左腕にもう一つの心臓があるかのように熱を帯びている。

左腕を傷んでいる暇は与えてくれない。

人形はハイヒールを履いて綺麗なドレスを着ているのにつまずくことなく器用に階段を降りてくる。そしてヒールの尖った部分で僕の顔を蹴りつけた。右眼から何も見えなくなった。よくは分からないが恐らく右眼の眼球にヒールが突き刺さったのだろう。右眼を手で抑えようとすると今度はへその辺りを蹴り上げられた。一瞬意識が飛びそうになったが痛みがそうはさせてくれなかった。必死に鍛えた腹筋も人形の前では煮詰めた人参にんじんのように脆い。口を開けてたから塊の黒ずんだ血がとめどなく出てきた。内臓を潰されたか。蹴られた箇所に目をやるとなんのことはない、腸が傷口からはみ出していた。足にダメージはないはずなのに立ち上がれない。うずくまって動けない。

その日最後に見たのは、鏡子が僕を見下ろしながらハイヒールで踏みつけようとしてる所だ。新たな発見だったのだが、下から覗くと鏡子の太ももや足首の関節に人形の骨組みがよく見えた。美しかった。でも本物の鏡子ほどではない。


外で遊んでいる子供たちの声で目が覚めた。ということは今は朝の9時くらいか。あれから12時間以上も寝ていたのか。昨日のはここ最近でも特に酷いやられようだったから仕方ない。時計台の中は朝だろうが夜だろうが暗いまま。螺旋階段の上には人形の鏡子がどこかを見つめている。いや、見つめていない。瞳に光はない。言うなれば、二つの穴に眼球がはめ込まれているだけだ。

僕は思い切り両手を伸ばしてあくびをした。関節がぽきぽき鳴ったが痛みはない。腹部には鏡子に蹴られたせいで服に穴が空いてしまっている。お腹が空いたな。でもご飯食べるお金はないし。

時計台から出ると真っ白な太陽が積もった雪を照らしていた。足首ほどまで積もっている。だから子供たちがあんなに元気だったのか。また6時になったらここに来よう。たぶんまた負けるだろうけど何度でも来るさ。


♢


鏡子と出会ったのは今年の春、桜の綺麗な公園で出会った。大学の就活に失敗し、給料も待遇もあまりよろしくない企業で適当に働いていた僕は生きるのが嫌になり職務を放棄し公園で何をすることもなく時間を潰していた。

鏡子は公園にやって来てはベンチに座って桜を見ていた僕の視線を根こそぎ奪った。その公園には僕と鏡子だけだったが、誰もが桜より美しい鏡子を見たらそうなるに違いない。

僕は学生時代も遊ぶ方ではなかったが気がついたら鏡子に話しかけていた。だが無視。鏡子ほどの美人なら話しかけてくる男のあしらい方など嫌になるほど心得ているだろう。その結論がおそらく無視なのだ。その日は全く相手にしてくれなかった。だが、次の日も、その次の日も鏡子は公園に来ていた。話しかけて話しかけてやっと口を聞いてくれたのは出会って一週間後のことだった。

「あなたは誰ですか」

初めて話しかけられたときは嬉しさと驚きで声が出なかった。しどろもどろしているうちに帰られたら嫌だ。そうならないように頭を必死に動かし対応を考えた。あんなに頭を使ったのは大学入試以来だ。

「ぼ、ばぼ、ばくは井上いのうえですすす」

「井上さんですか」

「はは、はははい」

顔が一気に真っ赤になった。全身を血液が歓喜しながら巡っているのが分かる。毛穴が全て開き汗が吹き出す。春の陽気な日差しなのに僕だけ夏の痛い熱線に照らされているようだった。

「なぜそんなに汗をかいているんですか?今日の平均気温は13℃ですよ」

「そ、そそそそうですよね。僕ったら焦っちゃって」

ただでさえ地味な顔のせいで女性と話したことがないのだ。いきなり美人とまともに話せるはずがない。

「見上げる桜の」

「はい?」

「見上げる桜の花びらはいずれ全て落ち、地面を覆い尽くすだろう。人は見上げる桜を讃えるが、地面に散った花びらは躊躇うことなく踏みしめる。生ある者は必ず死あり。終わったものには興味はない」

「誰かの詩ですか?」

「いえ、私が今適当に作りました」

「へ、へぇ。文学の才をお持ちなんですね羨ましいなぁ」

「あなたは私のことが好きなの?」

「え、いや、その」

好きに決まっている。初めて見た時から僕は恋に落ちた。恋愛は外面より中身が大事だという言葉も鏡子の前では負け犬の戯言。

「ねぇ」

「す、好きです」

言ってしまった。人生初の告白は覚悟も何もしていないのに行われた。

「どこら辺が」

「あ、あなたは、とても、とてもとてもとてもとてもとても美しいです!」

僕の誇張表現のレパートリーが「とても」しかなくて悲しかった。

「何回も言われた言葉だわ」

「それはそうでしょう、美しいのだから」

「あなたは公園で何をしてるの」

痛い質問だった。無職同然だと言いたくはない。それにただただあなたを見つめるために公園に居座っていたなんて言ったらストーカーとして思われる。桜を見に来ていたという苦し紛れの嘘でもつこうか、でも無職とバレる。

「えっと、その、、、」

僕が返答に困っていると

「私を見に来たの?」

図星だった。それと同時に彼女は自分でも自らの美しさに自信を持っているのだなと思った。だがこと彼女に関しては傲慢だとか自惚れではなく当然のことなのだろう。

「1+1= 2」 と 「鏡子は美しい」

は同列に並ぶほどに決定されてある揺るぎない事実なのだ。

「でもね、私は自分が嫌いよ。似たようなものがいっぱいいるもの」

同じ顔がいっぱい。そう捉えた。ならば彼女の顔はモデル通りに整えられた整形によるものなのか。

「いっぱいいるとは、一体どういう」

「そのことは言えないわ」

隠すということはやはり整形手術か。でもそれでも美しいのには変わりはないのだから別に僕には関係ない。

「言うと、あなたは悲しい運命を背負うことになる」

運命?悲しい?よく分からない。

「ごめんなさい、実は整形なの」

やはりそうだったのか。先程は僕には関係ないと思ったが面と言われるとくるものがあった。

「ウソよ」

「え、嘘?」

「女の子が最初にごめんなさいを言ったら嘘を疑いなさい」

「そういうものなのですか」

「女は嘘をつく生き物。謝罪の言葉を先に言っておけば後に出てくる言葉がやわらかくなるの」

「は、はぁ」

頭の中で整理しようとしていると雨が降ってきた。なかなかに強い雨だ。せっかく咲いている桜の花びらは雨粒によって地面に叩き落とされてゆく。彼女の顔を見た。雨で濡れているのにメイクが落ちる様子はない。あの美貌で全くメイクをしていないなんて。

「雨が降ってきましたね。帰りますか」

「送って欲しいわ」

「え」

「私、傘持ってきていないの」

「僕だって持ってきてないんですが」

「買ってよ」

「え」

「いいでしょ。いくら働いていないとしてもそのぐらいのお金はあるでしょ」

僕が無職だってことはすっかりバレていたらしい。僕はキャバクラで高いお酒を女の子に頼まれて無計画に頼む馬鹿みたいなサラリーマンの気持ちがその時分かった。好きになった女には貢ぎたくなるものだ。

「急いで買いに行きましょう」

コンビニで傘を買った。一本だけ買って相合傘をするのもありだと考えたが、いくらなんでも早すぎるだろうと思って二本買った。

コンビニを出ると彼女の姿は無かった。心臓がキュッと小さく縮こまった。そうだよな。遊ばれていただけだよな。両手に傘、開かずに持ったまま家に帰った。


次の日、例の公園に行くと普通に彼女はいた。

「あ、どうも」

僕は軽く会釈をした。すると今まで無視してきた彼女も反応してくれるようになった。

数分ほど話したら家に帰ろうとする。そして簡単には別れようとせず、必ず僕を途中まで着いてこさせては最終的には一人で帰ってしまうというよく分からない関係が続いた。完全に彼女に遊ばれていると分かってはいたが、あんな美人に振り回されるのならと悪い気はしなかった。

彼女が名前を教えてくれたのはゴールデンウィークの初め、5月3日だ。GWにもなれば僕と鏡子さんだけの公園にも親子連れや小学生らが遊びに来る。僕はそんな賑やかな公園も嫌いではなかったが、鏡子は違った。

「人が多くて苦手だわ」

「どこかに移動しますか?」

「私の家に行きましょう」

「い、家ですか」

「あら、いやなの」

「そういうわけでは、ただ、いつもあなたは家まで送ってと言って途中で消えるではないですか」

「“あなたは”じゃなくて私の名前を呼んでよ」

「呼んでと言われても」

僕はまだ彼女の名前を聞いてなかった。公園で会うとはいえ特に話が弾むわけではない。「よく見かける人」の関係なのに名前を聞いていいものか渋っていた。

「あら、まだ言ってなかった?鏡子と呼んで」

「きょうこ さんですか」

「鏡に子供の子と書いて鏡子。古くさいでしょ」

「いえいえそんな、素敵な名前ですよ」

「どこらへんが?」

これだ。いつも僕が褒めたりすると必ず理由を聞いてくる。特に怒っているわけではない。慌てふためく僕を見て楽しんでいるのだ。

「鏡…ですから透明感のあって、その」

正直鏡子という名前をつけた真意など分かるわけない。例えば優子だったら優しい子に育って欲しいだとかそんな感じに言えるが鏡ってどこを褒めればいいんだ。

「私ね、自分の顔も好きじゃないけど名前も好きじゃないの。鏡というのは全く同じ姿を写し出すでしょ。私が鏡の中にもいるみたいで気持ちが悪いの。」

変わった人だ。不細工すぎて鏡を見るのが辛いという人はいるかもしれないが、美しいのに自分を見るのが嫌いだなんて。

「そんなことはどうでもいいわ。早く私の家に行きましょ。井上さん。」

「分かりました」


♢


「ここが私の家」

冗談だと思った。また僕をからかっているのだと。彼女が指さしているそこは街のシンボル。時計台だ。そこに人が住むなんて。

「またいつものイタズラですか?」

「もう、本当にここが私の家よ」

「本当ですか?」

時計台の裏に回る。

「ここ」

鏡子は何の変哲もない壁に手を触れる。すると隠し扉が現れる。

「うおっ」

「さて、最後にきくわ」

「最後?」

「井上さんは私が好き?」

「え、ええ。」

「これから私の正体を知っても好きでいてくれる?」

彼女の正体。家柄が厳しいとか法外な仕事をしてるとかそういうのだろうか。そもそも時計台に本当に住んでいるとしたらその時点で特殊だ。でも彼女のことを知りたい。その一心だった。あの時が人生の選択肢だった。あのまま帰れば僕は平穏に生きていた。だが今となって考えてみても、鏡子に関わらない方がよかったかと聞かれたら、全力でNOと答える。

「はい、大好きです」

鏡子は扉を開けた。時計台の中からとある人が迎えてくれた。僕の知っている顔だ。

「えっ……?」

鏡子だ。もう一人の鏡子だ。

「実は私ね」

鏡子が説明しようとしたらもう一人の鏡子が僕のよく知る鏡子の方を抱きかかえた。

「ちょっと、私はまだ」

抵抗する鏡子。

「な、なんなんですかあなたは」

僕が抵抗する鏡子を助けようと駆け寄る

「……」

もう一人の鏡子は片手を僕の顔に向けた。ストップのハンドサインだろうか。そう思ったらその手はパーからグーに変わる。左ほっぺに痛みが走ったと思ったら僕の視界から2人が消えた。目に映るのは時計台の後ろにあった噴水だ。ちょうど水が吹き出していた。

「……?」

「なんてことを!」

鏡子の声がする。しかし僕は倒れる。前に倒れる。いや、後ろに倒れる。僕がどこの方向を見ているか分からない。意識が遠のいてゆく中でしかと聞いたことがある。

「本当にごめんなさい、こんなことになるなんて。私のことはもう忘れて、私にはもう会わないで、時計台にも来ないで」

鏡子が僕の体を少しいじくり触ったかと思うと完全に意識を失った。


目が覚めたのは例の公園だ。夜をまわっていた。酒でも飲んで、彼女の夢でも見ていたのか。どこまでが本当でどこまでが夢なのか。

思い出そうとしていると目の前に鏡子がいた。

「あ、鏡子さん」

彼女の名前が鏡子と聞いたのも夢の中ではないことを願う。鏡子には反応がない。まるで初めてあった時のような反応だ。まさか酔っているなかで何か失礼なことをしてしまったか。頭の中で必死に思い出そうとする。

しかし、異変に気がついた。暗くて気が付かなかったが鏡子の眼がおかしい。蒼くて美しい瞳どころか眼球そのものがない。

目の窪みの中には小さな歯車がびっしりと入っていた。

「鏡子さん……?」

僕が眼をよく見ようと鏡子に近づくと腹部が急にぼわっと熱くなった。目をやるとナイフがぐっさり刺さっている。

「おあああああああああああああ!!!」

その場に悶え苦しむ。今まで生きてきた中で最も酷い痛みに耐えられない。手で抑えると大量に血が出ていくのが分かる。熱い。痛い。

「ど、どうして…!」

鏡子は腹部に刺さったナイフを容赦なく抜き取る。さらに痛みが走り叫び声を上げる。鏡子が僕の首にナイフを当てた。

「や、やめてく」

その日の記憶はそこで途切れた。


♢


翌朝、目が覚めると体中が痛かった。理由は起き上がらずともすぐに分かった。ベンチの上で寝ていたからだ。まだ5時ぐらいだろうか、日が昇っていない。酒の飲みすぎで鏡子にナイフで刺された夢を見た。昨日のことを思い返そうと体を起き上がらせると何かが体の上に乗っかっていたらしく、それが地面に落下した。重厚感のあるものが落ちた。スマホだろうか。違った。血がべったりついたナイフだった。


「そうだ、昨日、僕は、」

思い出した。彼女の名前を聞いたことも。時計台に行ったことも。もう一人の鏡子が出てきたことも。またこの公園でナイフに刺されて殺されたことも。

「―なぜ、生きている」

確かに死んだ。腹を刺されて首を割かれて。

分からない。分かるわけがない。ぐるぐるぐるぐる脳みそが回る。なんだ。死んだのか。夢ではない。いやだ。何故こんな目に。帰りたい。誰のせいだ。僕が何をしたんだ。なんで、なんで、なんで。

とりあえず家に帰った。

そしてご飯を食べた。

体に異常はない。

ただちょっと疲れからか体が重い。

朝ごはんを作る最中に包丁で軽く手首を切ってみたがちゃんと痛かった。

もうこのまま寝てしまおう。

あの公園にはもう行かないかもしれない。

鏡子も来るなと言っていた。












そうだ、時計台へ向かわなければ。

僕はろくに身支度もせずに走った。

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