そして、私の見るものは……。

白羽翔斗

第1話 日常と非日常


 人形チックな端正な顔立ちに、銀髪のロングヘアー。

 編み込んだ髪に赤のリボンを結う少女は地面にかがみ込み白い一輪の花を見ている。


 少女――メル • アイヴィーは首の黒いチョーカーに手を添えて、憂いの感情をその顔に小さく浮かべる。


 周囲にこの花以外に植物はない。

 ポツリと咲くその姿に自分を照らし合わせている。


 メルは風に靡く花をじっと見守る。


 細々とした茎が地面に着きそうなほどしなり、そして、再び元に戻る。


 自分は世界に捨てられたのだと、硬い表情ながらも自嘲の笑みを浮かべる――いや、メルは浮かべているように思っている。


 自分の運命は疾うの昔に諦めてしまった。


 自分の中に存在する数少ない感情――『悲しみ』を精一杯感じつつ、ゆっくりと立ち上がる。


 いつもの道をトボトボと空を眺めながら歩く。


 メルは空に手を伸ばす。

 メルは空が終わりがないことを知っている。

 そして、決して手が届かないことも……。



 それでもなお、手を伸ばすのは、ある種の逃避だとメルは思っている。


 言葉にならない気持ち。

 しかし、果てしない空を自由に飛び回れたら、すべてが振り切れるのではないだろう、と自分で答えを出している。


 目的地にたどり着く。

 視界一杯に広がる空を一層青くした色の海。

 空と同じように海は終わりがないように見える。


 遠くから流れる塩の香りを運んでくる海風が白のワンピースを揺らす中、メルは目を細め地平線の彼方へ目を凝らす。


 いくら見ても、いくら背を伸ばしても、塩味のアクアの水しか映らない。


 首のチョーカーに手を伸ばす。

 壮大さと矮小さを対比して。


 ただ静かに眺める。

 飽きることはない。

 目を反らすこともない。


 この景色を焼き付けるが如く、メルの澄んだブルーの目で見つめる。


 赤い太陽が沈もうとしている。

 地平線に消えるまでの残紅。

 これが振り絞る最後の輝きだ、と言わんばかりの光力に、メルは目を奪われている。


 無論、また日は昇ることをメルは知っている。しかし、この幻想的な光は無き感情を強く刺激する。


 太陽が沈み終わると、引っ張られたかのようにその場を後にして帰路につく。


 そして、家に帰り、眠る。

 それがいつもの、繰り返し繰り返し行い続けていることだった。


 しかし、今日だけは違った。


 海から家に帰る途中、小さな町に入る。


 その町の外れの小さく簡素な橋を渡ろうとしたとき、川の穏やかな岸に、ぽっ、と微力ながらもはっきりと分かる光が目に入った。


 それを見つけた刹那。


 その光が合図だと言わんばかりに、辺り一面から光が溢れる。


 乱舞する。


 形を留めない点々とした光たち。


 ただ見惚れるしかない圧倒的な絶景。


 しかし、とメルは目を閉じ俯く。


 どれだけ見ても、感じようとも、口からその光景を讃える言葉が出てこない。


 どれだけ眺めても、脳に焼き付けようとも、その表情は驚きも幸福を表せなかった。


 これが長い間使用しなかった『代償』だ。


「ホタル綺麗ですよね」


 不意に声をかけられ、顔を向け、歩いてくる少年を視認する。


 少年は小さく微笑みを、軽くお辞儀した。

 メルはそれに何の反応を表さず、ホタルに向き直る。


「すいません……声をかけてしまって……でも、あなたの表情がとても幸せそうだったので」


 一呼吸。そして、少年は再び優しく微笑みを浮かべ、ゆっくりと川の畔に歩みを進める。


 メルは、今、少年の言葉で、この絶景を作る光の虫の名称を知ったのだ。


 『ホタル』。メルは心にそう深く刻む。

 メルはこのホタルがこの時期に、さらに、短期間しか見られないことを知っている。


 ただ、どのように呼ぶのか。この光景をどのように表すのか。それを知らなかった。


 少年はメルの横にかがみ込み、少しでも近くでホタルを見ようとしている。


 メルはその少年を穏やかな表情で眺めている。


 少年はメルを見ることなく、ホタルに手を伸ばし、尋ねる。


「ホタルの寿命は一週間〜二週間。つまり、長くても14日しか生きることができないって知っていましたか?」


 見ているだけで心が幾らか休まる光を放つ生物の生きられる時間を、告げられる瞬間に、心がトゲに刺されたのかと、思えるほどの、衝撃を受けた。


 メルはそばの少年の言葉に答えようと、口を動かそうとする。

 ああ、やはりか、とメルは少年から視線をさらに下げる。


 長い間、言葉を発さなかった代償。

 忘却機能は自分の意思とは裏腹に、要らないものは、すべて、消してしまう。


 しばしの静寂。


 もう一度。


 そう、もう一度。


 頭を上げ、肺に空気を送り、そして――


 メルはそのとき、少年の手にホタルが乗るのを見えた。


 短い生命。この生き物は命を削りながら、輝いているのだ、と。

 メルは妬ましい、それでいて、哀れみ、そして、憧れを抱いた。


 メルのブルーの瞳は、より鮮明に、より美しく輝く。


 メルは意を決し、喉に空気をを通し、声を紡ぐ。


「……わ、私は……」



 繭から糸を紡ぐように、艶やかな唇から辿々しくも、心地よい声。


 少年は少し驚いたように目を丸くして、メルを見る。


 メルは表情を柔らかくしようとしながら、精一杯、笑みを浮かべるようにしようと思いながら、少年を見る。


「もっと、この世界のことを教えてください」


 カチャリ、とメルは何かが噛み合うような、音が聞こえた気がした。


 首のチョーカーに手を伸ばしかけて、手を止める。


 少年は驚愕の表情から、穏やかな笑みを見せ、答える。


「……僕で良ければ……僕はアルフ • オードレット」


「私は……メル」


 一歩、また一歩と踏み出すように。

 メルは言葉を続ける。


「メル • アイヴィー」


 静かな空間に透き通る快美な声が響く。


 アルフは頷いて、メルの横に立ち、ホタルを眺めた。


 アルフは小さくメルに聴こえるか聴こえないくらいかの声量で言葉か紡がれる。


 それは、メルは今まで知らなかったもの。

『歌』という美しいものだった。


 メルはそれを聴いているうちに、微笑んでいたことに、気がついていなかった。


 いつの間にか、ホタルが集まり、メルたちを包む。


 その中で、メルは強く思う。

 この世界のことを知りたい、と。

 人と話がしたいと、と。

 そして、また、笑顔を作れるようになりたい、と。


 この日、メルは『ホタル』と『歌』を覚えた。

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