第九章

第九章

蘭のところに、宮大工として働いている男性が訪ねて来ていた。腕に入れていた百合の花を描きなおす、いわゆる手直しを依頼したのだ。彼も、幼いことに実母からされていた、長年にわたる虐待のせいで、腕に大きな傷跡を残していた。なので、それを消すために入れ墨を求めてきたとき、蘭は快く引き受けた。これをした後、彼は人生が吹っ切れたようで、現在宮大工としてしっかり働いているし、何の問題も起こしていない。数年前に、親方の勧めで見合いをし、見事に成功してお嫁さんを貰い、今は新居を構えて幸せにくらしている、と聞いたが、今日やってきた彼は、とてもそうには見えない顔をしていた。

「どうしたんですか?馬鹿に落ち込んでいるみたいじゃないですか。」

施術をし終えた蘭は、彼にそう聞いてみた。

「いやあ、ちょっとねえ。うちの中で重大な問題がありまして。でも、口に出して言っても、意味がないかなと思いまして、、、。」

言っても仕方ないなと言いたげに彼は言った。

「僕にも言えないんですか?以前は、何でも話してくれたのに。いきなり黙りだすなんて、なんだか水臭いですね。」

蘭は、好奇心で言ってはいけないかなと思いながらも、そう聞いてしまうのであった。

「そうですねえ。確かに何でも話してきた先生ですから、言えば楽になるとも言いますし、思い切っていってしまおうかな。実はね、女房が乳癌の手術をしましてね。幸いどこにも転移はしていませんでしたからね、すぐに帰ってこれたんですが、場所が悪くて温存ということはできなくて、仕方なく片方は全部取る羽目になりました。」

「なるほど。まあ、確かに女の人にとって、それがなくなることは、確かに大きな損害だと思います。でも、命が助かったんですから、我儘を言うなと諭すことも必要なのではないでしょうか?」

蘭は、男らしくもっともなことを言った。

「まあ、俺もね、何回もそう言い聞かせたんですよ。ですが、納得したそぶりを見せてくれることもありますが、まだ受け入れはできないようで、よく泣き出すんですよ。なので、乳房再建ということを考えて、調べてみたんですけどね。どうもそれは金がかかりすぎて、俺の賃金ではとても払いきれません。術後で体の弱っている女房に、あんまり働かせるのもかわいそうですから、これ以上仕事を増やすのもできません、あーあ、ほんとに、にっちもさっちもいかないなあ、、、。」

なんともかわいそうな話だが、これがテレビドラマでは描かれない、現実なんだと蘭は思った。

「そうですか。でも、きっとそのうち奥さんも、そうするしかないんだと考え直してくれますよ。だからそうなってもらうために、あなたが変にぶれた態度を取ってはなりませんよ。奥さんがもし、胸の事で他人と劣等感を持つようになったら、世間は冷たいが、俺の目は変わらない、お前がどんな姿であろうと、俺はお前のことがずっと好きだって、アピールすることです。それが奥さんにとって一番の励みになるはずですよ。」

蘭は、ありきたりの答えを出してしまった。

「わかりました、先生。俺、先生に話してよかったです。皆聞いてはくれますが、答えを出すことはまるでしてくれません。俺にとってはたった一人の女房ですから、彼女に対して、感謝していると、しっかりアピールし続けますよ。」

お客さんは、蘭の答えにかなり励まされたらしい。蘭にしてみれば、ありきたりの答えで、何も役には立たないのではないかと思われたが、意外につかえる答えだったようだ。

「先生、俺、よかったと言っているんですがね。今の話で事実、吹っ切れましたよ?俺、どうせ偉い学歴もないし、大して職歴があるわけでもないし、ましてや人生踏み外しちゃって、本来なら何にも与えられないで当り前の身分なんですから、女房一人もらえたことでも、奇跡が起きたと思わなきゃ。その女房が今大変なことになっているわけですから、俺はしっかり、彼女を支えていかなきゃなりません。よし、もう不満も何も言わないで彼女に取って、大事な存在になれるようにします!」

そういいながら、お客さんは、蘭に今日の施術代を支払った。

「先生、何をぼんやりしているんですか?早く領収書をください。」

「あ、あ、ああ、すみません。」

蘭は、急いで机の上に置かれた領収書をとって、金額を書きこんだ。

「はい、これですね。あと、先ほどの回答は、参考程度にしてくださいよ。本当にただ当り前のことを言っただけですからね。そんなことがまかり通るほど、世の中は単純じゃないんですから。それを貫く方が、損をすることも多いですよ。」

とはいったものの、お客さんにこんなことをいっておきながら、自身は一番の親友と思っている人物を、助けることはできないんだなあと、思ってしまうのだった。

「いいえ、単純じゃないほど、当り前のことが大切になるのではないでしょうかね。俺は、学歴のない馬鹿ですが、それくらいのことはわかりますよ。まあ、大事なことはどんな時でも続いているほうが、世の中が劣化していないということじゃないですか?」

と言いながら、お客さんは、領収書を受け取って、

「じゃあ、また色が薄くなって、手直しが必要になりましたら、電話しますね。先生、その時はまたよろしくお願いしますね。」

と、蘭に一礼して、玄関から出て行った。

あーあ、お客さんを励ますことはできるけど、親友を励ますことはできるどころか、面会すら許されていない。なんだか、こんな自分がお客さんを相手に、こんな発言していいのかなと思ってしまうのだった。もしかして、お客さんに激励をしながら、日本の伝統柄を彫りこんでいく商売なんて、何もできていないのかもしれない。

そんなことをぼけっと考えていると、

「伊能さん、伊能さーん。いつになったらお返事してくださるんですか。ほらあ、回覧板ですよ。回覧板、もう、仕事熱心なのはわかりますけどね、あんまり夢中になりすぎて、近所付き合いを忘れないようにしてください。」

近所のおじさんが、玄関のドアを叩く音が聞こえてきた。蘭ははっとして、玄関先へ移動し、急いでドアを開けると、おじさんが、あきれた顔をして、回覧板をもって立っていた。

「もう、返事はすぐにしてくださいね。インターフォンを何回押しても出ないから、本当に困りましたよ。電気はついているから、留守だともごまかせませんよ。」

おじさんは蘭に回覧板を突き出した。

「それから、これ、郵便ポストの中に入ってましたよ。かなり前に入れられていて、取り出すのをずっと忘れていたのではありませんか?読んでやらないと、差出人もね、悲しますよ。」

回覧板と一緒に、半分濡れた封筒も渡されたので、蘭はさらにびっくりした。

「あ、すみません、全然気が付きませんでした。ありがとうございます。」

蘭は急いで回覧板と封筒を受け取った。

「お礼を言うんじゃなくて、早く返事を書いて、提出したほうがいいんじゃありませんか。その時には、返事が遅くなったと、しっかり謝罪をしてくださいよ。そういうことは、常識として、しっかり考えていないとだめですよ。」

おじさんは、蘭がポカンとしている間に、呆れた顔をして帰っていった。

蘭は急いで、顔をかじりながら部屋に入った。回覧板なんか見る気は全く起こらず、それよりも手紙の封を切った。

昨日雨が降っていたせいか、あて先はにじんで消えてしまっているが、この家の住人は自分であるから、自分に向けて書いたものであることは、間違いなかった。中身を出してみると、全くわけのわからない言語で書かれた、文書が一枚出てきた。あーあ、これでは誰かに訳してもらわないとだめだなあと思いながら、手紙を机に置こうとすると、封筒の中から下手糞な字で、「ほんやく」と書かれた一枚の紙が滑り出てきた。それが翻訳のことだとわかるのに、数分かかるほど下手糞な字であったが、冒頭文句を読むと「らんさんへ」と書いてあった。

「せんりゃく、らんさんへ。おげんきですか?」

蘭は声に出して読んだ。

「さひきんにほんごをほとんどつかっていなかったので、まちがいだらけでごめんなさい。ぼくは、さくねん、しはんめんきょをもらい、どくりつしました。げいめいは、らんさんとおなじ彫たつ、つまりにたいめということになりますね。どくりつしましたので、彫菊師匠とはおわかれして、べるりんからぱりにもどりました。いまはぱりであたらしいいへをかって、いもうとのとらーといっしょにすんでいます。」

そういえば、以前、彫菊師匠が入院した時、何回かカフェの中で話したことがある。その時、確か、妹さんは高校を出てから徐々に体調を崩し、引きこもるようになったと話していた。修業しているときは、親戚の家に預かってもらっていたようだったが、やっぱり個人主義的な傾向の強いヨーロッパでは、あまり親戚づきあいが強いわけではないので、長期預かりというのは少し難しいのかもしれない。

「そうかそうか。マークさんも大変だなあ。やっと師範免許もらって、独立できたと思ったら、妹さんと暮らさなければならないのかあ。」

それにしても、随分早く師範免許を獲得したものだ。字は下手だけど、能力は決して低いことはないなとわかった。改めて、続きを読み始めた。

「パリで和彫りをはじめてまだかけだしですが、パリの人たちはにほんのでんとうてきながらにかなりきょうみをもってくれています。にほんのがらの、つよいところをみせびらかさないというところが、なんともおもひろいそうです。だから、これからも、にほんで和彫りがなくなってほしくないとおもいます。」

そうだねえ、、、日本では伝統的な柄に興味もつ人はどんどん減少しているなんて言ったら、さぞかしがっかりするだろうな、と蘭は思った。

「ところで、はなしはかはりますが、みんなげんきですか。とらーに、みんなのことをはなしたところ、あってみたいといっています。せんじつあたらしいいへをかいましたが、ふたりしかかそくもいないので、あひているへやもあるから、いつでもおひゃくさまをむかへられます。もし、きせはしいにほんでのせいかつにつかれたら、いつでもパリにあそびにきてください。」

そこまで読んだが、日本人と違ってヨーロッパ人は社交辞令というものを使用しないため、これは、本気で言っているということがすぐにわかった。

「でも、今はのんきに海外旅行なんて行ける暇はないよ、、、。」

と、つぶやくが、また続きを読む。

「らんさんも、からだにきほつけて。もし、なにかありましたら、いつでもてかみでもだしてください。ただののうなしのおとこですが、そうだんにのります。あひにきてください。まーくより。って、もうちょっと、日本語の勉強をしてから書くようにしろよな!」

ムキになっていったものの、蘭は心のうちでは、やっと自分に関心を持ってくれる人が現れたような気がして、天の助けだと思ったのであった。完璧な文章でないほうが、かえって気持ちが伝わってくるものである。野口英世のお母さんの手紙もそうだったが、こういうほうが、うれしいような気がした。

これではすぐに返事を書かなければいけないなと思ったが、フランス語の知識などなにもない。蘭が使える外国語はドイツ語のみであった。

でも、マークさんが一生懸命日本語を使おうと努力していることはわかった。文面から判断すると、平仮名と簡単な感じ程度ならかけるということが見て取れた。なので、蘭も平仮名で返事を書くことにした。急いで机の引き出しから便箋を取り出し、なるべく漢字を使わないように気を付けながら一生懸命書き始めた。でも、習慣はおそろしくて、何回も書き直した。何回か書き直していくうちに、文章は簡素になり、かっこいい社交辞令もなく、本当に苦悩していることが、目に見える内容になっていった。


一方、麟太郎と浩二は、製鉄所にやってきたが、そこで目的人物の姿を見て、大きなため息をつく。

「お前なあ、本当に、嫌だったのか。俺たちとかかわるのさ。」

麟太郎は、がっかりと落ち込んだ。

「そうでなければ、俺たちが来る前にばったり倒れるなんてしないよなあ。」

「すみません。本当に、何もできなくて。」

水穂は、申し訳なくて、布団に座ろうと試みたが、

「いいですよ、先生。むりして座らなくても。僕があんまりしつこくこっちへ押しかけたのが悪いんですから。」

浩二はそれを止めた。

「お前が謝ってどうするんだ。弟子は教育を受ける権利ってもんがあるし、師匠は教える義務がある。どっちもそれを放棄してはいかん!」

麟太郎は、浩二の背を叩くが、浩二は小さくなったままだった。

「だけど、どうするんだよ。本番必ずみに来てくれって、今日言うつもりだったのにさ、そんな風になっちゃうなんて。俺たちはせっかく楽しみにしていたのにさ。」

「広上先生、仕方ないじゃありませんか。人間ですから、機械みたいにいつでも万全というわけにはいきませんよ。レコードプレーヤーみたいに、いつでも同じ演奏しかしないということはありません。」

「でも、タイミングというものがある。それに、こいつにとって、すごい晴れ舞台であることも、理解できるはずだ。それに備えて、何とか体調を保とうと何とかするということはできないものだろうか!」

「だけど、どんな思いがあったって、かなわないこともありますよ。次の機会だってあるわけですから、今日はとりあえず保留として、引き取りましょう。」

麟太郎が思わずそういうと、浩二はなだめるように言った。

「うるさい!時間というものは、待ってはくれないぞ!こいつにとって、時間はどんどんどんどんなくなっていくんだ!もしかしたら、次の音楽まつりには来られないかもしれないじゃないか!」

そうか、もう、自分のことは、広上麟太郎先生にはお見通しなんだなと、わかってしまった。

「俺は、俺なりに、お前が安心してというか、安らかに逝けるというか、そういうことを考えて、発言したつもりだったんが、俺がやっていることは、ずれているんだろうか。」

広上先生は、偉い人であることになっている。真偽は不明だが、そうなっている。だからもし、筋書きにあっていないことであっても、そうなっているから正しいことになってしまうだろう。偉い人の発言は、そういうものである。だから、一応、広上先生のしていることは、偉いこと、すごいこと、正しいことになってしまう。

たとえそれが、されている側にとっては、意味がなくても、迷惑であってもだ。偉い人がしているのだから、みな正しいのだ。いくら、水穂にとって、負担になることであっても、

である。

世間的に言ったら、広上先生は正しいことをしている。偉い人であるから。

そして、ずれていると指摘する人はだれもいない。

「水穂、俺、何か間違ったことしたんだろうか。俺がいろんなこと頼むたんびにこうして悪くなっていくじゃないか。俺、桐朋時代にさ、理由なんて全くわからなかったけど、お前の事天才だと本当に思っていたんだよ。きっと、俺よりもお前のほうが、何十倍も演奏に対してすごいものがあると、確信してたよ。まあ、もちろん専攻科も違うからね、直接言葉を交わしたわけでもないけどさ。お前が、卒業して偉くなったら、俺は追い越されちゃったなといつか話せる日が来るかなって、それを楽しみに待ってたのにさ。」

麟太郎は、少し悲しい話を始めた。

「でもさあ、、、。あの時の拷問のせいで、少し変わっちゃったんだな。理由はわからないけどさ、お前が拷問されたの、知っていたからさ。あの時は単に、芸大生からの八百長を断ったから、その報復で拷問されたんだとしか思わなかったからさ。それに、そんな重たい事情がかかったなんて、全然知らないし、どこかで習ったわけでもないし、どうしたらいいかもわからなくてさ。せめて、今は、そういうことで引け目を感じることもないぞって言ってやりたいなとおもっていろいろ手を出してあげたんだけどな。お前には、単に、有難迷惑にすぎなかったか。ごめんよ。」

順調に人生を歩きすぎた人が、やっとこういう人の苦労というか、苦しみというものに、少しだけ触れた瞬間だったかもしれない。

「きっとお前には、いい迷惑だったかもしれないが、俺はお前のことを天才だと今でも思っている。そして、いつか、もう一回ゴドフスキーを聞かせてほしいと心より思っている。でも、それじゃあ、甘すぎるか。」

麟太郎は一つため息をついた。

「もしかしたら、お前は音楽って物を本当は楽しんでいなかったんじゃないか?」

ある意味究極の質問だった。

「楽しんでいる暇なんてどこにもありませんよ。音楽学校なんて、まるで戦争状態でした。二度と、帰りたくはありません。」

この一言で、麟太郎も、隣にいた浩二も、黙りこくってしまう。

「そうだな。戦争なんて、絶対したくないよな。」

とりあえず、麟太郎がそれだけ言うと、

「疲れました。もう、立てません。」

とだけ返ってきた。

それを聞いて、浩二はこの人の人生って何の為にあるんだろうなと考えてしまう。

ただ、利用されるか、あるいは自ら犠牲になるか、それしか存在価値はないということになるのだろうか。

あまりに、かわいそうすぎた。

「きっと、本番はできると思いますよ。もう、ここでさんざん聞かされて、大体の全容はつかみましたし。あとは、本番で同じ演奏ができることではないでしょうか。まあ、本番では魔物がいると言いますが、平常心さえなくさなければできると思います。」

水穂は、やっと指導者らしく、しっかりとそう発言した。

浩二もそこさえできればと思うことにした。

同時に、自分は、まだまだ恵まれていて、安全な人生を用意してもらったんだなと、考え直した。


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