第八章
第八章
「いいか、今日言われたことは、二度と口にしちゃだめだぞ。俺たちにできることは、あいつにできるだけ劣等感を持たせないこと、作らせないことだ。あいつが、今は俺たちと同じように暮らせるって、実感してもらうことだよ。その機会をできるだけ多くしてやれば、あいつは絶対立ち直れるし、病気も治るよ。そうすれば、これでめでたしめでたしだあ!」
製鉄所から帰るタクシーの中で、麟太郎は気合を入れるように言った。
「そうですねえ、、、。」
浩二は一応同意したものの、本当にそうなるかどうかは不確かであった。
「もしかしたら、俺たちにとって、わざとらしい態度を取らなくちゃいけないときもあるかもしれないけれど、あいつが喜んでくれれば、それでいいとして我慢しよう。」
「はい、わかりました。僕も努力します。」
「ようし、それならよかった。そして、俺たちはうれしい時には全身で喜び、悲しい時には一緒になって悲しんでやる存在になってやることだ。あいつには、そういう仲間が一番不足しているんだからな!その確保が一番の課題だぞ!」
確かに理想的に言えばそうなるが、それが実現できるのは、百年たってもできそうになかった。
「もちろん今の法律では難しいかもしれないよ。でも、一人か二人でもそういうやつがいてくれれば、変わってくると思うんだが。ほら、よくあるだろ、映画のセリフでさ、周りはいくら冷たくても、一人だけ優しくしてくれた奴がいてくれたから、生きてこられたって。」
そんなことないですよ。広上先生。それは、当事者とかかわったことのない作家が、自身をかっこよく見せるために、フィクション映画の中で作るセリフですよ、と浩二は言いたかったが、それはやめておいた。
現実に、彼の家の近所でおこった傷害事件では、被害者よりも加害者に味方するほうが圧倒的に多く、「働かないお嬢さんが悪い、親は期限付きと教えただけだから、罪ではない」で結論つけられている。
ある意味、彼女に手を掛けたのは父親だったが、「働かない人間は邪魔だから、早く始末するように」という近所の人たちの批判が、父親をそうさせたのかもしれなかった。
そうなると、世界的な指揮者である広上先生が、こういう発言をするのだから、やっぱり水穂さんという人は、天才なんだなと認めざると得なかった。他人を動かすには相当すごいことをやらないとできないことはもうすでに学んでいた。
翌日、第一回オケ合わせが敢行された。浩二も生まれて初めて市民バンドと一緒に演奏するという体験をした。オーケストラのメンバーさんたちは、みんな人生経験の多い年配の人ばかりで、浩二の演奏を悪く言う人はいなかった。皆、自分の事をかわいいかわいいと口をそろえて言った。なんだか自分の孫の様だと、形容するメンバーさんもいた。それくらい高齢者が多かったのである。
練習が終了すると、メンバーさんたちは、若いのに熱心にピアノに取り組んで偉いねえ、たぶんきっと会社で上司と、家では奥さんとの間で板挟みになって、なかなか自分の時間なんか取れないでしょうから、よくやっているよ。なんて、褒めてくれた。どっちにしろ、結婚なんて、できそうにないし、会社でもこれから不用品のままやっていくんだろうなと思いながら、それは聞き流していた。メンバーさんたちは、これからも頑張ってピアノを続けてね、なんて言いながら、それぞれの車で自分の自宅へ帰っていったが、それはきっと、若いときに自分はできなかったので、若い君は頑張ってよ、という不用意な励ましの表れであるとわかった。
まあ、アマチュアの世界とはそういうものだ。でも、そういう人たちだからこそ、いざ集まれば真剣にやってくれるから、そこが楽しいよ、と麟太郎は笑っていた。それを聞いて浩二は、確かにそういう中途半端なところこそ、一般社会のすごいところかもしれないなあと、考え直した。広上先生も、そういう風に一般社会の中で、自分の居場所を見つけたのだから、自分も何かふさわしい生き方を見つけなければなと、浩二はそう結論付けるのだった。
それから数日後のことだった。今日は、製鉄所に行く予定はなかったブッチャーは、今日こそ俺の商売をちゃんとやらなくちゃ、と、自作ネットショップの売り上げ確認などを行っていたが、突然スマートフォンが鳴ったので、またびっくりした。発信者は恵子さんで、急いで内容を聞くやいなや、いてもたってもいられなくなって、すぐに製鉄所へすっ飛んで行った。
「すみません、すみませーん!あの、大丈夫ですか!恵子さんから、すごい大変なことが起きたから、すぐに来てくれといわれたもんですから!」
慌てて玄関から製鉄所の建物内に飛び込むと、四畳半のふすまの前で、恵子さんが、がっくりと落ち込んでいるのが見えた。
「だ、大丈夫ですか!ど、どうしているんでしょう!」
半ばパニック状態のまま、ブッチャーは、恵子さんに聞くと、
「バタバタしないでよ。今はとりあえず眠ってるから、しばらく静かにしてやってって、先生が。」
と、恵子さんは放心状態で答えた。
「あ、わかりました。すみません。とにかく、何があったんです。恵子さん、大変なことがあったしか言わないから、、、。」
「あ、ああ、それがねえ、水穂ちゃん、理由はよくわからないけど、立ち上がろうと思ったら、うまくできなくて、倒れちゃったんですって。あーあ、情けないったらありゃしないわよ。青柳先生が、戦災孤児でもなければ、ここまで悪化したりしないって、あきれてたわ。」
「つまり、戦争中でもなければ、あり得ないほど進んじゃったというわけですか。確かに、今の日本では、よほどのことがない限り、羸痩というものはありえない話ですからね、、、。」
ブッチャーと恵子さんが、そういう言葉を交わしていると四畳半のふすまが開いて、懍が二人に中に入れと促した。
「はい。やっと平脈まで持ち直してくれましたからどうぞ。たぶん、目を覚ませば言葉も交わせるのではないかと思います。」
いつも、冷静すぎて怖いと言われるほど落ち着いている懍も、今日ばかりは、本当に驚いたらしく、額に汗をかいていた。
「いやあ、正直信じられませんでした。僕が学会に行って、こちらを留守にしている間に、あそこまで進行していたんですか。」
「先生、すみません!あたしがもっと、厳しく接していればよかったんですね。いくら食べてと言っても糠に釘で、仕方なく食べさせるのももうお手上げで、あたし、怒ってしまって、食べないならもう作らないと言ったこともあったんですけど、それならそうすればいいじゃないかというものですから、あたし、もう返す言葉がなくなってしまったんです!」
「それに、無理矢理食べさせれば、拷問されたときのことを思い出させてしまって、かわいそうかなと思ったので、それはしなかったんですが、そうなったらそうなったで、どんどん食べなくなって行ったんですよ。こうなったら、黙認するのではなく、やっぱり強制的に食べさせるべきでしたね。」
恵子さんとブッチャーは、相次いで後悔の念を述べた。
「そういうことは言わなくて結構です。とりあえず、今日の事を話してください。まず、今朝の事から始めましょう。僕が学会から戻ってくる前に、彼が何を食べたのか、教えていただけますか?」
「はい、一応朝ご飯として、白がゆと、あとたくあんを二つか三つほど出しました。暫くして、お皿を片付けに部屋に入りましたが、なくなっていたのはたくあん一切れだけで、あとはなにも手を付けてありませんでした。」
懍の問いかけに、恵子さんは正直に答えた。
「その前の晩御飯は、俺がうどんを出しましたが、うどんには手を付けず、箸休めとして出した、漬物だけがなくなっていました。」
ブッチャーは急いで回答した。懍は天井を見つめて一つだけため息をついて、
「ダメですね。それでは、体を動かすのに必要な、エネルギーというものがまるで足りていませんね。」
と、額の汗を拭いた。
これと同時に、水穂が力のなくなった目を、やっと開いた。
「あ、すみません。本当にごめんなさい。もう本当に体が重たくてしかたなくて、どうしても立てなかっただけです。」
「水穂さん、変な言い訳しないでください。体が重たいのはなんでなのか、理由をしっかり考えてくださいよ!」
ブッチャーは、ムキになってそう返した。
「そうよ、水穂ちゃん、これはただのはずみじゃないのよ。もっと進んだら、戦時中の人と変わらないくらい、深刻になっちゃうのよ。」
恵子さんに至っては、涙目でそういう。
「いくら俺たちが食べろ食べろと言っても、全く通じないじゃないですか。水穂さん、このままだと、本当に餓死しちゃいますよ。病院と違って、すぐに点滴があるわけじゃないんですから、俺たち、助けようにも助けられませんよ。それにですね、戦時中でなければあり得ないほどの痩せ方なんて、かえって恥ずかしいと思わないんですか?これはですね、俺たちにも批判の目が向くんですよ。患者をね、ここまでひどい羸痩に陥らせるなんて、俺たち介護者が飯を食わせないで、虐待しているんじゃないかって、疑いの目を向ける人も出てきます。そんなこと言われたら、俺たちの気持ちも考えてください。個人的な食事をしたくないっていう我儘のせいで、何人もの人間が変な濡れ衣を着せられて、嫌な思いをするんですよ。」
ブッチャーは一生懸命水穂を諭したが、通じているのかわからないほど、衰弱しきっていた。
「あーあ、これじゃあ、俺たちが何を言ってもダメだなあ。このままだと、本当にダメになっちゃいますよ。もしかしたら、がりがりに痩せて、干からびちゃうかもしれないですね。」
「ごめんなさい。悪いのはあたしたちだわ。あたしがもっと厳しく接するべきだったのよ。あたしが、もうちょっと心を鬼にして、何とかして食べてもらうように持っていくべきだったんだわ!それさえちゃんとやってれば、こうはならなかった!何回も拷問されたときのことを思い出させたらかわいそうかなと思って、手加減してたけど、これじゃあ逆に甘やかしになって、寿命を縮めることになっちゃうのね!」
「ふたりとも、過去の事を思い出したり、予測ができないことを嘆いたりするのはやめなさい!いいですか、僕たちができるのは、今どうするかだけなんですよ。過去も未来も人間には手出しできません。できるのは現在だけなんです。今しなければならないことは、これ以上、栄養失調症が進行してしまわないようにすること、これだけですよ。それ以外のことはしなくていいし、気に駆ける必要もありません。まず第一に、必要なものをそろえることから始めるべきです。」
ブッチャーと恵子さんが、若い人がよくする特有の愚痴を口にしだすと、懍は年長者らしく、厳しく差し止めした。どうしても若い人は、だれだれのせいだと、ああだこうだと言い合ってしまうことが多い。だからこそ、年長者がストップさせて、うまくまとめてやることが肝要なのだ。社会というものは、年齢ごとに固まってコロニーを作るようになってしまうと、考え方が偏ってしまい、うまくまとまらなくなってしまう。だから、年齢はごちゃまぜの社会のほうが、うまくいくものである。
「必要なものって言ったって、俺たちはこれ以上何を調達したらいいのか、わかりませんよ。布団だって、この間寒くなったから毛布を買ってやったばかりですし、浴衣だって冬用の新しいものに変えましたよ。逆に、余分なものは撤去したし、他に足りないものと言ったら、何があるんですかねえ?」
「須藤さん、物品だけがすべてではありません。それ以外にも必要なものはまだまだあります。」
ブッチャーがそういったが、懍はしっかりと言い返した。
「もう先生がそういうんだったら、あたしたちはどうしたらよかったんですか?足りないところは、しっかり反省して、これからの事を考えなくちゃ。」
恵子さんがそういうと、
「だから、どうしたらよかったとか、そういう言い回しはあまり良いものをもたらしませんよ。過去としてしまうからいけないのです。すべては、現在どうするか。これですよ。極言を言えば、過去も未来もすべてそれでできているんです。だから、現在の事を一番に考えなければいけません。過去の反省なんて無意味なんです。ですが、試験結果の反省とか、試合の抱負とか、今の教育機関は過去や未来の事ばかりやらせたがるから、これが身につかない。」
懍がため息をつくと、ブッチャーは、壁にかかっていたカレンダーを見上げた。
「あ、行けない!今日は広上先生と浩二君が!」
カレンダーを見ると、二人が来訪すると書き込みがされていた。
「あ、そうだったわね。この前来た時、次に来るときは、チラシとチケットが出来上がっているだろうから、持ってくると言っていたわね。でも、それは今日だったかしら?」
恵子さんもすっかり忘れていたが、確かに前回二人がここに来た時、十七時に練習が終了するので、それが終わり次第、チラシとチケットをもって来訪すると言っていたのを思い出した。
「十七時に来るって言ってたわ。あたし、伝言受けてた。」
「十七時ですか。あと二時間しかないじゃありませんか。これじゃあ、応対できませんね。」
ブッチャーは、水穂を困った顔で見た。
「あ、あ、ああ、ごめんなさい。あの二人の応対はちゃんとしますから。」
と言って、水穂は布団に座ろうと試みたが、あまりに体が重たすぎるために失敗し、どすんと布団の上に落ちた。
「だから、ごめんなさいじゃないですよ。そこまでの体で、応対なんてできるわけないじゃないですか!」
ブッチャーは水穂にそう言い聞かせたが、
「わかりました。とりあえずあと二時間あるのですから、今から休んでいただいて、もう少ししたら、御準備していただくことにしましょうか。」
と、それを制して懍は言った。
「あ、ご、ごめんなさい。本当に今回はすみませんでした。悪いのはこちらですから、何とかして応対できるようにしますから、、、。」
「だけど、心配よ。あの二人に心配されて、強いこと言われてまくしたてられたら、また無理して、体に負担が増して、倒れちゃうんじゃないかしら。」
謝り続ける水穂に、恵子さんは女性らしく心配そうに言った。
「ええ、おそらく、疲労がたまっているんでしょうね。ああしてレッスンを繰り返して、多かれ少なかれ体の負担になっていたのは認めますよ。見ず知らずの若者に、ピアノを仕込むというのは、簡単そうに見えますが、実はそうでもありませんからね。かなり体力のいる作業であることは、僕も想像できますよ。」
懍は、そこは認めた。確かに、ピアノのレッスンというものは、昔のように師匠が権力者のようなふるまいをしていればよいのかというものではなくなっている。もしそうなってしまったら、弟子のほうが、訴えを起こして裁判沙汰になることも少なくない。
「そうね。言葉だって選ばなきゃならないでしょうし、そういうところは確かに神経使うわね。師匠が言った一言がトラウマになって、いつまでもピアノが弾けなくなっちゃうっていう人もたくさんいるし。水穂ちゃんは、繊細だから、そういうところが重大な負担になっていたのかも。」
恵子さんもそういうと、
「しかしですね、弟子が自身の晴れ舞台を知らせにやってくる直前に倒れるなんて、師匠としてはやっぱり職務怠業です。いくら負担ではあったとしても、職務は職務ですし、全うする必要はあります。だからこそ、そのためにも今はよく休み、二人の来訪に備えてやることですよ。」
懍は、改めて水穂にかけ布団をかけてやった。
「少し落ち着きなさい。まあ、教えるということは非常に悩みの多い作業ではありますが、演奏が成功すれば杞憂に終わります。教育は人間をつくる作業ですからね、責任重大であることは、間違いありません。弟子が何かすれば、師匠にも責任が及ぶことは当然のことではありますけれども、そればかり気にしていたら、ご自身の身も滅ぼすことになりますよ。」
「すみません。ずっと悩んでいましたが、専門的すぎて、何も言わなかっただけでした。」
「そうですか。それなら、悩み過ぎて食事をとらないということは避けましょうね。顔にも出さないから、二人にもわからなかったんでしょう。いつもと同じ自分を演じ続けるなんて、人間、どんな名俳優でもできはしないということをしっかり覚えておいてください。」
懍はやっと結論を出すことに成功して、水穂の肩を叩いた。
「そうなの!結局あたしたちは何もできなかったのね!あたしたちは、音楽の知識がないから、何の役にも立たないでしょうし、使えないと思って言わないでたの!それくらいしか、あたしのこと考えてくれてなかったのなら、あたしはなんのためにご飯を食べさせていたのかしら!」
その結論をさえぎって、恵子さんが吐き捨てるように言った。
「今回は、俺はなにも利用価値はなかったですよね。それは認めますよ。ですから、俺、もうちょっとパガニーニの主題による狂詩曲について、勉強しなおしてきますから、水穂さん、今度は俺に何回でも愚痴を言ってくださいませね。」
ブッチャーは、正直な気持ちを抑えて、表面的にはさわやかに発言した。男はそうやって口でごまかすことはできるが、女というものはそうはいかず、直接感情をぶつけてしまうのだった。
「ふたりとも、気持ちはよくわかります。ですが、今回は少し寛大にならなければなりませんよ。ここまで衰弱しきっていれば、誤った判断をすることも少なくありません。もちろん、あなたたち二人にとっては、謝罪をしてほしいと思うでしょうし、倫理的に言えば、必要なのですが、そうさせてしまうと、さらに悪化する可能性もあります。」
懍はそういって二人をなだめたが、二人は感情がまだくすぶっている感じだった。
「これから先、看病していくにあたって、こういうことのほうが、増えていきますよ。そういうときは、倒れてからでは遅いのだという、変な反発はしないようにしてください。」
わかりきっていることであるが、実行するのは極めて難しい課題であった。
だから、せめてフィクションでは気持ちよく終われるように、かっこいいセリフが用意されているのかもしれなかった。
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