第五章
第五章
その日も、ほんの少しばかりの食事をとって、一日中寝ている生活となる。そのうえ少しばかり風が吹いてほこりがたてば、たちまちせき込んでしまう。実は、日本家屋という建物は、隙間風というものがあって、西洋建築より、風が入ってくる確率が高い作りになっているのである。一度せき込めば、何回もせき込むことを強いられ、疲れ果ててまた眠り、また目が覚めてせき込み、疲れてまた眠る。これを繰り返すのである。そうすれば自動的に体力を奪われていき、眠るよりもせき込むほうが多くなっていって、不快さはこれまで以上に増してしまうのだった。
やっと何十分にもわたってせき込んだのが終了して、正確に言うと力尽きて、うとうと眠りだした時、不意に頭上からすみませんと、聞きなれない声がした。
「先生、ほんの少しだけでいいですから、起きてくれませんか?」
声の主が誰だかわからなくて、一瞬とまどった。目を開けると浩二がそばに座っていた。
「どうしたんです?いきなりこっちに来て。」
「先生、僕の演奏を最後まで聞いて、僕の足りないところを、指摘してくれませんか?そして、もっと鍛えなおしていただきたいです。ピアノ、貸してください。」
たぶんきっと、麟太郎が自分の様子を探ってくるようにと、浩二に命令してこっちに来させたのだと思った。先日もはっきりと言ったが、麟太郎の誘いには乗りたくないので、レッスンは引き受けたくなかった。でも、浩二の表情は真剣そのものであった。なんだか、断るのなら、代理の指導者をこちらで用意しなければいけないくらいだ。それでは申し訳ないので、引き受けたくないという気持ちは、口にしなかった。
「わかりました。聞きましょう。」
仕方なく水穂がそういうと、浩二は嬉しそうな顔をして、ピアノの前に座った。
「先生、おつらいなら、無理して座らなくても結構です。寝たままで全く構わないですから、演奏を聞いてください。もう一回、初めから演奏しますので、聞いていただけませんか?」
座らなくていいというのはうれしい限りだが、初めから聞かされると、また体力的に持たないのではないかという心配があった。申し訳ないなと思ったが、浩二の熱意もつぶせなくて、返答に迷ってしまう。
「じゃあ、演奏しますので、聞いてみてください。」
浩二は、一つ咳払いをして演奏を開始した。先日も聞いた通り、しっかり整った、古典的な演奏であるし、一つ一つの音も大切にしているのがわかる。寝たまま聞いていてはかえって申し訳ないくらいだ。頑張って布団に座ろうと試みたが、それより聞いていたほうがいいと考え直して、聞く方に専念する。
そして、問題の第十八変奏に突入した。ここだけは雰囲気を変える必要がある。それまでの地獄のような風景から、一気に花畑に突入しなければならない。ある意味腕の見せ所だ。浩二は一生懸命、十八変奏を演奏しようとしているが、どうしても、そこが問題というか、そこで花畑に突入できていないという雰囲気があった。続く第十九変奏から、再び現実の辛い世界に戻る。そこからは、くらい雰囲気もあるものの、俺は絶対に負けるもんか!ともがきながら、最終変奏に突入して曲は閉じるのである。
浩二は、第十九変奏から最終変奏まで演奏した。でも、次の変奏は主題とあまりかわらないので、実は第十八変奏とのギャップをうまくできないと、何も効果なしである。第十八変奏で二度と手の届かない桃源郷を見せられて、一時的に休息した主人公は、再び現実に戻って、猪突猛進に生きていく、この落差を表現するには、第十八変奏が効果的に表現できないと、ダメなのである。だから正直に言うと、第十八変奏があまりにも硬いので、次の変奏が生きてこない、それが浩二の演奏の、正直な感想だった。
「どうですか?」
浩二は、ピアノの椅子から降りて、布団のわきに座った。
「そうですね。正直に言えば、もう少し第十八変奏を柔らかくといいますか、そういうように弾かないと。」
水穂も、遠回しに感想をいうことはできなくて、直接的に言った。もし、飾る表現を考えている暇があったら、またせき込んでしまうかもしれなかったからだ。
その顔を見ると、こんな感想を言ってはいけないと思った。
「ごめんなさい。きついことを言ってしまって、、、。」
「いえ、構いません!どっちにしろ、僕にもわかっています。どうしても、固くなってしまうんだって、みんなに言われてますから。大学の教授にも、お前はそこがダメだって言われて、却下されたこともありましたから。」
浩二はそう返したが、表上は平気な顔をしているものの、やっぱりつらいのだろうとわかった。
「何回も言われているのですか?」
水穂がそうきくと、浩二は黙って頷いた。
「じゃあ、あまり得意ではなかったの?ああいう曲。」
「はい。仕方ありません。いつもそういわれてました。ベートーベンとかブラームスといった、重たい演奏は得意なんですが、ショパンとかは本当に苦手で、ああいうお洒落というかそういう曲がだめです、、、。」
なるほど、そういう曲が苦手という演奏者が、まだいたのかあと思うと、なぜか同情したくなるというか、なんだか仲間ができたというか、そういう気がしてしまうのである。
「そうなんですか。実は僕も、苦手でした。ああいうお洒落なものはどちらかというと、本当に苦手でした。」
水穂も正直に告白した。
「でも、この間、広上先生が言っていたけど、先生は世界一難しいと言われるゴドフスキーの曲を何でも弾きこなしていたんだから、ショパンなんて、楽勝だったのではないのですか?」
「みんなそういいます。確かに表面的に演奏をすることは可能です。でも、それを聞かせるとなると、また別問題です。誰でも、楽譜を出せば弾くことはできますが、作曲者の意思を伝えるというのは、やっぱり、人によって合致する人と、しない人といるでしょう。」
水穂の答えに対してさらに目を丸くする浩二である。
「ですけど、それが言えるのは、演奏家として、ある程度年を取ってからでないと言えませんよ。若いうちは、何でも挑戦して、演奏してみるのが大切です。まだ、得意苦手が獲得できた年ではないし、その年で完璧な演奏なんてありえない話です。だから、わからないことがあればどんどん盗んで、身に着けていけばいいだけの事です。きっと第十八変奏だって、あきらめることなく研鑽していけば、改善の余地はありますよ。」
「でも、もう、大学は終わってしまって、もう社会人として働かなければならないし。大学院に行けばまた違うかもしれないですけど、勉強したことは全部切り捨てなければいけないので、こういう大学気分がくすぶっている人間は、相手にされないものですから。」
浩二のいうことも確かに間違いではなかった。大体の人は、就職するのに、大学の名前が役にたつだけの事で、内容が役に立つことはまずない。だから、大学で学んだ技術なんて生かされることは二度とないのである。
「そう。確かにそうかもしれないけど、音楽というのは、大学で四年間学んだだけでは、何も獲得はできませんよ。」
だけど、そこから先は、水穂も言えなかった。そこを続けていこうとするには、優秀な成績を収めて、コンクールなどで優勝するなどしなければならない。そのためには、大変な財力と、人望と、家の知名度、つまり選挙で立候補するのと同じ、地盤看板鞄の三つが必要なのである。
それが用意できない人は、自分のような破滅的な運命をたどるしかないのが、音楽というものだった。
「音楽って、一度はまると、切っても切り離せなくなって、どんどん泥沼におぼれていくものですよね。」
「はい。でもなぜか、今回広上先生にこうして演奏してくれと頼まれて、、、。本当は、もう音楽と自分は切り離そうと考えていたのですが、その矢先だったので、うまく演奏できないんですよ。なんか、やっていいのかなという気持ちが邪魔して、本当に音楽に入りきれないというか、、、。」
浩二は、やっと本当のことを言うことができたと思った。
「そうでしょう。そう思いました。演奏技術は十分にあるのですが、おそらく、あの第十八変奏のような場面は、経験不足なんだと。もし、もう少し十分に時間があって、曲をもう少し研究することができたら、より落差をつけて演奏できたのではないかと思うんですが。」
浩二の顔を見て、浩二はまさしく図星だとさらに小さくなってしまうのだった。
「だから、こういう問題は、解決するのが本当に難しいんですが、とにかく類似した曲に多数触れるしかないんですよ。逆を言えば音楽は数学などとは違って、一度課題をクリアすると、すぐに次の課題にそれを生かせる学問でもあります。語学もそうですが、応用問題がすぐできる。だから、一度獲得すれば、すぐに発揮できる学問が音楽です。」
「でも、そんなことしていたら、いつまでも学生じゃないって、叱られますよ。」
浩二は、またそう本音を言った。だからこそ一般市民と同化することはできず、一生高尚な民族としてふるまう必要もある。
「こうやって広上先生に利用されたら、それこそ会社では面目丸つぶれです。でも、会社辞めたら、生活できなくなっちゃうし。だから、毎日毎日会社では嫌味を言われてどうしようもないですよ。」
「そうですね。それを続けていたら、迷惑な存在しかみなされないでしょうね。」
「はい。大学を卒業していったら、もう大学のことは忘れて、一生懸命会社のために働く方が美しいとされているのに、まだ大学の勉強をしていたら、白い目で見られるのは疑いないでしょう。だって、会社側にとっては、ただ生活費を稼ぐための腰掛としているだけで、会社の利益のためには、何も役にも立たないんですから。」
「はい。そのためにはすべて音楽の為に全部を注げる環境がなければなりませんからね。日本では、中途半端が本当にいけないことで、会社、あるいは家族に一生懸命お金を提供できる人でなければ、良い評価は得られません。ヨーロッパでは、演奏活動しながら、日常的には公園の掃除をする人も少なからずいて、何も恥ずかしいことではないですけど、日本では、どうしても一つのものに一生懸命が美徳ですからね。」
水穂は浩二に笑いかけたつもりだったが、急に苦しくなって、せき込んでしまうのだった。
「だ、大丈夫ですか?先生。もしよろしければ、薬飲んで休まれたほうが。」
言われなくても、そうしなければならないことは一目瞭然であった。
「すみません。」
せき込みながら、それだけ返答すると、浩二はそっと口元に吸い飲みを付けた。中身を飲み込むと、当然のごとく、眠気がやってきて、意識がぼんやりとし始めた。
「でも、先生が演奏聞いてくれてうれしかったです。それに、先生はきっと会社勤めしながら演奏なんてしたことはありえない話なのに、僕の話も聞いてくれて、ありがとうございました。」
浩二がそういっているのが聞こえるが、水穂は返答する前に、眠ってしまった。
「先生、今日はありがとうございました。また来ますから、その時はもうちょっと第十八変奏に取り組めるようになりますので。」
それだけ言って、浩二は水穂の布団を綺麗に整えてやり、枕元に礼を書いたメモ書きと、謝礼金を置いて、静かに立ち去った。
なんだかなあ、と思いながらタクシーに乗った。平凡な学生だったけど、一時期だけ確かに特別扱いされたときもあった。教授たちは、自分に期待を寄せてくれて、なんだか褒められて伸びるタイプだと言ってくれて、協奏曲に挑戦させてくれたりもした。そうやって、基礎的な古典派の曲を十分にやったら、次はショパンとかそういうものをやろう、そういわれていた。そのためには大学院に来てもっと勉強しような。なんて、教授たちは言っていたけれど、それは許されなかった。だから、もう無理だと思った。まあ、男にはよくある話だけど、浩二は音楽とは全く関係ない企業に就職した。でも、会社内であることは、いつも、大学気分がまだ抜けないのかと怒鳴り散らす上司と、あの人は恵まれすぎていると愚痴を交わす同僚だけだった。恋人なんてできるわけでもなし。家に帰れば、はやく孫をなんて家族にせかされる。あーあ、人生って何だろう。自分はただの道具か、なんて思われることもしばしばだった。
でも、不思議だった。なぜ、水穂のような人が、僕の話に賛同してくれたのだろうか。広上さんだってまったくわかってくれなかったじゃないか。もし、広上さんの言う通り、フルトヴェングラーが絶賛するほどの大天才であったら、あのような謙虚な態度をとるだろうか。でも、部屋に間違いなくゴドフスキーの楽譜があったので、水穂がゴドフスキーを弾いていたことは間違いない。ゴドフスキーはよほど才能がある人でなければ弾けないこともまた事実である。だから、あの人は文字通り才能があったのだろうが、、、。それを使いこなす技術というか、場所というか、運と言うか、そういうものは一切与えられなかったのだ。
そうなると、やっぱり僕が考えた推論は間違いない、と浩二は確信した。きっとロマ問題と同じものが日本にもあるということだ。具体的に民族名称がなんであるかは不明だが。
浩二は、仕事が終わるとすぐに家には帰らずに、音楽スタジオを借りて、ピアノの練習に励む日々を過ごした。課題である、第十八変奏をやみくもに弾いても仕方ないことは知っていたから、第十八変奏とよく似た曲を弾きこなして、表現力を身に着けることに執着した。
ある時は、会社で営業成績が全くないと言われて、課長にこっぴどく叱られることも少なくなかった。お前、音楽学校出たなんてなんという世間知らずだ!なんて怒鳴られて、いつもの彼なら、もう落ち込んでしまって、翌日は魂の抜け殻のようになって出勤するのがほとんどだった。でも、浩二は、この時こそ落ち込まないことにした。落ち込んでいたら、ピアノの練習に自分をもっていくことができなくなるからだ。だから、課長に叱られても、会社のことはすっかり忘れて、音楽スタジオに直行する。そのあとは、もう会社員としての顔はしない。一人の演奏家になったつもりで、ピアノを弾きまくるのだ。
不思議なことに、こういう生活のほうが、随分楽になったような気がする。なんか、持っていた、劣等感というか、そのようなことは、頭の中から消え去ってしまう。中途半端に会社にいるというのは、本当に男として劣っていると、散々言われていたが、音楽に取り組んでいれば、それを耐えられるほどの強さが得られるような気がした。だんだんに、浩二は、このような生活でもよいのではないかと、楽観的になっていった。それはもしかしたら、強くなったと言えるかもしれなかった。
会社で掃除のおばさんに何か言われても、同僚の若い女の子に何か言われても、浩二はそれを我慢する力が身についた。具体的に何かしたわけではないけど、毎日毎日ピアノに向かって、練習を続けているうちに、音楽が味方になってくれたというか、そういう気持ちになってきたのだ。
この第十八変奏は、そういう人間の為にあるのではないかと思った。一般社会でちょっと順応できなかった労働者が本来あるべき場所にちょっとだけ触れて、ゆっくりとそのおこぼれを吸って、また現実社会に戻って、猪突猛進に生きていく!パガニーニの主題による狂詩曲はそういうためにあるのかもしれない。だから第十八変奏と、前後の変奏のギャップが大切なのだ。
何かわからないことがあれば、すぐに製鉄所を訪問するようにもなった。はじめのうちは、ブッチャーや恵子さんたちも警戒していたが、少しずつそれを解いてくれるようになった。
やがてしばらくすると、ブッチャーたちも水穂に促されて、浩二の演奏を聞いてくれるようにまでなった。二人とも、この曲に関して知識があるわけではないのだが、少なくとも悪い評価はしなかった。
でも、心配なのは、師匠であるはずの水穂が、日増しに顔色が悪くなり、疲れた雰囲気を見せてきたことであった。恵子さんにせき込んだらすぐ帰るようにと言われていたので、浩二はそうするようにしていたが、そうなると、レッスン時間は非常に短くなってしまうということにつながる。そこは、本当に残念でならない。時には、肝心の質問したい部分に突入する寸前にせき込みだして、レッスンを取りやめざるを得なかったときもすくなくない。先生、もう少しだけ、教えていただけないでしょうか、とお願いするが、それは恵子さんに、厳しく止められてしまうことがほとんどであり、レッスンの延長は認められなかった。
今日も、レッスンを終えて、家に帰ったが、道中どうしても不安になってしまった。
なんだか、季節的な物なんだと思うが、日の暮れるのがやたら早くなったということに気が付いた。
一方、麟太郎も、週に一回のオーケストラ練習に熱を上げていた。メンバーさんたちは、ソリストが見つかって、パガニーニの主題による狂詩曲は中止にならなかったことにとても喜んでいた。ソリストが来る前に、オーケストラを整えておこう!という麟太郎の呼びかけに、メンバーさんたちは、一生懸命練習をした。もちろんメンバーさんは自身の門下生や、一般公募で集めた人たちであり、決して十分な演奏技術があるわけではないけれど、
やる気だけは十分にあった。みんな音楽が好きだというのがよくわかった。それは、かえって、音楽にしっかり捕まっている、プロフェッショナルたちより、純粋なのかもしれなかった。
やっぱりこっちにいたほうが居心地はいいな、と麟太郎も思うのだった。
そのほうが、よほど音楽を作っているという気になれる気がした。
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