第四章

第四章

「まあ、気にしないで気軽にやってくれ。ほんとうにな、友達の所へ遊びに来たのと同じようなことだと思ってよ。もし、音楽的に不安だったら、俺は何でも相談に乗るからな。」

タクシーの中で麟太郎は、がちがちに固まっている青年桂浩二に言った。麟太郎にしてみれば、単にピアノパートをやってくれと頼みに行っただけのことであるが、一般市民である浩二から見れば、世界的な大物である広上麟太郎に依頼されるなんて、まるで徳川吉宗将軍から、直に命令されたようなものである。

「本当に、俺の頼み聞いてくれてありがとうな、君がやってくれなかったら、もう、ソリスト不在で、音楽祭りが取りやめになるところだったよ。」

にこやかに言われても、浩二からしてみれば、断ってしまったらもっとひどいことを言われるのは、必須のことなので、しぶしぶ引き受けたのである。

とんでもない大物指揮者として知られている広上先生が、いきなり自分の家におしかけて、パガニーニの主題による狂詩曲なんていう大曲を弾いてくれと依頼してくるなんて、とても信じられないことだった。確かに音楽大学時代に学園祭などで、協奏曲を演奏したことはあるが、やったとしてもベートーベンの協奏曲程度で、ラフマニノフとは全く違う内容のものである。でも、広上先生がそんなのたいして変わらないとまくし立てて、ほんの数分ですぐに決定してしまったのだった。大物の先生であれば、こうして強引に決めてしまうことは珍しいことではないので、誰かを急に抜擢することはよくある。でも、まさか自分がそうなるとは思わなかったので、しばらく開いた口が塞がらなかった。

そんなわけで、迎えに来たタクシーが黒かったので、それが霊柩車に見えてしまった程緊張していた。

一方そのころ。

「ほら、おきて頂戴。今日はまたあの広上って人が来るんだって。何でも代理でやってくれる人が見つかったから、ちょっと確認してもらいたいことがあるんだって。あたしも、容態がよくないので、別の日にしてもらえますかって、何回も言ったのに、顔だけでもみてやってくれって言って、聞かないのよ。五分だけでもいいからって言うから、あたしも折れたわ。もう着くって言うから、ほら、おきて。」

恵子さんが水穂を揺さぶって起こすが、水穂は横になったまま、返答しなかった。

「どうしたの?黙り込んじゃって。胸でも痛いの?」

「そういうわけではないのですが。」

やっとそこだけ返事をした。

「だったら、ちょっとだけで良いから、おきて頂戴。もうあの人は、あたしたちには身分が高すぎて対応できない人なんだから。青柳先生だって忙しいし、対応できるのは、水穂ちゃんだけよ。」

恵子さんにせかされて、水穂はしぶしぶ布団の上に座った。もうかったるくて、体どころではなく、分銅を持ち上げるような気がした。

「いつ来るんですか?」

「もう来るわ。いま電話があって、あと十分くらいまってくれれば着くって言ってた。」

わすれものの多いことで、有名な人物なのに、年を取ったら用意周到になったのか、なんて思いながら、水穂は羽織を着た。

「わかりました。あんまり長くはお相手できないと言っておいて下さい。」

恵子さんは、ため息をついて、そうしておくからと言って部屋を出て行った。

数分というか、もしかしたら一分程度しかたっていないかも知れないほど早く、

「おーい、きたぞう!今日はピアノ貸してくれよ。お前にも演奏聞いてもらうからな!」

と、間延びした声が聞こえてきた。長いことヨーロッパで生活していたせいか、長ったらしい社交辞令は使わず、すぐに用件をいってしまうくせが身についている。

「あ、ああ、すみません。散らかってますけど、上がってください。」

恵子さんも恵子さんで、つっけんどんに手早く応答した。

「お、ありがとな、じゃあ早速ですけど、入らせてもらいます。」

どんどん靴を脱いで入らせてしまう麟太郎に、隣にいた浩二も驚いてしまったようであった。でも、恵子さんは、その浩二という青年が、繊細で優しくてかつ、少し怖がりなところもあるなと見て取れた。

「心配しなくて良いわ。ここには悪い人はいないから、入って。」

恵子さんがそっと言うと、浩二はお邪魔しますと言って、静かに中に入った。やはり、偉い人特有の態度で、水穂の体のこととか、今日の天気のこととか、麟太郎はそういうことは一切心配しなかった。それは仕方ないのかもしれないが、偉い人はそういうことをすぐに省略してしまうので、恵子さんは嫌な気持ちになってしまう。

「おーい、きたぞ。お前の代わりに演奏してくれるやつを探してきた。こいつの名は、桂浩二だ。今日はちょっと、確認したい事があるそうだが、俺はピアノの専門でもないし、お前にてつだって貰いたく、つれてきた。」

麟太郎が用件を説明すると、一緒にやってきた浩二も、

「よろしくお願いします。」

といい、丁寧に礼をした。水穂も、布団に臥したままでもうしわけありませんと恐縮し、丁重に座礼をして挨拶した。

「よし。お前の体の事もあり、形式的な挨拶は一切抜きにしよう。さっさとはじめるぞ。そこにあるピアノで、パガニーニの主題による狂詩曲のピアノパートを、初めからお終いまで一通りやってみてくれ。」

「あ、鍵盤汚れてるから、拭きましょうか。」

水穂はそういったが、実際のところ、血痕はなかなか取れるものではないので、拭いても意味がないのであった。

「ああ。もう、そんな物は気にしない。早く蓋を開けて、やってみな。」

「はい。お借りします。」

浩二は、ピアノの蓋を開けると、譜面台を素早く設置して楽譜を置いた。

「じゃあ、あの、ほ、本当に下手糞ですけど、聞いていただけたら。」

「もう、ご挨拶なんかしなくていいから、早く演奏のほうを。」

「あ、すみません。」

麟太郎にせかされて、浩二はピアノの前へ座ると、演奏を開始した。確かに指定テンポに比べると比較的遅く、打鍵もさほど強いというわけではない。でも、明らかに平凡な学生の演奏とはちょっと違うなあという印象を与える個性的な演奏だった。単に楽譜を追っているだけの、薄っぺらな演奏とは違い、一つ一つの音を大切に、しっかり出そうという姿勢がしっかり読み取れた。パフォーマンスというか、演奏をかっこよく見せるという雰囲気を出すことはかけているが、その分、重厚な音楽になっている気がした。なかなかこういう重たい音楽を作れる演奏者はそうはいないはずだ。今は数少ない、古典的な姿勢のピアニストという感じだった。年上の人たちには、浩二本人のちょっとばかり華奢な印象のわりに、こういう重たい演奏というそのギャップがかわいいという気持ちを与えてしまう

かもしれなかった。

ところが、浩二が第十五変奏を弾き終えた直後、水穂は急に胸部が痛み出して激しく咳き込んでしまった。隣で麟太郎が、おい、といって聴いているように注意をしてもこたえられず、咳き込んだままだった。

「よし、もうこうなったら、十六と十七はいいから、名物の第十八変奏をやってみてくれ!第十八変奏!」

「はい!」

麟太郎がそう指示すると、浩二は急いで楽譜をめくり、第十八変奏を弾き始めた。なるほど。それまでの重たいとか、おどろおどろしいとか、ある意味では怒りを示しているような変奏たちとは裏腹に、ここだけが、美しく、なぜか花畑にやってきたような気分にさせられる。なんだか、広い荒野を孤独に歩かされることを強いられて、時には怒りさえ感じても、誰にも通じないで眠り込んだ旅人が、夢の中で、桃源郷のような場所にやってきた。そんなことを感じさせる第十八変奏である。そこを上手く出そうと努力していることはつかめる。でも、その表現力がまだ不足しているのか、何となく硬い演奏になってしまうことは否めなかった。固まってしまうところを、年長者がほぐしてやれば、きっと素晴らしいものになることは疑いなかった。

でも、そういうことを感じ取ることはできたものの、咳は止まらず、十八変奏を弾き終わった浩二が、次はどうしたら良いのかと麟太郎の方を見る。麟太郎は、

「構わん、放っておけ!続けろ続けろ!」

と言ったのだが、同時に座っていられなくなって布団に倒れこんでしまった。

「お前、本当にだめになったなあ!生徒の演奏くらい最後まで聞いてやれないのか。頑張って弾いてるんだから、それくらい我慢できないのかよ。」

麟太郎はそういうが、

「咳で返事してる。」

と、続けて中継した。

「こら!」

思わず声を荒げると、浩二も演奏をしないほうがいいと思ったのか、演奏をやめて、水穂の方に駆け寄ってきた。こうなれば演奏を続けさせたほうが、悪いやつになってしまうかもしれなかった。

「こうなったら、薬のんだほうが良いのかもしれませんね。」

浩二が、咳き込んでいる水穂を見て、麟太郎に言ったが、

「でもなあ、飲むと、二、三時間は眠ってしまうぞ。もう少し我慢してもらって、感想、言わせなきゃ。」

どうしても、麟太郎はそこに拘ってしまうのだった。

「感想なんてどうでもいいです。僕のせいで辛い目にあわせてしまうのは、申し訳ないです。」

「それじゃあだめだ!お前も謙虚過ぎないで、多少しぶといところを見せないとだめなんだよ!」

浩二の反論に思わず麟太郎はそういってしまうが、このとき水穂が、これまで以上に咳き込んでしまったので、

「先生!これ飲んでください!もうとにかくつらそうなので!」

浩二は、枕元にあった吸い飲みを水穂の口元へ持っていった。

麟太郎はがっかりした顔をしている。

お約束通り、水のみの中身を飲むと、咳はやっと止まって静かになった。でも、そのあとは、予想通りに眠り込んでしまった。

「あーあ、こりゃあだめかあ、、、。よし、こうなったら、こいつが目が覚めるまで待ってやる!何とかして、お前の演奏どうだったか、感想を言わせるんだ。二時間でも三時間でも、喜んで待たせてもらおうぜ!」

「でも、広上先生。もう、眠ってしまったわけですから、又明日出直せばいいのでは?」

「だめ!音楽家はな、一度たどり着いたチャンスを、何があっても取られてたまるか、位の態度を取る事も必要なんだぞ!」

「ですけど、かわいそうですよ。一度、演奏を反故にされても僕は構いません。また出直します。」

そうかんがえると、自分はそういうチャンスをつかめたのは、ただの偶然という訳でもないのかも知れないと、考えざるを得ない麟太郎だった。皆偶然でできているように見えたけど、全てのものに理由はあるという格言の方が、なんだか、正しかったのかもしれない。

「こいつはな。」

麟太郎はぼそっと、語り始めた。

「天才だったんだぞ。きっとフルヴェンが生きていたら、是非一緒にやろうと誘うのではないかと思われるくらいピアノが上手かったんだぞ。それなのに、なんでこんな。何で、こうなっちゃうんだよ。」

麟太郎にしたら、理由なんてまるでわからなかった。確かに音楽コンクールなどでは、本当に苦労した。本番で指揮棒を自宅に忘れたときは焦ったが、優勝することもできたし、そこから、いろいろなオーケストラを振ることもできた。まあ、団員と多少トラブルもあったけど、解決する事もできた。

もしかして、本当に悩んでしまったのは、初めてだったのかもしれない。

「でも、どうしてそんなに拘るんですか。あんまりにも辛そうであったら。また出直せばいいと思うんですけど、それではいけないのでしょうか。」

「馬鹿だなあ。お前の第一印象をレポートに書いてもらって、送ってもらうんだ。それで、本番の時にその言葉を、プログラムに書き込んで客に信頼してもらうんだよ。いいか、全然無名の演奏家を紹介するときは、そういう著名人の言葉というものも、客の信頼を得る、大事な道具なんだ。」

そういわれると、浩二はなんだか申し訳ない気持ちになってしまった。そのために、ここにつれてきたのか。

「先生、それなら又出直します。とにかく今日はかわいそうなので、帰ります。」

「最近の若いやつは優しすぎて困るなあ。多少のことでは驚かないくらいの度胸がまるでないじゃないか。そんなものどうでも良いから、とにかくこの演奏に命をかけている、位の態度を取らなくちゃ。そのくらいの度胸がないと、協奏曲というのは、難しいぞ。たくさんの団員を相手に、一人で対峙するんだからな。時には団員と喧嘩する事もある。勿論、それを収めるのは指揮者の仕事だけど、ピアノ協奏曲は、基本的に、ピアニストが主役で、オーケストラは脇役だと思わないと。」

確かに今の協奏曲はそういうものである。バロック時代くらいまでの協奏曲ではそういうことはなかった。勿論、まだピアノというものが登場していなかったという背景もあるが、バロック時代のチェンバロ協奏曲であれば、ソロをひくことはあったとしても、それ以外の時は、オーケストラと一緒に通奏低音を担当することも少なくなく、チェンバロが完全に神格化されるということはまずない。

「だから言っただろ、協奏曲ってのは、ピアニストが腕を見せる最高の曲だって。客の中には、オーケストラはどうでもいいから、ピアニストの腕を見たくて聞きにくる客もいるんだから。そういうときにお前はちゃんと見せてやらなくちゃ。オーケストラに目をつける客なんて、本当に少ないぞ。だから、お前の紹介文もたくさん用意する必要があるんだ。それくらい、大事な事なんだから。今日は、何とかして、こいつに感想を言ってもらうからな!」

それだけでかい声で発言しても、眠ったままでいる水穂に、浩二は感想を求めるのは、酷ではないかと思うのだった。

「ほんとうにな、こいつはまれに見る天才だ。俺は、容姿を売りにする演奏家は嫌いだが、こいつは容姿では勿論文句ないし、ピアノだって、バンバン弾けちゃうし。俺は、大学時代から、こいつは絶対大物になるなと思ったよ。本当はこいつが、卒業生総代になるべきじゃないかと思った。まあ、流石に、学校のルールで、それはできなかったけどな。でも、すごかったぞ。こいつがな、一人でゴドフスキーのショパンの主題による練習曲を弾いていたのを目撃したとき、俺は卒倒すると思った。」

「ゴドフスキーですか!確かに、僕の大学では、演奏するどころか、教材として取り上げる教授もいませんでした。無理して弾くと、体を壊すから、やめたほうがいいと言っていました。」

「ほらあ。そうだろう。確か、曲を録音したピアニストも世界で3人しかいないんだよな。多少下手糞でも、弾いただけで話題になってしまう作曲家じゃないか、それを流麗に、すごい悲しい演奏に仕立てたんだよ、こいつは。容姿端麗、演奏技術も抜群、それに曲を表現する感性も十分にある。まさしく三拍子そろってたから、ヨーロッパの指揮者が見逃すはずはないと思ってたんだけど、、、。なぜか、演奏業界から、突然姿を消して、こんな姿になっている。」

「はい、僕もラフマニノフは弾けますが、ゴドフスキーは弾けません。あれを弾ける人は、ある意味超人だと聞いています。よほど体力と演奏技術と根性がないとできないと、、、。ホロヴィッツでしたっけ?これを弾くには手が六本なければだめと言って、酷く激怒した演奏家もいますよね。」

「その通り。それにな、ゴドフスキーを演奏する人ってのは、大体ジャイアント馬場みたいな体をした、不細工な男が圧倒的に多いだろ。その中で、映画俳優並に綺麗なやつがでたら、確実に売れるの間違いなしだ。容姿だって、演奏家には一つの武器になるんだから。そこは昔よりももっと重視されている。まあ、俺はピアニストとポップス歌手は違うもんだと思うけど、最近そうじゃないのはお前も知ってるだろうが。」

「は、はい。そうですが、」

そう考えると、浩二は一つの疑問がわいた。確かに、ゴドフスキーを演奏する人たちというのは、皆ジャイアント馬場みたいな体格をしている。ていうか、そのくらいの体つきをしていないと、弾けないからである。しかし、目の前にいる人物は、ジャイアント馬場に比べたら、はるかに体も小さいし、さほど体力に恵まれているわけでもなさそうだ。しかし、俳優並みに綺麗な人、という表現はまさにぴったりというのは浩二も認めた。そういう人であれば、ショパンとかフォーレのような作曲家の作品を演奏する事だってできるはずなのに、何でわざわざ世界一難しいといわれる、ゴドフスキーに挑んだのか。他の作曲家を弾いて売り物にするという戦略もできたのでは?こうなると、単に好きでやっているわけではなさそうだ。何か特別な理由があって、そういう戦略をとったとしか思えない。

「先生、きっとすごい無理をしてこんな風になってしまったのではないでしょうか。多分何か訳があったのだと思います。そうしなければ、あんな難しい作曲家に取り組むことはしませんよ。いくら偉大な作曲家でも、ある程度の人に弾きこなせるものを書かないと、売れることはありません。だって、ゴドフスキーはものすごい演奏技術がいるわけですから、簡単に誰でもすぐに弾いてみたくなるような曲ではないし、聞く側だって、覚悟しないと聞けないですよ。だから、知名度がないわけじゃないですか。それを考えると、多分きっと事情があったに違いありません。だから、その人の、一部だけ見て賞賛しすぎるのは、やめたほうがいいと思います。音楽だけでなく、女優さんでもいたじゃないですか。人気ばかり過熱して、裏事情に耐えられなくなった人。」

「うるさい!ジュディ・ガーランドと同じだといいたいんだろ。映画と音楽は全然違うよ。一緒にしないで貰いたいな。」

まあ、たとえとしては通じるのかもしれないが、どうしても大衆娯楽と切り離ししまいたがるクラシックの演奏家には、こういう事情を理解してもらうのは、やっぱり難しいのだった。

「とにかくな、目が覚めるまでここに居よう。お前だって、お前の名を売り込む最大のチャンスなんだし、俺はこれを逃してしまいたくないんだ。」

なにをいっても、そこにこだわり続ける、麟太郎なのだった。

暫く、シーンとした、長い時間が経った。浩二が部屋にある本箱に入っている楽譜を眺めると、確かに多くの表紙にゴドフスキーと書かれているので、麟太郎の言ったことは間違いないとおもった。でも、楽譜の中には血痕が付着しているものも少なくないので、やっぱり好きでやっているのではないと確信がもてた。

数時間後。そろそろ太陽が傾きはじめて、空に夕焼けの色が見え始めたころに、水穂がやっと目を覚ました。

「よく眠ったか。よし、続きをやってみてくれ。えーと、第十九変奏から。」

「いや、起きたばかりではかわいそうです。もう少し待ってからでは?」

浩二の発言に麟太郎も折れて、暫く世間話でもしてみることにした。

「お前、この前あげた刺身どうだった?あれ、富士でも有名なすし屋で買ってきたんだけど。」

とりあえずそう聞いてみたが、

「食べられませんでした。もう、苦しくなって、吐き出してしまって。」

と、返ってきたため又がっかり。

「お前なあ、不思議でしょうがないんだが、確かに、お前がとんかつ屋で拷問されて、酷い目にあったというのは知っているよ。だけど、もう、それから20年近く経っているのに、何で今でも根に持ってるの?それもそうだけど、何で今でもそんな風に極端なんだろうか。俺、あのブッチャーって言う男に聞いたんだけどさ、例の杉ちゃんが、お前に骨髄提供してくれて、無事に交換できたそうじゃないか。それなのになんでいつまでも過去のままなんだ?何で治そうと思わなかったの?」

これを話されると、水穂も答えをいえなくなってしまう。答えを言ってしまったら、もうそんな時代はとっくに過ぎたなど、役に立たない慰めを聞かされることになるからだ。そういう事を言われるのなら、馬鹿にされたほうが良いものである。

「それに、骨髄移植となればかなり強力な治療であることも確かなので、それが上手くいったのなら、いつまでも寝ていることはないと思うんだがなあ。」

「それ以上言わないで下さい。もう疲れて仕方ないです。」

それしか、反撃打を持っていない、自分も情けないが、理解しない人はいつまでも、そうなってしまうだろうというのも知っていた。

「広上先生、もしかしたら、ヨーロッパのロマ族に近いのかもしれませんよ。今でも色んなところで問題になってますでしょ。」

浩二が小さい声で、麟太郎の耳元で話した。確かに明治時代の小説などでは、ロマ族を「西洋穢多」と訳していたこともある。というか、現在同和問題について理解してもらうには、ロマ族を例として引っ張りだすしか、方法はないのかもしれなかった。

「まあ確かにドイツにもホロコーストだけでなく、ポライモスというロマ族絶滅政策があったとか、、、。でもねえ、日本ではそういう報道はなかったようだけど、、、。」

と、戸惑う麟太郎。もともと西洋に憧れすぎて、日本人は自身の歴史を忘れている、という事を論じた歴史学者がいたが、音楽家もそうなっているのかもしれない。

一方の浩二は、何か確信したようだった。その顔は答えの見つからない麟太郎とは明らかに違っている。

「先生。」

水穂にそう話しかけたが、水穂はこの肝心なときに、睡眠薬が完全に抜け切っていなかったためか、気を失うようにまた眠ってしまった。

「先生、一度で良いですから、演奏を聞いて下さい。先生なら、きっとすごい演奏ができるんだと思います。」

返答はなかったが、もう一回こっちに来ようと、浩二は決断した。そうなると、麟太郎より、浩二のほうが優れているのかもしれなかった。

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