変身

 犬の鳴き声で目が覚める。薄ぼんやりした意識で枕元の携帯を手さぐりで取って時間を見た。まだ三時半。この鳴き声、クロが吠えてるのか?割と大人しい性格だったはず。まさか本当に野生の動物が来ているとか?



 隣の布団を見ると香奈がいない。縁側へ出て声のする方向を探す。どうやら爺ちゃんの部屋らしい。テレビでも付けているみたいに辺りがチカチカと光っているのも見える。あんな話を聞いた矢先でちょっと心配になって、様子を見にいくことにした。


 近づくにつれ、ガタガタと何かが揺れるようなな音まで届いてくる。何か普通じゃない。

 嫌な予感が頭をよぎった。人の心をまどわす力を持った魔法少女のステッキ。部屋から出て行った香奈。そういえば寝る前の様子が妙に大人しかった。

 まさかな…あれが本物だなんてこと…


 一歩ずつ不安は確信へと変わっていき、俺は部屋に向かって駆け出していた。



 半開きのふすまの隙間から光の筋がうねりを上げて飛び出していた。中からの風でふすまが曲がり、今にも外れかけている。クロは庭にいて、爺ちゃんの部屋の中に向かって吠えまくっていた。


 部屋の前で香奈がぺたんと座り込んでいるのが目に入った。

「香奈ぁ!!!」

「おにぃ…ちゃん」

 放心状態だった香奈がはっと我に返ってこっちを見上げた。


「大丈夫か!?」

「わたしは、全然…」

 よかった、何ともないみたいだ。香奈の手には何も握られていない。

 予感は外れた。魔法少女姿になった香奈が頭に浮かんでいたが、寝ていた時の格好のままだ。


 だとすると、部屋で一体…何が起こっているんだ?



 恐る恐る中を覗いてみる。そこにいたのは。


 爺ちゃんだった。


 両膝をつき、あの魔法少女ステッキを右手に掴んでいる。光と風は先端の星のエンブレムから生まれていた。腕が小刻みに震えている。あれだけ触るなと言っていたステッキを自分で思いっきり掴んでいる。


「爺ちゃん!!!」

「逃げるんじゃ…わしの意識がまだ…ある…うちに……」

 俺の叫びに気づいた爺ちゃんがしぼり出すような声を出す。歯を食いしばり、何かを抑えるように苦しげな顔をしている。



 香奈が俺の背中に手を当て、弱々しい声をあげた。

「おじいちゃんが…」

「何とかする!!」

「変な光が…」

「分かってる!何とかする!!!」


 『何とかする』とは言っても何をどうしたらいいか見当もつかない。アニメみたいに頭殴って気絶させる訳にもいかない。携帯で助けを呼ぶか?警察?救急車?呼んだところで、これはもう人の力でどうにかできるレベルをはるかに超えている。


 近づくことさえできず、二人とも目の前の光景をただ見つめるしかなかった。



 そうだ婆ちゃん…。どうしたらいいか何か知ってるんじゃ。そう頭によぎった時。


 光と風がステッキに吸い込まれるように急速に大人しくなり、そして止んだ。

 クロも鳴き止み、辺りは虫の音だけの静寂になる。

 部屋の中は黒く塗りつぶしたみたいに何も見えなくなった。


「止まった…のか…」

「おじいちゃん…だいじょう…」

 香奈が声をかけようとした次の瞬間。


 部屋の中で何かがぼわっと光った。ステッキが発光している。闇の中から亡霊のように浮かび上がった爺ちゃんは同じ姿勢のまま、時が止まったように固まっている。

 突如、爺ちゃんがスクッと立ち上がり、ステッキをびしっと上にかかげた。老人とは思えない切れのある素早い動作、まるで別の何かが乗り移ったかのような…。そして目をカッと見開き、すーっと息を吸う。

 何かが始まる、そんな予感がする。とんでもなく良くないことが。


 爺ちゃんが年季の入った低い声で呪文のような言葉を叫んだ。

「フィーーーレ…」

「マジカ…」

「ノアーーーーーー!!!」



 太陽のような暖かい光が爺ちゃんの全身をおおった。その体が垂直にすーっと浮き上がっていく。足元から吹き上がる風が服や髪をゆっくり揺らしている。神々こうごうしい光景。『成仏』という言葉が頭に浮かんだ。


 突如ドンッという音が響き渡り、爺ちゃんを包む一本の竜巻が生まれ、空へと突き抜けた。天井と屋根を一瞬で吹き飛ばした螺旋らせんの風に沿って、足元からビビットでキラキラの光の粒があふれ、舞い上がっていく。部屋中の物が巻き込まれ、吹き飛び、ぶつかり合い、めちゃくちゃになる。落ちてきた瓦がガンガンと激しい音を立てて屋根や地面に次々激突した。


 そして風が激しさを増し、キィィンという高音を発して爺ちゃんがさらに光り輝いた。

「うわっ!」

「きゃぁ!!!」

 ふすまが吹っ飛ぶ。

 風で倒れた俺たちに強烈な閃光せんこうが襲いかかった。



 少しの間を置いて風が収まり始める。パラパラと物が崩れ落ちる音だけが聞こえてくる。目をゆっくり開けるとそこには。


 魔法少女コスチュームを身にまとった爺ちゃんが立っていた。

 フリル付きのニーソックス。ピンクのチェック柄のプリーツスカート。妖精の羽を思わせる腰についた巨大なリボン。純白の手袋。清楚な花の髪飾り。全身がオーラに包まれ輝いている。

 衣装こそ完璧に魔法少女、でも中身は完全に爺ちゃん。どう見ても狂ったコスプレ姿にしか見えない。

 今度こそ幻覚であると願いたい。そう信じたい。けれど、隣で目の前の光景に唖然あぜんとしている香奈の様子を見て、今度も幻覚じゃないことが分かって愕然がくぜんとした。


 魔法少女は実在した。

 嘘みたいな話は全部本当だった。



 こちらに気づいた爺ちゃんがくるっと顔を向けた。目が光っている。そして、ずん、ずん、と一歩ずつこちらに近づいてくる。

 一切無言なのが不気味さにさらに拍車はくしゃをかけている。猛烈に嫌な予感がする。でも逃げようにもあまりのインパクトに俺たちは立ち上がることすらできない。爺ちゃん(魔法少女)がジリジリと迫ってくる。



 クロが敵対心MAXで爺ちゃんに向かって吠え始めた。あの格好見れば当然だ。どう見ても不審者。職務質問不可避。


 爺ちゃんが鳴き声に視線を向ける。

「にげて!」

 香奈が叫ぶ。それでもなおギャンギャンと威嚇いかくし続け、その場を離れようとしないクロ。

 爺ちゃんは自分の愛犬にゆっくりと近づき、その頭上でステッキを無骨にブンっと振った。空中で弧を描いた星形エンブレムの軌跡きせきに沿って、白い光の粒が生まれ、降り注ぎ、クロを包み込んだ。


「キャウぅン…」

 小さな断末魔。そして体がぱたりと倒れる音がした。

 嘘、だろ。倒しちまったのか。一切躊躇ちゅうちょのない動きだった。小さい頃から可愛がっているペットに迷いなく攻撃するとか、あれはもう爺ちゃんじゃない。爺ちゃんのような魔法少女のような別の何かだ。



 死んだと思ったその時、クロがむくっと立ち上がった。ぶるぶるっと体を震わせている。無事だ生きてる。

 でも何かシルエットが違うような…。


「あれ、おじいちゃんと…同じだ」

 香奈が異変の正体に気づいた。

 クロが爺ちゃんと瓜二つの魔法少女コスチュームに身を包んでいた。目が光っている。


 そして爺ちゃんがクロをガシッと抱きしめた。何十年かぶりに再会した親子のような情熱的なハグが展開されている。何が一体どうなっているんだ。


 これは悪い夢だ。俺の体はまだ布団の中にあって今もうなされてるはずなんだ、きっと。そして隣で寝ている香奈が『うるさい!』と言って俺の頭をひっぱたく。それで目が覚める、はずだ。まったく、寝る前にあんな話を聞かされたからこんなことに…。なあ香奈、早く起こしてくれよ…。



 現実逃避しかけた俺の頭に、ふと爺ちゃんの言葉がよぎった。

 『ステッキはもう一本ある』

 こんな時の為に封印のステッキがあるって、確かそう言っていた。でもどこに。


 すると後ろから足音が聞こえてきた。騒ぎを聞いて起きてきた婆ちゃんが『あれまあ』と言いながらのんきな表情で現れた。

 もう一か八か婆ちゃんに聞いてみるしかない。

「なあ婆ちゃん!これ、一体どうなってるだ!?」

「あらあら、どうしたんじゃ」

「こんな時のこと爺ちゃんから何か聞いてない?」

「知らんなあ…おい爺さん、この時期にクロに服着せても暑くて可哀想じゃろ…」

「いやいや、そ、それどころじゃなくて…」

 目の前の光景も衝撃だが、婆ちゃんの天然ぶりも驚きだ。でもこんなところで漫才やってる場合じゃない。


「えっと、何でもいいんだ!何か大事な、特別なものを隠してある場所とか…」

「うーん…あるとすれば蔵の中じゃろな。あの中だけはいっぺんも見せてもらった事が無い…」


 婆ちゃんには見せられないものを隠している場所。きっとそこだ。

 俺は香奈の手を掴んだ。


 クロとの熱い抱擁ほうようを終えた爺ちゃんがスッと立ち上がってこちらを向いた。

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