第13章 鎮静の庭:本当の心は②

「あの時会ったのは…」


 自分が来ることを知り、待っていたかのようなリージェイクを見つめながら、キノは呼吸を整える。


「希由香よ」


「わかっています」


 リージェイクが目をせる。


「護りの発動者が彼女だと、昨夜初めて知りました」


「私も…希由香が話した見知らぬ男が、リシールの継承者だったなんて…。館の庭なんだもん。考えたら、別におかしくはないんだけど、ただ…いろんなことが、いろんなところで繋がってる気がして、自分の心さえも…」


 今の気持ちを上手く表現する言葉が見つからず、キノは軽く頭を振った。


「自分だけがいる心は、どこよりも寒くて寂しいものです。自分しかいない世界なら、生きていても死んでいても変わりはないでしょう?」


 リージェイクの視線がキノへと戻る。そのは見る者を惹きつけ、心を見透みすかす強さを持ちながらも、心身の緊張をきたすものではない。決してとらばくすることなく、柔らかく包み込むような温かい眼差まなざし。


「座りませんか? 私を、あなたの心の話し相手に。継承者のリージェイクではなく、希由香さんの出会った…名も知らぬ一時ひとときの友人として」


 この人の雰囲気は、浩司やジャルドの持つ鋭いものとは違う…リシール独特の静かな落ち着きは同じなのに、どっちかって言うとシキに似てる…あの紅いひとみに見える冷たい強さはないけど、全てを受け入れて認めてゆるすような…。


 キノは、かつて希由香が感じたのと同じ不思議な衝動しょうどうられた。彼と話したい、話さなければと。


「あなたは…館にいなくていいの?」


 リージェイクの横に腰を下ろし、キノがたずねる。


「今、皆が集まってるんでしょ? 汐さんに呼ばれて浩司も…」


「私が集会に出ないのはいつものことです。特に今回は…ジャルドが皆に謝罪するために開かれている会です。それだけでは済まないかもしれませんが…」


 見えない地平線の彼方を見やるリージェイクの眉間に、苦痛のしわかすかに刻まれる。


「思うように行動した彼に、後悔はないでしょう。むしろ、本来の自分に戻ることが出来てほっとしているはずです。私にはわかる。そして、願っています。その代償が…彼を苦しめなければいいと」


「今朝の話し合いにあなたがいなかったら、どうなってたんだろう…護りも、ジャルドも…」


「自分の思いや行動が、かかわる者たちの運命を複雑にする。どの道を行くか、選ぶのは彼ら自身だとわかっていても、後で考えてしまう。『これでよかったのか』…と。過去は変えられないのだから、別の今もあり得ない。行き着く先は同じでも、辿たどる道が違えば、そこにかかわる者たちもまた変わる。そんな運命の仕組みが、怖いですか?」


「うん…だけど…誰とのかかわりもなかったら、悲しいことがない代わりに嬉しいこともなくて、誰にも傷つけられないけど、誰かを思いもしない。『自分しかいない世界』って、そういうことでしょ?」


 ひとり言のようにそうつぶやくと、キノはリージェイクの横顔から、その目が見ている光の群れへと視線を移した。


「誰の何の影響も受けないで、自分ひとりで進んでいく未来の方が怖いな…」


「誰もいない一本道を行くほど、孤独でむなしいものはない。少なくても、心はそれを望まないでしょう」


「…誰かに会うことで、道がいくつもに別れても…選ぶのは自分だもんね」


 草の葉をなびかせる風が心地よく二人の頬を撫で、しばし訪れた沈黙はそれぞれの心の縁を穏やかに流れた。


「今朝、あなたたちが館に着いてすぐ、森から現れた涼醒君を見かけました。私は、真直ぐに館へ向かおうとする彼を引き止めた。今は行かない方がいいと」


 キノはリージェイクを見た。


「涼醒は…あなたが連れて来たんじゃないのね」


「彼は、私道や大通りを見張っていた者たちが忽然こつぜんと姿を消したので、あなたがつかまったと思ったそうです。私は状況を説明した。確かにあなたは館内にいるが、浩司も一緒だと。だから、護りはともかく、あなたの身は安全なはず…涼醒君があの場に行けば、かえって話し合いはややこしくなる」


「でも、涼醒は来た。あなたも…」


「私は、ジャルドと浩司の話し合いに加わる気はなかった。けれども、涼醒君をつかまえたという役を引き受け…結果は知っての通りです」


 リージェイクは、前方に向けた視線をわずかに上げた。彼方の明りより更に遠くを見つめるあおひとみは、あの夏の日にあった切なさのかげは薄れ、より静けさを増したように見える。


「傷は、大丈夫?」


 ひざの間で軽く組まれたリージェイクのこぶし。その左手に巻かれた白い包帯が、薄闇に目立つ。心配気なキノの声に、リージェイクのはその焦点を現実へと戻し、キノをとらえ微笑んだ。


身体からだの傷なら、えるのは早い」


「…ありがとう」


 キノは、真剣な眼差まなざしでリージェイクを見つめる。


「もし、涼醒を連れて来たのがあなたじゃなかったら、浩司を止める人はいなかった。護りを守るために、誰かが傷つくのをけられなかったと思う。それに…あなたがああ言わなかったら、きっとジャルドも、本心をしまい込んだままずっと…」


「心の葛藤かっとうは、どんな形にしろいずれ終わる時が来る。今朝まで、私はジャルドがどこまで続けるか見届けるだけのつもりでした。護りには護りの、ジャルドには彼の信じる使命があり、運命がある」


 リージェイクが、かすかに溜息ためいきをついた。


「誰かの思いや何かのタイミングが少しでもずれていたなら、違う今があったでしょう。涼醒君は、話し合いに自分がいては不利になると知っていた。それでも、どうしても行かなければと言う彼の話を聞いて、私は一緒にあの場へ…。『いろいろなことが重なる』それは、ほんの偶然の積み重ねだと思いますか?」


「『偶然はない。全てのことは必然』そう教えてくれた人がいるの。今は、その意味がよくわかる…」


「他人の未来を変えてしまうのではなく、変わるために自分が必要だった。後でそう思えるように、後悔するとわかってることはしない。私たちに出来るのはそのくらいだと思う時があります。そうでなければ、運命を呪い、破滅はめつせられるようになる」


「あなたも…?」


 キノの問いに答える前に、リージェイクは一旦いったん目をせた。


「自分を傷つけたいと、積極的に望んだことがあります。けれども…」


 キノへと戻されたリージェイクのに、かつて飲み込まれた闇の名残なごりがよぎる。


「そんなことをしても得るものはなく、心の空洞くうどうが多くなる。そして、どこにも逃げ場はないのだとわかった時…望むでも願うでもなく、ただ思いました。今この瞬間に、世界が消えても構わない、と」


「…今のあなたは、そう思ってないでしょ?」


 言葉以上の問いかけを含むキノのを見据え、リージェイクはゆっくりとうなずいた。


「私を救ったのは、愛する者の存在です。けれども、彼女にとって自分の存在は無価値だと、自分の思いは無駄なものだという苛立いらだちと痛みからは逃れられずにいた。空虚くうきょな心をめるのは、誰かへの思い。愛する者のいる世界なら、生きる価値がある。そして、その意味を見出すのは自分です。私にはそれがわからなかった。教えてくれたのは…3年前にここで会った、見知らぬ女性です」


 開いた唇から一呼吸遅れて、キノの声が丘を吹き抜ける風に乗る。


「希由香…?」

「あの時彼女と話さなければ、私はあきらめていた。愛する者を愛すること、大切なものを大切にすることを…。そして、一番辛い思いを残したまま死ぬことになったでしょう」


「一番辛い思い…」


「そうです。憶えてますか? あの日、私と彼女が話したことを」


 キノの視線が宙をただよう。


 希由香は、この人の抱える悲しみと切なさを自分のものと近く感じて…お互いの探してる答えが同じところにある気がして…幸せについて話した。それから、愛する人の本心と…。


「あなたが『愛する人が死ぬ時に何を望むか』って聞いた時…『誰かを愛してて、愛されていて欲しい』希由香はそう答えた。『愛する人が孤独な心のまま死ぬのは、何よりも辛いから』って…」


 希由香にとっては、それが本当に一番辛いことなの…? 浩司のそばにいられないことより…? 彼と会える日が二度と来ないかもしれないのに思い続けることより、彼が死ぬことそのものよりも…?


もっとも辛く思うことが何かは、人それぞれでしょう。彼女が何故なぜそう思うのか、あなたにはわかるはずです」


 リージェイクの静かな声が、無意識に額にしわを寄せて考え込むキノの意識をそっと引き戻す。


「愛する者の死は辛く悲しいことですが、人はいずれ必ず死ぬ。いつどうやってかを選べる者は少ない。彼女は、それを充分わかっていた。そして、孤独の深さも闇の暗さも知っているのでしょう…愛する者がそこにとらわれていることも」


「だから、希由香は浩司を救いたかったの。今もそう願ってる。でも、希由香自身は? 愛する人が孤独な心で死ぬのが辛いなら、自分は…?」


 キノは勢い込んで、リージェイクに向かって言った。欲する答えを、彼が知っていると確信しているかのように。


「自分だったら辛いと思うから、浩司にもそうなってほしくないと願うんじゃないの? 希由香は、どうしようもなく浩司を愛してるから…」


 キノがふいに言葉を止める。


 『浩司を愛してる』だから希由香は…希由香の心は…。


「彼女にとっての孤独は、私の思うものと同じ…触れられるところに誰もいないことではなく、死を迎えるその瞬間に思い浮かべる顔のない、呼ぶ名のない…寂しいと自覚することすら忘れた心を指すのだと思います」


「希由香は孤独じゃない…愛する人に出会えたから、浩司を思ってるから…返される思いがなくても…?」


「愛する者に愛される、それを望まぬ者はいないかもしれない。けれども、自分の心だけで成り立つ思いでなければ、孤独を消し去るほどの強さは持ち得ないでしょう。相手に見返りを求める愛や押しつける愛は、所詮しょせん自分勝手な幻想げんそうに過ぎない」


「でも…」


 本当なら、あの二人は…。


「心を苦しめも温めもする、打算なく愛するという思い…彼女は、彼がいる時も去ってからも、それを手放さないと決めた。どうしてかわかりますか?」


 められない思いだから…想い出にするには、どんな現実もかなわないくらい、浩司の存在は強烈過ぎて、心の奥に深く突き刺さって、忘れたくても忘れ…ううん、そうじゃない。止められないからじゃなく、愛したいから愛してる。でも、それは希由香にとって…。


「わかるなら教えて…」


 キノは泳がせていた視線をめる。


「このまま浩司を思い続けるのと、彼を忘れてほかの誰かと愛し合うのと…希由香にとっては、どっちが幸せだと思う?」


「心に思う者がいるのなら、どちらも幸せでしょう」


「そうだけど、でも…」


「では、あなた自身だとしたら?」


 自分の姿を映しているあおひとみ。その奥に自らの心をも映す鏡でもあるかのように、キノはリージェイクを見つめ続ける。


「私が希由香だったら…きっと、どっちが幸せかなんて考えたりしない。心の望む通りにする。思いたいだけ思って、気持ちがなくなるまでずっと愛してる。もし、二度と会えない相手を思うことに疲れて寂しくて別の人に気がいくなら、そこまでのものだったってことだから、それはそれでいいの。わからない先の心も今の心も、変にじ曲げるのは嫌。ただ…」


 キノは一瞬空をあおいだ。星たちよりも遠くて近い、時空じくう狭間はざま。そこに彷徨さまよう切なさのみなもとたちが、白光にまぎれて鈍く輝くなら、夜は白夜以上の薄明はくめいていすることだろう。


「希由香の思いはなくならない。そう決めたのは、そうしたいと望むから。私が彼女で浩司を愛したら…同じように望むと思う。でも、自分のことだからそう言い切れる。第三者から見たら…」


何故なぜその必要があるんですか?」


「え…?」


はたにいては見えないところに、本人の欲するものがあるのかもしれない。特に心の中のことならば…。今、彼女の心には大切なものがある。自分は幸せだと、彼女が言うにあたいするものです。それで充分ではないですか?」


 キノの中で、納得する部分とそれに相反する感情がぶつかり合う。


「希由香には…もっと幸せなことが何かもわかってて、それを望む自分もいるの。本当ならそうなれるはずなのに、そのために私に出来ることがあるのに…まだ迷ってる。幸せと一緒にその後の悲しみも大きくなるってこと、私は知ってる。だから…」


 だから、浩司が選んだのは…『希由香を悲しませないこと』なんだって、痛いほどわかってる。希由香の幸せを一番に願ってるのは浩司なのに、それが何かを誰よりも知ってるのに…!


 キノのまぶたから頬を伝い落ちた涙は、一しずくだけだった。喜怒哀楽のどれにも振り分けられない、言葉で言い表すことの難しい感情。そのき声とともに流れる結晶。


「だから、どうしていいかわからなくて、逃げたくて…逃げたくなくて、ここに来たら、あなたがいて…」


 私は…この人と話したかったのかもしれない。希由香の心は決まってる。3年前ここに来た時に。そして、あの海を見て、迷いの欠片かけらはなくなった。じゃあ…浩司は? 彼が命をけてまで望んだことを、私に変えられる? 浩司に、わずかでも迷いがあるといいのに…。まらない決意の隙間すきまにあるのは、状況の強いるものじゃなく…心だけが望むものだと思うから…。



「希音さん。迷いがあるなら、傍観ぼうかんするのもひとつの選択です。後で見易みやすくなるものもある」


「後じゃ遅いの…私に出来ることがあるのは今だけで、私の役目はまだ終わってないって感じる。このまま行った先の方が、今よりよく見えてる。私はそうしたくない。希由香も。だけど…」


 浩司は…。


 夜風に冷やされた目元をこすり、キノは深く長い息を吐いた。


「私、それが何か知らないうちは、浩司の願いを叶えたかった。幸せに笑ってほしかったから…」


「彼のその望みは、誰かを幸せにするものですか?」


 リージェイクがたずねる。


「彼自身の幸せとは相容あいいれないものであっても」


「浩司の望みは…」


 浩司は…希由香の幸せを願ってる。自分との記憶がなくなれば、希由香はほかの男を愛して幸せになるだろうって…でも、それは不確かなもの。もし、愛せる人に出会わなかったら? 思う人もなく孤独な心で死ぬことになったら? 浩司に出会う前の彼女を、私は知らない。だけど、その頃と今と、彼女にとってどっちが幸せか…浩司にはわかってるはずじゃないの…?


「希由香の幸せを願ってのものだけど…そうならないかもしれない」


 『誰かのマイナスにだけはなりたくない』浩司は本気でそう思ってるの? 自分が希由香にあげたのは悲しみより幸せの方が多いって、知ってるはずじゃないの…?  


「それでも、浩司の苦しみが消えるなら、どうしてもと望むことなら…私が止めちゃいけないのかもしれない」


 『自分の存在に悔いを残すのは辛い』そう言った浩司に、この祈りを後悔させたくないのに…。


「私には、賛成も反対も出来ないよ。でも、このままただ見届けるだけじゃ、私、必ず後悔する」


「あなたの迷いが、3年前の私と同じところにあるのなら…希由香さんが私に聞いた一言が、それを消してくれると思います」


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