第5章 悲しみ、涙、そして、願い:願いは誰のために②

 隣に立つキノのまぶたを、浩司の指がそっと閉じる。


「いいと言うまで、目を開けるな」


「わかった」


「じっとしてろ。すぐに着く」


 浩司はキノの腕をしっかりつかむと、指輪をはめた指を白いドアに近付けた。




 全方位からの遠心力が一度に体にかかり、自分ではなくまわりの空間がはしるようなその振動がおさまるまで、ほんの10秒足らずだった。


 キノが深い息を吐く。


「もう、目を開けても大丈夫だ」


 まばたきながら開いたキノの目に、灰色の岩壁が映る。中央に石の溜池ためいけのある、洞窟のような部屋。二人が立っているのは、中空の間の壁の前だった。


「ここで、夜明けを待つ」


 そう言った浩司の目が、鋭く一点を見つめる。同じ方向を向いたキノの目の前で、石の扉が開いた。


「湶樹ちゃん…!」


 駆け寄るキノに、湶樹が微笑む。


「そろそろ来ると思って待ってたの。キノさん…護りを、見つけるのね」


 湶樹の真剣なが、キノを見つめる。


「世界を救うためだけじゃなく、ほかにも理由があって…。湶樹ちゃんの言うように、不安はあるけど…もう決めたの」


 キノの視線をとらえたまま、湶樹がうなずく。


「わかったわ」


「ありがとう」


 キノは部屋を見まわした。


「涼醒は?」


「…ここ3日間、ほとんど自分の部屋から出て来ないの。だけど…」


 湶樹が左側の壁に目をやる。


「今、隣にいるわ。多分、キノさんたちが来たから…。ちょっと見て来てくれる?」


「隣って、この前いたところ?」


「そう。出てすぐ右の部屋よ」


 キノは浩司を見る。


「行ってやれ」


「…わかった」


 まるでにらみ合うように無言で向き合う浩司と湶樹を扉の前で一度振り返り、キノは静かに廊下へと出ていった。




 わずかに開いているドアをそっと押し、キノは部屋に足を踏み入れた。以前来た時に座っていたソファーに、涼醒の後姿が見える。


「希音か…?」


 キノが近づく前に涼醒が言った。


「うん。今来たの」


 涼醒の向かい側に、キノが腰を下ろす。


「ずっと部屋にこもってたんだって? 何があったの?」


 キノを見る涼醒の顔には、どこか暗いかげが差している。


「どうしたの?」


 心配そうにたずねるキノのを、涼醒は黙ったまま見つめている。


「涼醒…?」


「…あの男は?」


「え?」


「ラシャの使いの…」


「浩司のこと? 向こうの部屋にいるよ。湶樹ちゃんと…何か、私がいると話しづらいことがあるみたい。でも、後で聞けば教えてくれると思う」


 涼醒が冷ややかに笑う。


随分ずいぶん、信用してるんだな」


 キノは眉を寄せる。


「どういう意味?」


「希音と同じ魂を持つ者が、ヴァイで護りを発動した。その女の彼氏だったんだろ? だから、ここに来た。意識をなくした発動者の代わりに、おまえに護りを見つけさせるために。湶樹から聞いた。その通りだな?」


「そうだけど…浩司は、自分の意思で動いてるの。ラシャに護りを戻すためもあるんだろうけど、それだけじゃないよ。私は、浩司を信じてる」


「…あいつと寝たのか?」


 涼醒を映すキノの視界が凝固ぎょうこする。明確に聞こえたその言葉が、聞き違いだと思いたかった。


「もう一度言って」


「あいつは…」


 射るようなキノの視線から目をそむけ、涼醒がつぶやく。


「ヴァイのリシールで、継承者だ」


「だから何?」


「そばにいる女を抱くのなんか、何とも思っちゃいないさ。おまえに、あいつを好きな女の記憶があるんなら、その気にさせるのは簡単だろ。どうせヴァイに帰るんだ。別れた女を思い出して、今だけ楽しむつもり…」


 涼醒の言葉が終わるか終わらないかのうちに、その頬をキノの手が打った。


「何をどれだけわかってて…そんなことが言えるの? 浩司は…」


 キノの声が震える。


「頼んだって、私に手を出すようなことはしないよ。涼醒が、ラシャに反感を持つのは勝手だけど…浩司を侮辱ぶじょくしないで」


 涼醒は微動びどうだにしない。


「どんなに苦しんでるか…知りもしないで…。あの二人を救いたいのに…護りを見つけることしか、私には出来ない。だから…」


 ソファーに身を沈め、キノは両手で顔を覆った。その目から涙がこぼれる。


「悪かった…」


 湿った沈黙で静まり返った空気に、涼醒の声が響く。


「もう二度と、馬鹿なことは言わない」


 キノはまぶたぬぐい、顔を上げた。濡れたひとみで涼醒を見つめる。


「浩司は…涼醒が思ってるような人じゃないよ」


 キノを見つめ、涼醒がうなずいた。


「ごめんね、引っぱたいたりして…」


「…それだけのことを言った、俺が悪い。ここ何日かずっと、自分に嫌気が差していらついて…ただのガキだな。半分は、八つ当りだ。悪かった」


 涼醒はぎこちなく微笑んだ。先刻せんこくの平手打ちでかすかに赤味を帯びたその頬に、キノがそっと触れる。


「何があったの? 何か…悩み事でもあるの?」


 涼醒がキノの手をつかむ。


「あいつが、希音を連れ帰った後…」


 言葉の途中で、弾かれたように涼醒が後ろを振り返る。


「涼醒?」


 数秒後に開いたドアから、入って来たのは浩司だった。赤い目をしたキノと、その手を放しうつむく涼醒を交互に見やる。


「話は終わったの?」


 何事もなかったかのように微笑み、キノが言う。


「俺の方はな。こっちの話はついたのか?」


 顔を上げた涼醒に、浩司の視線が移る。


「そろそろ時間だ」


 一瞬、涼醒がいどむような眼差まなざしを浩司に向け、すぐにらす。


「涼醒…帰って来たら、話してね」


 困惑こんわく気味にキノが言った。涼醒はしばし宙を見つめ、その目を再び浩司へと向ける。


「俺も…連れてってくれ」


 浩司の強い視線が、涼醒を射抜く。


「この前、言ってたよな。あんたがヴァイに戻った後、希音を守れって。今からだって早過ぎやしないだろ」


「本気か? ラシャが、リシールにはきつい空間だと知っているだろう」


「わかってるさ。特に、継承者でもない俺にはな」


「…それでもか?」


「あんたの邪魔にはならない。俺は、ラシャから希音を無事に戻したいだけだ」


「涼醒…」


 緊迫した空気に、キノのつぶやきがける。涼醒は、浩司を見据えたまま動かない。そのは、本人以外には変えられぬ決意に満ちている。


「わかった。一緒に来い。おまえがいた方が、都合のいいこともあるしな」


 浩司の言葉に深い息をつき、涼醒は目をまたたいた。


「だが、これだけは言っておく。おまえは…もうキノを泣かせたりするな」


「言われなくても、そうするさ」


 涼醒がそう言うと、浩司はキノを見てうなずいた。


「行こうか。じき夜が明ける」 

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