第1章 運命の始まりの夢:夢の謎
目覚めた時、キノの目は一晩中泣き続けた名残りのように赤く、熱を持っていた。
厳しい残暑が未だ去らない9月の終わりにもかかわらず、キノは今朝の夢でいた真冬の寒さを思い出し身震いする。深夜に日付けが変わってから午前8時頃まで寝るキノにとって、夢は夜というよりも朝に見る感覚だった。
初めてあの夢を見た朝から5日、そして、今日で6日、あの夢を見続けている。この6日間、毎朝目が覚めるたび、前日にあった現実の出来事よりも強く刻まれて行く夢の記憶に、キノは言いようのない不安を感じていた。自分ではあらがうことのできない何か大きな力によってどこかへ引きずり込まれて行くような、未知なる恐怖。
キノは思いきり鼻をかむと、キッチンへと向かった。イスに座り、テーブルの上のコーヒーメーカーが黒茶の液体をポットに
私…どこかおかしいの? 同じ夢を…あの二人の夢を見続けるなんて…それも、普通の夢じゃない。空想とか、現実にはありえないとかじゃなくて、もっと何か…。
目の前で噴き出す蒸気が、夢で見た自分の白い息と重なる。
寒い夜。冷たい指先。頬を刺す凍るような風。冷めた
また会えたらいいと思った。なぜか、会える気もしてた。でも今は…怖い。私はキユカじゃない…。
キノは頭を振ると勢いよく立ち上がり、出かける支度を始めた。
ビルの8階にあるティールームは、強い陽射しに熱せられている外界とは打って変り、冷房が強く効いていた。寒がりのキノにとっては、涼しいというより肌寒い。
熱いカップに息を吹きかけながら、キノはぼんやりと窓の外を眺めている。
キノは今日、都心に住む妹に会いに来ていた。2歳下の
「待った?」
その声に振り向くと、友理が息を切らして立っていた。ノースリーブの胸元に銀のペンダントが揺れている。
一瞬、キノの心の片隅を何かがよぎった。けれども、その瞬間はあまりにも短過ぎて、キノが気づくより速く、記憶の奥へと埋もれていった。
友理が向かい側のイスに腰を下ろすのを目で追いながら、キノは笑顔を向ける。
「来たばっかり。元気だった?」
「暑さにバテてはいるけど、なんとかね。きみは? 元気なさそうだけど、あの男がまた何か言ってきたの?」
キノはドキッとする。
「え? あの男?」
「別れて2ヶ月も経つのに、電話やメールが来るってこの前言ってたじゃん」
「ああ…彼のことか。ううん、もうない。友理は? 彼氏とは仲良くやってる?」
「私はうまくいってるから心配しないで。それより、誰のことだと思ったの? ほかの男と何かあった?」
「ううん。そういうんじゃなくて…」
キノは友理に夢のことを話そうとした。けれども、あれが普通の夢ではないと、どう言えば伝えられるのか。
「…夢を見るの。この頃、毎朝」
「怖い夢?」
キノは軽く頭を振る。
「夢とは思えないくらいリアルで、本当にあったことみたいにはっきり憶えてる」
「どんな夢なの?」
「男がいて、その男をすごく愛してる」
「きみが?」
「夢の中の私が。でもキユカって名前で、男はコウジ…彼氏みたい」
「恋愛映画見てるみたいじゃん」
ウエイトレスが注文をとりに来た。アイスラテを頼んだ友理は、キノの深刻な表情を見て眉を寄せる。
「何? ただの夢じゃないの?」
「ただの夢じゃない。それだけは確か。じゃあ何って聞かれてもわかんないけど…。夢の中の私って言ったでしょ? 私がキユカとして見たり聞いたり動いたりしてるの。でも、私の意思じゃなく」
「思い通りになる夢なんてないでしょう。とんでもないことしてたり、ありえないことがあったり、知らない場所にいたり。中にはリアルなのだって。考え過ぎだよ。ぐっすり眠ればすぐ忘れ…」
友理は途中で言葉を止めた。
「毎朝って言った? 同じ夢を?」
真顔になった友理を見て、キノは弱々しく微笑んだ。
「今日で6日続いてる。同じ夢とは言わないかな。いつもキユカがいて、コウジがいて、でも違う時で違うシーンだから。ちゃんと続きなわけでもないみたい」
友理の表情が不安に陰る。
「何か心配事とか、悩んでることない?」
「空想の世界に現実逃避してるんじゃないかって? 私もいろいろ考えたんだ。最近疲れてる? 欲求不満?
友理は、思いつめた表情で話す姉が心配でたまらない。いつもしっかりしていて精神の強いキノが、ここまで取り憑かれているのなら、その夢には本当に何かがあるのかもしれないと思った。
「きみはどこから見てるの? 上からとか、横からとか」
「もちろん、キユカの目から。キユカが目をつぶってる時は何も見えない」
「じゃあ感覚は?」
「ある。現実と同じ。ただ自分の意思ではどこも動かせないだけ。特に不思議なのは、キユカとして夢にいる時でも頭と心は私でキユカじゃない。それなのに…キユカと同じ感情になること」
「どういう意味?」
「…初めてあの夢を見た時は自分だと思ってたから、起きたら知らない男と寝ててびっくりした。なのに、当たり前のように彼に寄り添って、ここが好き、この男が恋しいって思ったの。誰かもわからないのに。今考えれば、それはキユカが感じてたんだ」
「キユカの感情なんてないんじゃないの? 夢ではきみがキユカなんだから。キユカの頭も心も身体もきみで、夢だから勝手に動いてて、わけわかんない気持ちにもなるって考えた方が納得いくんだけど、どう?」
キノはしばらく考え込むと、首を振った。
「キユカの人格がちゃんとある感じなの。私には、悲しくて泣いてるのはわかっても、どうして悲しいのか、理由はわからない。でもキユカはわかってる。いつもどんな思いでいるのか、何であんなにコウジが好きなのか、知りたいよ…。キユカと私の心が別だとしても、私自身もコウジを愛してるように感じる。それが理解できなくて、怖いの。頭がおかしくなっちゃったみたいで…。寝ても醒めても夢で会う男のこと考えてて、自分が自分じゃないみたいで怖い。でも、私の空想なんかじゃない。この夢には意味がある。それが何か、何のためかはわからないけど…感じるの」
今まで独りで抱え込んでいたものを吐き出すかのように話すと、キノは宙を見ていたその目の焦点を友理に合わせた。
「私…変?」
友理はキノを見つめたまま、言葉が見つからない。運ばれて来たグラスに手を伸ばし、半分近く一気に飲み干して息を吐く。
「お姉ちゃん…何かあったら、何でも話してね。聞いてあげることしかできないかもしれないけど…」
「ありがと。それで充分助かる。誰にも言えないって、辛いし。こんな話は特に」
キノに笑顔が戻る。実際、夢に対する不安を友理に話しただけで、キノは気持ちが少し軽くなるのを感じていた。
「心配かけてごめんね。私、大丈夫よ」
友理に向けられたキノの瞳は、
「わかってる」
友理はそう言って微笑んだ。
小さい頃から、姉は強い人間だと漠然と思っていた。キノの瞳を見ながら、友理は改めて思う。
もし万が一キノの身に、心に、これから何かが起こったとしても、彼女なら大丈夫。何の根拠もなくそう思う。それは友理の微かな予感だったのかもしれない。
「私ね、夢を見てるうちに、私はキユカの生れ変わりかもと思ったの。その記憶を思い出してるって」
「そうかも!」
友理が身を乗り出した。
「でも違った」
「どうして? ありえるじゃん!」
「携帯電話持ってたもん。もし前世だとしたら、あの後すぐ死んじゃったとしても、早くて21年前」
「無理があるか」
肩を落とす友理に微笑み、キノが続ける。
「次に、私の未来かもって。キユカは26歳だって言ってたから」
「予知夢だ! あ、でも…」
「そう、名前が違う」
「来世は?」
キノはガラス越しの空を見た。太陽が色づき始めている。
「嫌だな…」
「どうして?」
「…苦しい恋だから」
「すっごく好きなのに?」
「キユカはね。コウジは愛してないんだ」
アパートの狭いベランダで、キノは星のない空を見ている。夕方過ぎまでは晴天を保っていたが、夜になるとたちまち雲に覆われ、今は暗一色の空。
キノは、厚い雲の向こうに隠れる月を見たかった。月の光を浴びたかった。
今夜が満月だといい…。
けれども、灰色の霧の波は一向に引く気配を見せず、その裂け目から微かに月の存在を感じられるだけだった。
キノは室内に戻り、ベッドに横になる。今ではもう、夢の予感を否定することなく目を閉じる。キノは再び希由香になるだろう。そして、そこには浩司がいる。
キユカは実在するのかもしれない。過去か未来か、今現在に。何かを伝えたいのかもしれない…私に。もし仮にそうだとしたら何を? いつもコウジを思ってる。痛いくらいに…。あの二人は、この先どうなるの?
友理と話したことで、キノの中に散らばっていたものが幾分整理されてきていた。
自分が希由香とは全く別の人間である可能性。けれども、二人を繋ぐ何かが、キノに夢を見せ続ける。
キノは枕に顔を押し付けた。
本当に私じゃないなら、映画を見るみたいに成り行きを見守れるのに。でも、私は傍観者じゃない気がする。キユカと私は…。
キノの意識が薄れて行く。夢の中へと入って行く。
★★★
「今年も残すところあと数分! 境内では新年を迎えるために…」
喧騒の音とともに、テレビの画面がキノの目に飛び込んで来た。ビールの缶を片手に、浩司がリモコンに手を伸ばす。
「…の年越しライブの会場に中継が繋がっています。大勢の…」
「来年から、いよいよ21世紀が始まるわけですが…」
「ミレニアムと騒がれたこの一年…」
次々と変わる画面を、希由香はじっと見つめている。
浩司はテーブルの上にリモコンを放り、希由香の腕をつかみ強く引いた。バランスを崩した希由香はソファーの背から滑り落ち、浩司がその上に屈み込む。
「そろそろ秒読みが開始されようとしていまます! 電光掲示板の数字を…」
二人は言葉を交わさず、静かに見つめ合っている。互いの
「10! 9!」
テレビの向こうで観衆が叫ぶ。
希由香が微笑んだ。浩司は左手で希由香の目を覆い、唇を近づける。
「8! 7! 6! 5! 4!」
優しいキスだった。浩司の右手がつかんでいた腕を放すと、希由香はそれを浩司の首へと回し、すでに視界を
「3! 2! 1!」
「0!」
「2001年が、今! 始まりました!」
歓声が遠く聞こえる中、二人は重ねていた唇を離す。
「ミレニアムを越えたね」
★★★
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