第1章 運命の始まりの夢:夢の中の男②
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キノは澄んだ夜空の下、頭上に広がる無数の星々と、その下方に見える灯りの群れを見渡していた。空と地の境界線を失った夜の光はまるで、濃紺に染めたカンバスに黄や山吹色の補色を点々と置いたように強く映る。
街の外れの小さな丘。森の中にぽっかりと切り取られたその空地には木が一本もなく、そこを囲む古い木製の柵は所々が朽ち落ちている。人々に忘れ去られた公園、あるいは、主をなくした森の館の庭園に迷い込んでしまったような空間。
キノは、すぐ隣で同じ絵を見ている男がいるのに気づいた。
彼だ…。
月明かりに見える男の横顔。
見間違えるはずはない。また会いたいと、また会えると思っていた、夢で会ったあの男。
夢の中にいる。キノはそう自覚しながら、静かに男を見つめ続けている。その視線を感じたかのように、男がこちらを向く。
その
「どうして私をここに連れてきたの?」
キノが、正確には『
「ここから見る空が好きなんだ。特に真夜中のな」
前日の夢で自分を呼んだ同じ声が答える。
「ずっと近くに住んでるのに、こんなところがあるの知らなかった」
「気にいったか?」
男が、希由香の手を取り握りしめる。希由香の冷えきった指先が、男のあたたかい手の平に包まれる。
「
希由香は一瞬空を仰ぐと、榊の
「希由香は? どうして俺について来た?」
榊の瞳もまっすぐ希由香に向けられ、二人の視線は逸らされないままその距離を縮めた。
同じ高さに近付いた榊の目に、光が映っている。遠い空か、遠い街の星。キノはその中心にある瞳の奥をじっと見つめる。
この闇に
キノは、あと数センチのところで止まっていた榊の唇が自分に重なるのを感じた。視界は奪われ、開いた唇から熱い息と体温が流れ込み、キノの意識は夢から離れて行った。
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頭が激しく脈を打っている。ふらつく足取りで部屋まで
頭の血管が破裂しそう。私…酔ってるの? ここは…あの部屋?
希由香の目がチラッと見やった壁時計は、キノが以前夢で見たものと同じだった。その針は2時半を指している。午前に違いない。窓の外からわずかに漏れ入る街灯の明りだけが頼りの、闇の中。
希由香はベッドの脇に崩れるように座り込み、布団の端に突っ伏した。
頭が痛い。このまま寝ちゃいそう…。
キノは夢の中と知りつつ、眠りに誘われそうになる。
突然、頬にあたたかいものを感じた。希由香が目を閉じているので、キノにはそれが何なのかわからない。ただ、心地いい。
次第にはっきりして来る意識の中、このぬくもりが指先となり冷たい唇の隙間を撫でると、希由香が顔を上げた。ベッドには榊がいる。
会いたかった…。
これが自分の気持ちなのか希由香のものなのか、キノは考えるのを止めた。考えたところで、今はわかりはしない。
「希由…来たのか?」
「
浩司は目を閉じたまま希由香の首に手をまわして引き寄せ、キスをする。
「来いよ」
闇の中で、浩司の瞳が鈍く光る。キノの動揺をよそに希由香は立ち上がり、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。
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月が揺れている。
白銀の円がゆらゆらとその姿を歪め、ひっそりと夜を照らす。キノは水面に映る月を眺めていた。
希由香と浩司は、池の畔にあるベンチに腰かけている。
静かな夜だった。時折吹く風が起こす木々のざわめきのほかには、二人の話し声しか聞こえない。
「満月は、人の心を狂わす?」
希由香は空の月へと視線を移した。
「かもな。俺は、満月に限らないが」
浩司が希由香の肩を抱く。
「みんなじゃないけど、月に影響される人はいると思う。狂わないとしても、パワーが高まったりするの」
「狼人間とかか?」
「魔術師とか」
浩司が笑い出した。
「お
「まだ26。でも私、超常現象とかって信じてるよ。超能力者も宇宙人も幽霊もいると思ってる。魔法使いは…わからないけど」
希由香も浩司を見て笑う。
「満月って言っても太陽の光が反射してるだけで、自分が光ってるわけじゃない」
「映してる、か…。タロットでの月の意味、知ってる?」
「…幻、
希由香の顔に、驚きの色が少し浮かぶ。
「意外か? 実は俺、魔術師なんだ」
浩司の顔は笑っているが、キノは
「じゃあ、魔法使いさん。私の中の不安を消してくれる?」
そう言っていたずらっぽく笑う希由香の心の真剣な思いに、浩司は気づいただろうか。浩司のキスを受けながら、キノの心に切なさがあふれる。
濡れた唇を離し、互いの笑顔の向こうを探るように見つめ合う。
「俺は誰も愛せない。そう、
「…誰に?」
浩司は黙ったまま希由香の
「
「無のフールを引いたのは私か…浩司か。私は運命論者じゃないけど、偶然は信じない。起こることにはみんな意味があるはず。そうじゃなきゃ、心なんていらない。人はいっぱいいるのに浩司に出会った。それは決められていたことかもしれないけど、私の気持ちは自分で選んだ運命なの。だから…」
浩司が顔を上げる。
「愛してる」
希由香が微笑んで言った。浩司は無言で希由香を抱きしめる。
「もっと…強くして」
浩司が腕の力を強める。キノは胸が
この腕がしめつけてるのは、身体だけじゃない、心もだ。もっと、強く…。
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目を開けたら浩司の顔がすぐ目の前にあって、キノは少しうろたえた。
何…?
考えるより先に、キノは状況を理解する。
天井のライトが、浩司の頭越しに見え隠れしている。長めの漆黒の前髪が、希由香の額の上で揺れている。身体の中に浩司の存在を感じる。全身の血が、浩司の熱で沸騰しそうだった。希由香の胸をつかむ手も髪の中の指も肌をなぞる唇も、全てが、熱い。
「浩…司」
途切れそうな息の隙間から、希由香の声が愛しい男の名を呼ぶ。
身体の奥を貫く振動が止み、喉の奥に熱い液体が流し込まれる。希由香は自分と浩司の混ざり合ったそれを舌で
希由香は、伸ばされた浩司の腕へと移動した。
「おまえとセックスするのは好きだ」
希由香の身体のラインに沿って、浩司が手を滑らせる。
「この身体もな」
希由香は浩司の頭をなでながら、汗で額に張りついた髪を優しく払う。
「浩司が飽きるまで、いくらでも」
笑顔で言う希由香を見て、浩司が微笑む。
「愛すなよ。ただ、好きなだけでいい」
「…愛してる」
浩司は部屋の灯りを消し、希由香のまぶたに唇をあててささやいた。
「眠れ」
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寒い。
希由香は路肩に停めた原付きの座席で震えていた。刺すような冷気が濡れた頬に痛い。感覚を失い始めた希由香の指が、携帯電話のリダイヤルボタンを押す。何度目かのコールの後、留守を告げるメッセージが流れると、即座に通話を切った。真白い息を吐く希由香の口元を、新たな涙が伝う。
希由香の泣いている理由を、キノは知らない。けれども、悲しさはわかる。切なさがわかる。
原付きの向きを変え、シンと寝静まった夜の道を走る。凍った風の矢が、希由香の顔を次々とかすめて行く。
団地の一画でエンジンを止め、希由香は階段を登り始めた。3階まで一息で来ると、ある部屋の前で立ち止まる。目の前のこの扉の向こうに誰がいるのか、キノには考えるまでもなくわかる。
かじかんだ手で鍵を回し、希由香はそっとドアを開けた。短い廊下の向こうから、テレビの音が聞こえて来る。
「浩司」
希由香の声が震える。
「浩司…」
「何やってる?」
冷たい声に、冷めた瞳。キノは背筋が凍りつく気がした。
これが、同じ男なの? 希由香を抱いて眠る、あの男と同じなの?
希由香は目頭に力を入れる。涙がこぼれないようにするために。
「さっきはごめんなさい…。ここに、いさせて…」
浩司は表情を変えない。
「帰れ」
「ただ部屋にいるだけでいいから」
希由香は浩司の
この瞳を見ていたくない。この瞳に見られていたくない…。
そう思いながらも、キノは目の前にいる男への思いを消せない。胸が痛くなる。
希由香は目をそらさなかった。
「今日はもう、おまえと話す気はない」
浩司は
外に出た希由香は、静かにドアを閉め鍵をかけた。冷たく乾いた夜の空気に、無機質な金属音が
浩司の世界と希由香を遮断する音。その音が、希由香の耳にいつまでも響いていた。
希由香の心に、そして、キノの心にも。
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