第86話   絵本の作者

 キセルをくゆらせて、座ったまま青空を見上げる春の民がいる。緑色のぼさついた長い髪を、気ままな春風になぶらせながら、空高い城壁の上から、真昼間のエメロ国を眺めた。


 昨日の朝に、さんざん崩してやった白いテントが、以前と同じく建っている。あれが市場だ。昨日の朝に、エメローディア姫と会い、その技量を計った場所。そして、春の民が生きられる余地が、この国に残っていないのを思い知った場所でもあった。


「我らの居場所は、どこにも残ってはいなかった。もともとこの地は、我らが生まれし聖地であるのに、すっかり人の子に占拠されてしまったな……」


 緑豊かなこの国の地下深くには、彼らの母である黄金の竜、リーフドラゴンの亡骸が埋まっている。命尽きて尚、その恩恵は地をふとらせうるおして、どんなに悪天候が続いてもエメロ国だけは実りがあり、それは白い外壁で空まで埋め尽くされたときも発揮されて、こんにちまでエメロ国民の生活の支えとなっている。


「墓参りができる場所くらい残してくれていても、良かったではないか」


 たった一人だけ、セレンという名の春の民がエメロ国に住んでいるという。朝と昼間は花屋の店員で、夕方からは酒屋で演奏と、楽器の師をやっているそうだが、どうせろくな扱いをされていないだろうから、会わなかった。


 ふと気配を感じて右端に目をやると、壁の上を伝ってはるか遠くから、何者かが歩いてくるのが見えた。春の民は警戒し、膝横に置いていた白い仮面を被ろうとしたが、相手も同じ仮面をかぶっており、やじろべえのように両腕を張って歩いてくるので、春の民は仮面を被るのをやめて膝の横に置き直した。


 歩くのに充分な幅があるにも関わらず、ふざけた歩き方で接近してきたその男は、同胞の春の民だった。


「おーい! 例の本が、手に入ったよ! って、借り物なんだけどね。読み終わって満足したら、また俺に返しにきてよ」


「入手経路は」


「花屋の店員の、セレンだよ。エメロ国で唯一、働いてる子」


 なんと、セレンからの借り物だと言う。今しがたセレンに対して複雑な思いを再認識したばかりの彼は、この偶然に苦笑がもれた。


「あ、古い本に火気は厳禁。それは没収ね」


 片手にしていたキセルが奪われる。奪った相手は、遠慮なくキセルをふかし始めた。


「まーったく、作者は俺だってのに、いざ手元を離れて年月が経ったら、すーぐこれだもの。まあ、どれも希少価値が付いてるのは、とってもとっても誇らしいんだけどさ」


 俺もいっしょに読む〜、と言って、となりにぴったりと座ってくるので、男同士でさすがにイヤな気持ちになった。


「お前、その仮面はどうした。ヒビが入ってるな」


「灼熱の子竜にやられたんだ。いい記念だから、手元に置いておこうと思って」


「お前の竪琴を破壊した男にやられたのか。ヒビが目印になるから、仕事時にはその仮面は使うなよ」


「わかってるって、兄さん」


 絶対わかってないだろ、と虹色の目を細めた兄だったが、気を取り直して、数十年ぶりに手にした弟の最高傑作を、日にかざしてみた。何度目にしてもこの表紙絵には、感嘆の意が沸き上がる。弟は歌も踊りもヘンテコだが、絵の才能だけは春の民随一であった。


 兄は本を空に掲げるのをやめ、絵本の表紙をめくると、最初の頁に登場する黄金の竜の姿に、虹色の目を見開いた。


「おお、我らが祖よ。再びご尊顔を拝せるとは」


 本の内容はあらかた知っている。何枚か頁をめくるその先々で、黄金の竜と、白銀の子竜とのやりとりが続いている。


「おっ、私がいる」


 民衆のただ中で、歌っている春の民がいた。この後、何が起きるか知らない頃の、なんの悩みもなかった頃の自分の顔だ。


「……」


 その次の頁では、人の子と食べ物などを物々交換したり、花や首飾りを交換する場面が、描かれていた。しかし、その右端っこでは、不愉快そうに顔を歪ませている人の子の姿が数人。

 彼らとは、最後まで交流が持てなかったのを兄は思い出していた。


「我々は人の子に娯楽と喜びをもたらす民だ。それ故、伎芸ぎげいけ、人の子の異性を魅了した」


「今だって俺たちは、それでメシ食ってるんだ。人の子は他人のために働いてばっかりで、すーぐ心が疲弊しちまうんだからな」


 次の頁をめくると、丈夫そうな民家やお店を背景に、両者がもめている場面だった。そして次の頁では、頭に花を付けた丸い顔にペケが描かれた看板が随所に立てられて、立派な服を着た人の子らが、偉そうに両腕を組んで徒党を組み、春の民が頁の隅っこに追いやられて困惑していた。


 緻密に描かれた、残酷な歴史。楽しいことが大好きな弟が、悲しみを癒すためにたくさん描き続けた絵本。今や弟はすっかりれてしまい、どんな歴史も他人事みたいな顔で眺めている。


「そこから先の展開はさ、人から聴いて描いてたんだ。国から追放された俺たちじゃ、実際に起きた事件を目撃することは、できなかったからね」


「そうだったのか。スノウベイデル国の誕生と、竜の巫女の生贄事件、そして白銀の子竜が急成長した頁は、お前が実際に訪れて描いたのではなかったんだな」


「だって、辛すぎたから。これ以上をの当たりにする勇気は、当時の俺にはなかったよ。まあでも、今ではどーでもよくなっちゃったけどね、べつに人の子と不仲でも、こうして家族と生きていけるんだし?」


 弟はふてくされた顔で城壁の白い石材に手をつくと、空を仰いだ。城下町から飛び立つ鳥の大群を、注視する。伝書鳩などが紛れ込んでいないか確認した後、ため息を空に放った。白い雲が、流れてゆく。


「でもさー白銀の子竜だけは、どんなに自分の家族を創り出しても、この世界を許しはしないんだろうな……」


「そのようだな。スノウベイデル国に野放しになっている、あの巨大な竜がその証拠だ」


「それにしてもさ〜ガブリエル王子はハンサムだったな〜! それに、ちょーっとからかっただけで、すーぐムキになっちゃうんだよ、おもしろかったな〜」


 急に話題が変わったと思ったら、弟の緑色の髪からバフンッと花粉が放出された。


「やめろ! となりで発情するな!」


 もう読書どころではない。弟に本を突き返し、兄は咳こみながら立ち上がって、弟と距離を取った。


「えへへ〜。楽しくなると、つい。って言うか、兄さんも少しは慣れろよなー。長い付き合いだろ?」


「他人の花粉にまみれて、いい気がするか! 少しは控えろ」


 兄は己の髪の毛に付着してたまるかと、手でしきりに払った。じつは春の民の髪の毛に生えている草花は、男女問わず受粉すると果物が実る。実り豊かな黄金の竜から受け継がれた特質であり、このように花粉を頻繁に放出する仲間が疎まれる原因にもなっていた。


 故に、弟はつい最近まで、気ままな一人旅をしていた。見聞を広め、多くの弟子を持ち、彼の育てた芸術家は皆、世界へと羽ばたいていった。



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