第80話   王子の秘密を知ったヒメは

 ヒメは浴室の窓から外に出るまで、貼りついたような微笑みで耐えていた。温かな湯気から冷たい外気へと、まるで夢から現実へと目が覚める過程のように、その身を移動させた。


「ファング」


 まだ浴室にいる三男に、リアン王子から声がかかった。


「姉上を連れてきてくれて、ありがとう。僕だけじゃ、真実を伝えてあげられなかったよ」


「……強くなったね、リアン王子」


 互いの名前を呼び合う二人に、ヒメは目を閉じて、その場の花壇の陰にうずくまってしまった。


 三男もひらりと窓から飛び出して、窓を閉めると、ぐったりしているヒメに気づいて、みずからもしゃがみながら声をかけた。


「大丈夫かよ」


「大丈夫じゃないよ……」


 吐いた後のような、別人みたいな低い声の返事だった。本格的に大丈夫ではないらしいと感じ取った三男は、黒い布越しに頭を掻きながら、少しだけ周辺に視線をめぐらせて、見張りの兵士の位置を確認しつつ、思案した。


「こうなるとわかってたよ。でも誕生日の当日に知らされるほうが、もっとヒメさんが混乱すると思ったんだ。早めにショック受けて、それで早めに覚悟と気構えをつけてほしかったんだよ」


「うん……いい考えだね。私も当日に言われてたら、パニック起こして、逃げ出しちゃってたかも」


 想像もしていない事態に遭遇すると、焦燥のあまり体が動いてしまうのは、異様な環境で箱入りに育てられたヒメの、世間知らず故の気質だった。

 もう少し多くの出来事に揉まれて、たくさんの失敗と成功を経験しなければ、どこ吹く風の態度を貫き通すことは不可能に近い。


 花壇の陰に身をひそめるのは、見張りの兵士をやりすごすためでもあるが、その兵士がまだ近くにいない場合は、心を落ち着けるための所業に過ぎなくなる。花の匂いは、荒みそうになる精神を落ち着かせてくれる。


 泣くまいと耐えて、過呼吸気味になっているヒメには、花の香りがよく効いた。


「いろんな花が植えられてるんだね。どれも、薬草みたいな匂いがする」


「この花や葉っぱから採れる精油が、王子の常備薬なんだ。いちばんよく使ってるのは、ゼラニウムだったかな。気持ちを安定させてくれるんだと」


「悲しくなると、この花畑の匂いに助けられてたんだね」


 丸い葉っぱが密集したその上に、濃い桃色の小花が花束のようになって、ヒメの顔を見上げている。これがゼラニウムなのだと、三男が教えてくれた。


「ふえっくしょい!!」


 突然、浴室にいるリアン王子の大きなくしゃみが。ヒメは青い目を丸くし、三男は「あ、忘れてた」との抜けた声を上げた。


「王子はスギの花粉症なんだよ。ヒメさん、立てるか? 見張りに気づかれちまう前に、移動しよう」


「うん、もう大丈夫だよ。部屋に戻ろう」




 二人して急いで縄を上り、二階のマリーベル姫の私室へと戻ってきた。見張りに気付かれなくて、ほっとするヒメだが、扉の外のジョージから「お帰りなさいませ」と声をかけられて、しぶしぶ「ただいまぁ」と返事をしたのだった。


「ジョージさんは耳がいいなぁ」


「夜だと静かだから、いつもより気配を消さなくちゃダメだよ、ヒメさん」


「ええ? 私? どこで物音立てちゃったんだろう」


「バルコニーの窓から、部屋に戻ったときに、ため息ついてた。自覚なかったのか?」


 全く覚えていなかった。こっそりやらなければならない場面で、ため息とは……ヒメは素直に反省したが、その心の半分以上は、リアン王子と、それからガビィについて占められていた。


 またため息が出てしまう。いつもより顔を覆う黒い布が、厚く苦しく感じて、ヒメは三男がその場にいるのも今更気にせず、顔の覆いに手をのばした。後頭部の結び目に指をかける。


「リアンさん、裸を見られて怒ってないかな。お化粧してまで、自分の肌を隠してる人だったのに」


「そんなふうに見えたか?」


「いつから、リアンさんと友達だったの?」


 ヒメは顔の覆いを解き、両手にのせた黒い布をしばし眺めた。以前は人前で解くなんて、恥ずかしくて、絶対にしたくなかった。今は……慣れてしまった自分を、改めて認識する。もう以前の自分ではないのだと。


「友達じゃねーよ。雇われてるだけだって」


「でも、断ることもできるよね。三男さんは、お金くれたらなんでもする性格じゃないじゃん」


「虫の観察と一緒だよ。あいつがどこまでエメロ国でやれるのか、見てみたくなったんだよ。初めは、そんなつもりなかったんだけど。俺も竜の巣で兄さんの事務仕事とか手伝わなきゃだったし、ずっとエメロ国に留まってることはできないから、リアンには部下を数人貸し出す程度しか協力してねえよ」


「へえ、リアンさんを応援したくなったんだ」


「ちっげーよ! もう、観察だって言ったろ。俺だってあいつが、こんな場所の王子様じゃなきゃ、ここまでしなかったよ」


「エメロ国の王子様だから、助けてるってこと?」


 ヒメは黒い装束の上から、ピンクの寝巻きを頭からすっぽりとかぶりだす。三男が怪訝そうにしている中、寝巻きのスカートの下からするすると黒い布を解いて取り出してゆく。


「ヒメさん、ずいぶん器用なことしてるね」


「え? あ、ほんとだ。なんか急いで着替えなきゃって、焦ってたみたい」


 ヒメはずいぶんと混乱しているようだ。


「それで三男さんは、どうしてエメロ国の王子様を手助けしてるの?」


「親父の方針に従ってるだけさ。親父はさぁ、これでもエメロ国だけは贔屓ひいきにしてるんだよ。この国の下に、黄金の竜のお墓があるんだってさ」


「え? うそっ、それって、もしかしてーー」


 黄金の竜の挿絵が、ヒメの脳裏いっぱいに浮かび上がった。あの竜が埋葬された描写はなかったけれど、あの慕われようからして、亡骸を野ざらしなんて絶対にありえない。お花でいっぱいに飾られて、大勢の涙とともに土に還ったのだと、ヒメは想像していた。


「親父は、墓の上で無用な争いの血を、流したくないって言ってたよ。なんのことかわからないけど。でも無用な争いの血は、親父のせいで流れそうにもなってるから、けっきょく親父が何をしたいのか、わけがわかんねーよ」


「ねえ、お墓には、あの絵本の竜が眠ってるの?」


「ええ? さあな……親父のことだから、適当なことしゃべってただけで、本当は別の理由が~とか、そんな感じかもしれねーし。親父、酔ってたしさ」


 竜の巣の王が、酒に酔って適当なことを駄弁だべっていた可能性もある。それでも、竜の巣の民と名乗るだけの理由が、きっとその肌の鱗だけではないのだと、ヒメは確信していた。もしかしたら、竜の巣の王は、いろいろな竜と交流があったのかもしれないし、あるいは、彼らの子孫なのかもしれない。王だけが人の姿をしていないことも、そう考えれば自然と合点がいった。


(この下に、黄金の竜が眠ってる……。確証はないけど、もしも、そうだとしたらーー)


 エメロ国に集まってきた春の民、エメローディアの名を呼び続ける、隣国の竜。白銀色の鎧をまとう騎士団、この国の下に眠る、黄金の竜。


(これって、偶然なのかな……あああ、どうやって調べたらいいんだろ、気になるな~)


 そしてヒメは、このほんのひとときだけ、リアン王子から受けたショックな話題を忘れることができていた。できていても、受けたばかりの大きな衝撃は、必ず波のように打ち寄せてくる。


 それが期限付きのものであれば、なおさらヒメを急かすものになる。


「あああリアンさんとの婚約を、誕生日に大勢の前で発表するのか~」


 着替え終わったヒメは、寝台にぼすんと倒れ込んでしまった。

 急に話題が変わって、三男はしばし無言になる。


「……え~、でもでも、エメロ国が大国から敵視されたらどうするんだろ」


「それは王子がなんとかする仕事だよ。雇われの俺らが、首を突っ込んでいい領域じゃない。ヒメさんは任務を終わらせて、ついでに誕生日を適当に済ませたら、即刻俺らと竜の巣に帰る。それ以上のことやるのは、別料金がかかるよ」


「え!? お金かかるの!?」


 寝台にうずもれていたヒメがガバッと顔を上げた。


 当然とばかりに三男が腕を組んで、窓際の壁にもたれている。


「俺たちは雇われの身なんだよ? ヒメさんがこうして任務外で滞在が伸ばせてるのも、リアン王子が払ってくれてるから。まあ俺も、ついさっき王子から聴いたんだけどさ。王子は、マリーベル姫とエメロ王に、楽しい誕生日を過ごしてほしいみたい」


「そんな……なんてことなの、私は偽物のお姉さんなのに。本物のマリーベル姫を、今ここに連れて来ることってできないかな! 何日かければできそう!?」


 今度は三男がびっくりする番だった。そういえば、そういう設定でヒメをだましていたことを思い出して、なんと言えばヒメがあきらめてくれるかと大焦りで思案する。


「……ほ、本物の、お姫様はな……」


「うん」


 三男の金色の眼球が、部屋の端っこまで泳いでゆく。


「……お、親父に、逆らって、食い殺されたんだ……バリバリと」


「……」


 ヒメはまたも寝台に突っ伏した。万策つきて、すがるわらの一本からも裏切られた気持ちだった。


「何やってるのー! うちの王様はあああ!」


 思わず大声で、足もばたばたさせる。


「親父を責めたら、ヒメさんも喰われちまうよ」


「大事な人質を、殺しちゃってただなんて~……口が裂けてもエメロ王とリアンさんには言えないよぉ……」


 足をばたつかせていたヒメは、やがて動かなくなってしまった。今更ながら、自分が所属する群れのあまりの非道っぷりに、何も言葉が出なくなってしまう。悪党の集団だとは知っていたけれど、とっくに人質がいない状態で、なおも金銭の要求にこの自分を派遣させたという我が王の冷酷さに、悪寒も嫌悪感も吐き気も襲ってきて、もはや風邪の症状と変わらなくなっていた。


 つばを飲み込むのも、吐き気で苦労する。


「ヒメさん、大丈夫?」


「もう寝る……」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


 三男は全てを察して、「ごめん、でも伝えたことは後悔してないよ」とだけ言い残して、ベランダから外へと消えた。


「うう……」


 何も考えられなくなったヒメは、掛け布団もかけずに、突っ伏した姿勢のまま、気絶してしまったのだった。



 真っ暗な部屋で、黄金色の月だけがヒメの背中を照らしている。本物のマリーベル姫が、どのような運命をたどってゆくのか、そのわずかな希望への道筋を、ぼんやりと見守るかのように。


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