第70話   マデリンとフローリアン王子

 リアン王子の執務室は、マデリンが目を離すとすぐに、書類の束が雪崩なだれを起こす。


「あれ? あの書類、どこだろう……困ったな、読み返したいのに」


 四人掛けテーブルよりもまだ大きな机の上は、ひじが当たって倒してしまった書類たちで埋め尽くされている。

 リアン王子ががさがさと漁るので、よけいに混じってしまう。


「またですの? 終わった順に積み重ねるのはおよしなさいって、いつも言ってるでしょ」


 マデリンは彼のためにお茶を淹れながら、その見慣れた散らかりぶりに慌てる様子もなく、だいたいの書類の位置を目視してため息をついた。


「大事なのは分類の順ですわ。わたくしが作った書類箱は、いつになったらお使いになるのかしら」


 リアン王子の右側の壁には、色と緊急順で仕分けができる、木の棚と引き出しが設置されていたが、リアン王子は一度も使用していなかった。彼は昔から、集中すると何も目に入らなくなってしまう性格であり、それがいつまでも仕事に支障をきたしている。


 こうして三時間おきにマデリンそのものがやって来ては、書類のまとめ役を買って出ているのだった。お茶とお菓子の載ったワゴン付きで。


「休憩しましょう、王子。片付けは、こちらでやっておきますから」


「きみだけ動いているのに、僕だけお茶の時間なんて気まずいよ」


「何を今更。今朝からずっと張りつめておいででしょう? わかっておりますわ」


 彼女はさっそく、絨毯にまで散乱している書類たちを拾い始めた。リアン王子に、「お茶はご自分で楽しんでね」の一言付きで。


 お言葉に甘えて、リアン王子は小ぶりな机へと、移動していった。物を欲しがらないが片付けられない王子のために、書類仕事から隔離されたお茶の時間専用の机を、マデリンが用意したのだ。これでどんなに部屋が散らかっていても、この机の上さえ無事ならば、いつでも休憩が取れる。


「わたくしも、おサボりメイドたちにお小言ばかりまき散らす仕事にはうんざりしておりましたの。書類はしゃべりませんから、気が楽ですわ」


「すまない、マデリン」


「ええ、本当に迷惑しておりましてよ。早くエメロ十四世に、おなりになってくださいませね。そうすれば城内も、このエメロ国も、落ち着きを取り戻すでしょう。それまで辛抱して差し上げますわ」


 優しくもトゲトゲしい激励は、いつものことだった。


 伯爵令嬢という高貴な身分の女性が、皆と変わらぬ給仕服をまとって、こんなところで書類相手に腰をかがめている事態は、前代未聞ぜんだいみもんだった。

 麗しいドレスに身を包んで、お茶を傾けながら社交界に身を投じる、マデリンならばきっと誰よりも輝いて、社交界の顔にもなれよう。


 そんな原石のような娘が今も、たった一人の王子と国のために、毎日家事と揉めごとの火消しに、追われている。


『わたくしがヴァルキリーとなったあかつきには、メイド長の任を譲りなさい!』


 それは王子が五歳のとき、前メイド長に理不尽な暴力を受けていた頃のこと。

 皆の前で、前メイド長におもちゃの剣を突き付けた、八歳の女の子。そして彼女が十五歳の頃に、本当にヴァルキリーとなって、王子のもとへ舞い戻ってきた。しかも初大会の優勝者だ。


 女性だけの剣士を育てる施設を建設するには、伯爵家の家柄のコネも使っただろう。エメロ国は一般的に女性の権限が弱いから。


 マデリンも本物の剣を握ったのは、おそらく初めてだったろう。エメロ国は女性が武器を持つことに批判的であるから。


 それでも、彼女は変えた。そして勝ってしまった。


 多くの批判と称賛の渦中にありながら、今も尚こうして静かに、書類を拾っている。ものすごい女性がそばにいるものだと、王子はときおり、彼女を縛り付けてしまっていることに強い罪悪感を抱いてしまう。


 こんな所にいなかったら、どこまでも飛べる女傑じょけつだったはず。それを応援できる立場にいないことが、ときおりすごく自分を責めた。


「マデリン」


「なんですの?」


 種類別つ、緊急順に書類を束にして、机に丁寧に置いてゆくマデリンが、金色の長い髪を揺らして振り向いたが、またすぐに残りの書類の片づけに戻ってしまう。


 リアンは自分で二杯目のお茶を注いでいた。


「何か他に、やりたいことがあるんじゃないのか?」


「あら、このクソ忙しいときに趣味に興じろとおっしゃりたいの? おサボりメイドの仲間入りができるほど、気楽な立場ではありませんわ」


「現状は抜きにして、だよ。きみの夢って、なんなの?」


「夢ぇ? そうですわねぇ~」


 少し手を止めて、本気で悩みだす彼女の後ろ姿は本当に小柄で、動かずにいたら大きな人形のように見えた。そんな彼女が、満面の笑みで、王子に振り返る。


「マリーベルを大会で倒すことですわ。先ほど、ジョージが彼女のお手紙を届けてくれましたの。もう一度、剣技でわたくしと腕を競い合いたいと、つづられておりましたわ」


「姉上も元気だね……街でいろいろあったって聞いたけど、竜の巣で受けた教育のせいか、きもが据わってるよね」


「貴方が影武者と見抜けなければ、まんまとマリーベルにしてやられておりましたわよ。ほんっとに、なーんて憎たらしいんでしょ」


 でも、そこまで怒っている声ではなかった。今日のマデリンは上機嫌だ。


「お手紙には、大会の決まりに則した範囲で戦う、なんて書いてありましたけど……彼女の戦い方を見て、わたくしも少し考えが変わりましたの。獣のような不格好な構えでも、石だのナイフだの飛び道具を使っても、それは卑怯なことではありませんわ。敵はわたくしたちの流派や信念なんて、知ったこっちゃないんですもの。もっと実用性に富んだ訓練を考えるならば、めちゃくちゃな戦い方をする相手にも、確実に勝利する方法を編み出さなければね」


「……そうなんだ。あいかわらず向上心の塊だね」


「もちろんですわ。わたくし負けず嫌いですの」


 性格もそうだが、彼女は仕事もきっちり終わらせる主義であった。机の上は、肘が当たっても倒れない高さに整頓された書類がきっちり並び、書き損じてくしゃくしゃに丸めていた書類も全てゴミ箱に入っている。倒れたままだったペン立ても直され、おかしな距離まで移動していた羽ペンも、王子の利き手側のちょうど手に取りやすい位置に再配置されていた。


「彼女には今まで通りに戦ってもらいたいですわね。それでわたくしが勝利しますの。竜の巣の民を倒せる機会なんて、なかなかありませんものね」


「ほどほどにね」


 マデリンはどこにいたって、どんな境遇だって、次々に目標を見つけては、輝いていこうとする女性なのだった。

 それに、彼女のお転婆っぷりに匹敵する友達も、できたみたいで、王子は少し寂しかったが、安心した。


(しかし、僕がこれから選ぼうとしている未来は……本当に、正しいのだろうか)


 姉もマデリンも、縛り付けてしまう未来を選んでしまう。……そんな自分を、王子自身は許せなかった。


 それでもエメロ国を想うのならば、選ばなければいけない未来。いつか、隠していた全てが、おおやけになってしまうのならば、そうなる前に、選ばなければならない未来。


 ……思い詰めるあまりに、ここ最近は体調を崩していた。


 そして、そのことに気づかないマデリンではなかった。


「本当はまだ、お悩みなのでしょう?」


「なんのことだい?」


「とぼけるのが下手ですわね。マリーベル姫の誕生日に、自らの正体を国民にさらすなんて、わたくしは今でも反対ですわ。そんな事をなさらなくても、貴方なら充分エメロ十四世になれますのに」


「すまない、マデリン。これは僕がずっと前から決めていた事なんだ。きっと人生で最大の、つらい事件になると思う。でもこのままじゃいつか、気づかれてしまうから……早めに、自分から、ごまかしてばかりいる自分と決別したいんだ」


「わたくしは、仕えている主人がいばらの道を歩こうとするのは賛成できませんわ。今だって、お具合がよろしくないのに」


「胃薬でも飲んで、おとなしく仕事しとくさ」


 エメロ城が二分割状態にあるのは、ある意味この王子が原因だった。


 王子を愛する者や、王子を蹴落としたい者、その双方から反対される道を、彼はエメロ国のために、選ぼうとしていた。


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