第5章 竜殺しの騎士団
第41話 おはよう、マリーベル
ふわぁっとした感覚だった。頭がふわふわ、体もふわふわ、ヒメは一人で、雲のような場所に突っ立っていた。
そこへ、王妃のイブニングドレスを着た元気いっぱいの少女が、走ってくる。ヒメとよく似た、しかし長い髪だけが違う、そんな少女が、ヒメの両手をがしっと握って、ぶんぶんと上下に振った。
「はじめましてエメローディア! あたしはマリーベル! 正真正銘の、本物のマリーベル姫よ!」
ヒメはぼんやりする頭で、彼女の鏡のような
「あなたが……? ほんとに、私によく似てるね」
「今までよく耐えてくれたわね! 今日からあたしがお城に戻るから、あなたはおうちに帰って!」
ぼーっとしていたヒメは、冷水を浴びたごとくその言葉のみに反応し、じぃんと鼻が熱くなった。もう帰っていいだなんて。ずっとずっと、言われたい言葉だった。
「よかった……これで私、あなたになりすまして行動しなくても済むんだね」
全てから解放された気がした。嬉しくて、ヒメは思わず両腕でマリーベル姫を抱きしめた。
しかし、ものすごい勢いで突き飛ばされた。マリーベル姫は笑みを浮かべていたが、なんだか意地悪げな雰囲気がただよう。
「もう
「え……?」
戸惑うヒメの背後から、ガビィがすたすたと歩いてきた。
「ここにいたのか、マリーベル。
ヒメを追い抜いて、マリーベルに話しかける、背の高い彼。背を向けられているヒメには、彼がどんな表情をしているかわからない。
そんな彼に、マリーベルがひしっと抱き着く。そして彼の腕の中からひょいと頭だけ出して、あっかんべーしてみせた。
「そういうわけだから、用無しはとっとと帰って。目障りよ」
「ちょ、ちょっと! ひどいよ! あなたがお城に帰らなかった分、私すっごく混乱して、それでも、必死でがんばったんだから!」
「へー、えらいえらーい。帰って王様に頭ナデナデしてもらいなさいな。あたしはガビィと結婚して、竜の巣とエメロ国の発展に
「え、ガビィさん、結婚ってどういうこと? そんなの、私、聞いてないよ」
伸ばそうとした手は、やたらもたついて遅くて、掴んだそれは、彼の衣服ではなくて――竜の巣のヒメの部屋に飾ってある、手織りのタペストリーだった。
赤毛の青年と、金色の髪のお姫様が見つめ合う模様が、描かれている。こんなもの、ヒメは作った覚えがない。
「いや……嫌ぁ! 待って! ガビィさん、行かないで!!」
ヒメはタペストリーを引っぱった、そのとたん、何もかもが引っ張られて、しわくちゃに崩れていった。自分の部屋が、竜の巣が、この世界が、崩壊する。
「私、このままじゃ帰れない!! お願いガビィさん、置いてかないで!!」
「置いてくわけないだろ!?」
ぎゅっと片手を握られて、ハッと目を見開いたヒメは寝台から飛び起きた。
「びっくりしたー……大丈夫かよ、ヒメさん、めっちゃうなされてたけど」
「は……ぁ……夢……?」
全身、汗でびっしょりだった。息も荒くて、自分が相当に苦しんでいた痕跡がうかがえる。
握っていた手をそっと
「ヒメさん、昨日はいろいろありすぎて、疲れたよな。……もう帰るか?」
帰りたい、と以前のヒメならば弱音を吐いただろう。けれど今は、入れ替わりに本物のマリーベル姫がやってきて、彼女のほうがみんなの役に立っていて、ガビィからも好感を持たれてゆく一連の流れが、走馬灯のように脳裏に浮かんで、胸をしめつけるのだ。
「私、まだ……帰らない……」
ヒメは枕を抱きしめて、一言一言、噛みしめるように発言した。
(ここに……心が縛り付けられちゃったみたいで、苦しい……)
本心と意地が、ぶつかり合う。
(苦しいのに、逃げたいのに……帰れない……!)
ヒメは枕をぽいっと
「本物のマリーベル姫は、まだエメロ城に帰ってきてない?」
「え? あ、あーうん帰ってないよ」
「そう、じゃあ、まだ私がお姫様でいられるんだね。メイドさんを呼んでくる。貴族は着替えも一人でできないみたいだし、それっぽく私も振る舞うよ」
ヒメは三男が握ってくれていた片手を見下ろして、ぎゅっと握った。まだ体に震えが残っているし、本音を言えばエメロ城は得体が知れなくて怖い。でも、
(おはよう、マリーベル。今日も一日、あなたに成りすますからね)
自分がどうしようもなく不安になったとき、手を握って、励ましてくれる人がいる。
「起こしてくれて、ありがとう、三男さん」
「あれあれー? 勝手に部屋に入るなって、言わないんだ」
「ふふ。ここ私の部屋じゃないし」
苦笑して肩をすくめるヒメが、三男の目にはヒメらしくないように映った。
(なーんか思い詰めてるな。でも、俺じゃヒメさんの考えてること、わっかんねーや)
おそらくは誰もヒメの心情を理解できる者はいない。ヒメ一人で闘わせているみたいで、三男は短くため息をついた。
「ねえヒメさん、少しでいいから、俺といようよ」
「え?」
「ほら、ここじゃヒメさんと二人っきりで話す機会、ほとんど無いだろ? どこも必ずエメロ人の使用人が立ってるからさ」
「そう言えば、そうだね。今この部屋には誰もいないけど」
「ヒメさんが眠ったのを確認してから、メイドが部屋から出ていったんだ。眠るときぐらい、一人にしてあげたいってさ」
ヒメの投げた枕が、寝台の真ん中あたりに転がっている。そこに三男が仰向けに倒れて、枕に頭をつけた。
「寝ちゃうのー? 三男さん」
「ヒメさんさ、昨日、王子と厨房に入っただろ。仲間から聞いた。厨房で毒が盛られないか、心配してたらしいな」
「あ、うん。知らない場所で知らない人が作る食べ物だから、ちょっと不安で」
「厨房にも竜の巣の仲間が変装して混じってるから、警戒しなくても大丈夫だぞ」
「そうなの!? よかったぁ、これで朝ごはんも厨房に入らなくて済むよ」
ヒメは安心し、天蓋付きベッドの天蓋を見上げた。天蓋の裏にも、気分の安らぐ花畑が描かれている。
同じ景色を、仰向けで寝転んでいる三男も眺めていた。
「なーんかさぁ、俺も疲れちゃったやー。ここは俺らとは、違い過ぎるっていうか、今まであんまり気にしないように過ごしてきたけど、いざまじまじと観察しちゃうとさー……ヘンなのは俺らのほうなのかなーって思っちゃってさ」
三男は、ヒメが侍女たちとお風呂に入ったと、人づてに聞いていた。べつに、その湯浴みはのぞかなかったけど、
(鱗の生えてない女どもは、さぞ肌が綺麗だったろうな)
この黒い覆いを取った瞬間――自分の素顔を一度も見たことがないヒメが、どんな顔で、どんな言葉で、言い訳をするのかと、金色の目を伏せた。
「ここにいると、
「考えすぎだよ、三男さん。誰も私たちを、ヘンな生き物だなんて言ったりしてないよ」
「……どっかで言ってるよ、きっと」
どうしたのだろうか。
三男が卑屈になって、ひどく落ち込んでいる。
いつもは元気で自由
「そうだ三男さん、リアンさんが、じゃなかったフローリアン王子がね、三男さんのことたくさん聞いてきたよ。あなたに会いたいってさ」
「え? な、なんでだよ、俺は用事ねーから会わねーよ」
寝転がっていた三男が、腹筋と
「そんなこと言わないで、一度だけ会ってみたら?」
「今の王子には、絶対に会いたくねーよ。以前はあんなんじゃなかったもん」
「以前? 三男さんは、フローリアン王子と何度か会ったことがあるんだね?」
三男の無言が、あ……という心の声を具現化していた。
「どうしたら会ってもらえる? 王子様の以前って、どんな感じだったの?」
「は、早く着替えろよ! 俺は部屋の外の、どっかその辺に隠れてるから」
三男は脱兎の勢いで走って壁を駆け上がると、寝台の天蓋に隠れていた天井板の、わずかにずれてできた穴のふちへ、片手の指を掛けた。そしてもう片方の手で板を大きくずらして、そのままひゅるりと、中に入っていってしまった。
ヒメがいくら呼んでも、そこにいないのか返事はなかった。
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