ドリップバッグのコーヒー

「~♪」


 会社に向かう足取りがいつもより数段軽い朝。

 満員電車は鬼のような混雑で、混雑による遅延も地味に重なって、ちょっとだけ始業時間の9時には間に合わなさそうだけれど。

 フレックスタイム制なので遅刻が付かないのが救いだ。


 鞄から社員証を取り出して、カードリーダーにタッチ。

 ドアを開けて自分の部署がある方へ方向転換、そして部署に入るや私はルンルン気分のままに声を上げた。


「おっはようございまーす」

「おはようございまーす」


 既に出勤していた同僚の浪川なみかわさんが、パソコンのキーボードを叩きながら私に顔を向けた。

 昨今、社内で挨拶が行われていないなどと嘆かれ、弊社でも毎年のように「顔を合わせたら挨拶をしましょう」という、小学校か!と突っ込まれるような訓示が出てくるのだが、我が情報システム部はどこ吹く風だ。

 なにせ、出勤時も退勤時も誰もが自然に挨拶をしていくし、ともすれば勤務時間中に雑談に興じることもあるくらい。訓示なんてされなくてもとっくに出来ている。


 ともあれ、出勤した私。コートをハンガーにかけて席に着くと、持参したお茶の水筒と、もう一つ。100均で買った膨らみのある巾着袋を鞄から取り出した。

 その巾着袋を見ると、自然と口角が上がる。行動が不審者じみているが、楽しみなのだからしょうがない。

 そんな私の様子を見やって、浪川さんが声をかけてきた。


「ご機嫌だね、秋島さん」

「あっ、顔に出てました?えへへ」


 照れ笑いをする私に、浪川さんが肩をすくめて答える。まぁ、そうなりますよね。

 私は巾着袋を勢いよく開くと、中に入れてきたそれ・・を一つ、大仰に取り出してみせた。


「じゃーん」

「あっ、何それ……コーヒー?」


 私が取り出したものを見て、浪川さんは小さく目を見開いた。

 私が手に持っているのは、個包装にパッケージングされたコーヒーのドリップバッグだ。不織布製のバッグの中に、だいたい7g~10gの挽かれたコーヒー豆の粉が入っている。

 お湯を注ぐだけで簡単にコーヒーを淹れられるという、便利な代物だ。

 とは言ったものの、ドリップバッグ自体は別段珍しいものでもない。大手のコーヒーメーカーでも取り扱いのあるものだから、スーパーなどでもよく見かけるはずだ。


 しかし私が持って来たものは、ただの・・・ドリップバッグじゃなかったりするのである。


「そうです、コーヒーのドリップバッグです。

 楽○に出店しているコーヒー専門店が出してる詰め合わせ品を買ったので、会社で飲めるように持って来たんですよー。いろんな種類があって楽しいんです」

「へぇ……秋島さん、よくそういうの見つけてくるね」

「ふふーん、褒めてもあげませんよー、高かったんですから」

「褒めてないしいらないし。俺、コーヒー飲めないもん」


 なんともお気楽なやり取りだが、この気楽さがうちの部署のいいところだったりもする。


 そう、私が先程手にしたドリップバッグはスーパーで売られている手に入りやすいものではない。

 ネット通販に展開している某コーヒー専門店が売り出している、普通のブレンドコーヒー以外にも多彩な品種・地域の豆の味を楽しめる、詰め合わせ品なのだ。

 浪川さんには「高い」といったが、それは100杯分をまとめて購入したから。1杯あたりの値段はそれほどでもない。

 アウトレット品なのでパッキング不良のあるものも混ざっているが、これは秘密だ。


 さて、出したからには飲まないと始まらない。

 私は部署に置かれた電気ケトルに水を入れてスイッチオン。そこから自席に戻ってドリップバッグの個包装を開ける。

 二度三度振って粉を下に集めて、上端を切り取りマグカップにセット。というところで丁度、電気ケトルのスイッチが切れた。

 中でぐつぐつ言う音も聞こえる。温度はOKだ。


 私は自席までケトルを持っていくと、まずは少量のお湯をドリップバッグ内のコーヒーにかける。こうして豆を蒸らすことで、香り高く味わい深いコーヒーが淹れられる。

 ドリップバッグの個包装にも必ず書かれる、定番の手順だ。

 30秒ほど蒸らしてから、ドリップバッグを満たしていくようにお湯を数回に分けて注ぎ入れる。

 ドリッパーをセットして漏斗型のフィルターを使う場合は、「円を描きつつフィルターにお湯がかからないように」とよく言われるが、ドリップバッグの場合は寸胴型なので、円を描くのは難しい。

 それにまっすぐストンと落ちる形なので、フィルターをお湯が素通りするリスクはそんなに大きくない。

 だから大概の場合、バッグの縁辺りまでお湯を注いで、中のお湯が抜けきったら次を注ぐ、という注ぎ方をしている私だった。これが正しいかは知らない。


 ともあれ、ケトルの中のお湯が全てなくなり、代わりにマグカップの中に深い色味のコーヒーが出来上がる。

 ドリップバッグからも香ばしくてほんのりと甘い、いい香りがしている。捨てるのが勿体なくなるが、取って置いてもしょうがないのは事実だ。

 私はドリップバッグをゴミ箱に捨てて、電気ケトルを元の場所に戻すと、自席に座ってマグカップを両手で包んだ。


「はー……」


 じんわりと温かいマグカップから立ち上る湯気と、それに伴って漂うブレンドコーヒーの複雑で綺麗にまとまった、品のいい香り。

 この瞬間が私は大好きだ。

 家で飲んでもよいのだけれど、家だとどうしてもバタバタしてしまうからゆっくりとこの香りを味わえない。

 ならば会社でゆったり飲んでやろう、という魂胆なのである。


 うっすらと目を細めて、マグカップに口を付け、コーヒーを唇に触れさせる。

 淹れたては勿論、熱い。だから少しずつ、香りを味わいながら口に含んでいくのだ。

 苦味と、酸味と、渋味が熱さを伴って私の口の中に広がっていく。

 口の中で転がして、香りを口腔から鼻まで送って、じっくりと堪能した私は、ようやくコーヒーをごくりと飲み込んだ。


「はー……おいし」

「秋島さんって、ほんと美味しそうにコーヒー飲むよねぇ」

「えへへへ。だって美味しいものは美味しく飲んだり食べたりしないと損じゃないですか」

「まぁ、そうだねー」


 にこりと笑う私を見て、浪川さんも口元をくいっと持ち上げた。

 実際、そうだと思う。不味いものを美味しそうに食べたり飲んだりすることは素晴らしい才能だが、美味しいものを不味そうに食べたり飲んだりすることは作り手への侮辱だと、私は思うのだ。

 美味しいものは美味しくいただく。大事なことだと思う。


 そうして朝の最初のコーヒーを堪能しきった私は、飲み終わって空になったマグカップをテーブルの横に置いて腕を伸ばした。


「よっし、やりますか!」


 キーボードを叩く音が部署内のフロアに響き始める。今日も一日、私は頑張れそうだ。

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