鳥の夢

谷口 由紀

第1話 夢のはじまり

 はじまりの時、わたしたちは言葉を持たなかった。

 木々の枝をすみかとし、大地の恵みをついばんで暮らす、〝鳥〟たる一種族の裔すえとして、言葉なき意識を、ひろく地表に行き渡らせていた。



+ + +



 地を馳せるものたちのうちに、〝猿〟たる一種族の裔がいた。

 空から見下ろせば、いかにもかれらは動きはにぶい。

 それもそのはずだ。より強く大地を蹴たてるための「脚」を捨てて、かれらはこまやかに動く「手」を手に入れた。

 いまはまだ、その繊細な指先はさしたる用をなさない。

 樹の枝をつかみ、落果をひろい、群れの仲間の背をなでさする。そのくらいだ。


 だが、それはひとつの賭けだった。

 他のすばしこいけものたちに優越するなにかを、その「手」に掴むための。



+ + +



「道具と、言葉。どちらが『文明の象徴』としてふさわしいと思う?」


 そう訊いてきたのは、地上人のルサルカだった。

 その問いに、鳥人のぼくは即答はできなかった。道具をつかう生き物は、地上人と鳥人だけではない。野生動物にも、道具を駆使して狩りをおこなう種だっている。言葉を『意味ある発音』ととらえるのならば、ほとんどすべての生き物の発声には、それなりの意味がある。


 だから、ぼくはこう答えた。


「どちらも、それだけでは『文明の象徴』には、なりえないんだと思うよ。……文明とは、いわば、過去情報の蓄積。だから、『過去』というものを意識したときに、ぼくたちは文明を得たんじゃないかな」


 苦しまぎれの答えだけど、なんとか格好はついただろうか。ルサルカは議論めいた言葉遊びが好きなようだ。ぼくは、そうではない。文字よりも、空を見ていたい。


「文明とは、過去情報の蓄積……ね。時の流れがあるかぎり、すべての事物には過去があるけれど、それを意識し、記述することができるのは、この世界においては、私たち地上人と、あなたたち鳥人だけ。二種族による記述しか、この世界に存在しないというのは、とても寂しいことよね、リドリィ?」


 彼女はぼくの名前を呼ぶ。ぼくは、そうだね、と答えた。


 地上人と、鳥人。この地球上において、この二種族だけが、道具をつかい、言葉をもち、歴史をつづる。おなじ言葉でやりとりをできる異種族が、おなじ時、ひとところに存在するということは、きっと、奇跡的なことなのだ。地上人、鳥人のどちらかだけがこの世界に在り、歴史をつづっていたのだとしたら、きっと寂しかったにちがいない。


 ぼくは、窓辺から立ちあがった。ぼくの背丈は五十センチぐらいだから、立ったところで、ルサルカの胸のあたりに届くかどうかといったところ。だから、彼女の言葉は、まるで神様のお告げのように、いつも上から降りてくる。

 だけど、今日のルサルカは、ちょっと様子が変だった。彼女は近くにあった椅子をひっぱってきて、それに腰掛けた。すると、ぼくと彼女の視線が、おなじくらいの高さになる。


「……でも、歴史は『自然につづられるもの』ではないみたいね。いまこの時にあっては。一本だけのペンを奪い合っての戦いに、すくなくとも私たち地上人は、魅入られている」


 ――がらがらの教室。外に見える街並みはもう、夕暮れに染まっている。


 一九四二年、春。ルサルカの言うとおり、ぼくたちの世界は、大きな戦いに包まれつつあった。

 窓からは見えない、はるか西方の「新帝国」が、ぼくらの国である「大祖国」への進撃をはじめたのは、去年の夏ごろだ。



 ……いや、「ぼくらの国」という表現は、あまり適切ではない。ここは、あくまで地上人たちが拓ひらき、興した国だ。ぼくたち鳥人という種は、この国の客人にすぎなかった。

 元来、ぼくらの祖先は各地を渡りながら、独自の文化をはぐくんでいた。だけど、地上をわかつ国境というものが、おおきな意味をなすようになってきたころから、ぼくたち鳥人もまた、移ること、住まうことの自由を手放さざるをえなくなった。


 逃げ場のないこの国のなかで、「新帝国」の来襲をつげる報せばかりが、せわしなくあちこちと行き来している。それにともなって、他国との往来にもきびしい制限が課せられるようになった。


「――地上人がはじめた戦いなのだから、あなたたちが国外に出ることを禁じるのは、おかしいと思うわ」と、ルサルカ。


「どんな経緯であれ、もう、ぼくたちも『大祖国』の一員さ。だから、飛んで逃げたりはしないよ」


 そう言って、ぼくは両肩の翼をぱさぱさと震わせた。この翼は、飾りではない。ぼくたちの身体は、今もなお、空を行くための力を備えている。しかし、それが何ほどの意味を持つのだろう。地上人は、すでに鉄の翼を手にしている。高度七千メートルを、時速六百キロメートルで飛翔する戦闘機が、戦場の空を駆け巡っている。



「……明日の列車で、私は首都の狙撃科学校に向かうことになったわ」


「ルサルカは、射撃、上手かったからね」



 大祖国首都。ぼくたちの住む「国父州都市区」から、南東に四百キロほどの距離を隔てている。そこには中央政治委員会があり、その下部組織である国防局が、この国の戦争指導を行っていた。


 ルサルカの通うことになる狙撃科学校は、優秀な兵士を数多く輩出しているところだと聞いたことがある。おそらくは、とても厳しいところだと思うけど、そこはきっと、ルサルカに生き残るすべを教えてくれるところだろう。そう信じたい。


「……ぼくは斥候科だよ。行き先は、神学者州の歩兵駐屯地にある練兵場だってさ」


 そう言って、ぼくは鞄から召集令状を出してみせた。行き先は、首都からさらに八百キロも南東に進んだ先にある、神学者州。新帝国との戦地にもっとも近い都市区だ。

 その粗末な紙切れを見て、ルサルカは小さく頷いた。彼女のような正式な市民とは違い、ぼくら鳥人は、あくまで留保付きの市民にすぎない。令状にはこまごまと文章が連ねてあるけれど、ようするに「市民権が欲しくば、血を流せ」ということだ。国の一員となるためには、少なくともひとたびは矢面に立たなければならない。


(そして、市民権を得るということは、世界を旅して回るのが難しくなる、ということだ。自分から檻に入るなんて、ぼくの祖先たちが見たら、きっと笑うか、蔑むことだろう)


 ぼくは、召集令状をたたんで、鞄にしまった。ルサルカの顔が曇るから、もうこの話題には触れたくなかった。優しいルサルカ。異種族であるぼくにも、屈託のない笑顔を向けてくれる。


「これで、しばらくお別れになるね」


「そうね」と、ルサルカ。「私が頑張れば、その名誉で家族も救われる。……この国は、そういう国だから。でも、リドリィ。かならず元気で帰ってきてね。約束よ」


「うん。赴任先でも、いろいろな話を聞き集めておくよ」


 鳥人たちの、そして地上人たちの冗談や小話を集めるのが、ぼくの趣味だ。そして、そうやって集めた物語を分類・整理して、誰にでも手に取れるようなかたちで残したいと思う。「冗談を集める」というと、変わり者に思われるかもしれないが、ぼくは、笑いをもたらす物語が大好きだ。そして、地上人と鳥人のどちらもが笑える話をまとめてみたい。それはきっと、誰かの慰めになるだろうから。


 ――そして、ぼくたちは学窓を離れる。

 夕暮れに染まった教室。時の止まった学び舎。

 ここの時計が動き始めるのは、きっと戦争をやめることができた時、だろう。

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