第39話 個人を捨てた先の自由

〈登場人物〉

アイチ……高校2年生の女の子。

クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。

個人主義者……個人の価値を重視する立場を取る人。



個人主義者「現在、既存の価値体系が崩壊の一途をたどり、世の中はますます混迷の度合いを深めています。このような時こそ、自ら考え自ら主張し、その言動の責任をしっかりと負うという、個人主義が求められているのです。きみも、高校生の今のうちから、そのようにしっかりとした個を確立しておきなさい。社会に出てからすぐにはできないのだから」


アイチ「えっ、わたし?」


個人主義者「そうだよ。自分の頭を使って人生を主体的に生きていくための訓練を今のうちから積んでおくんだ。スマホばかり見ていてはいけない」


アイチ「わたし、スマホは、ほとんど使ってないけどなあ」


個人主義者「それは感心だ。スマホが便利だということは認めるが、あれを使ってばかりいるとバカになる。溢れるような情報に身を任せるばかりで、自分の頭で考えることができなくなるからね」


アイチ「あの、素朴な疑問があるんだけど、いい?」


個人主義者「もちろんいいさ。疑問を持つことが考えるというそのことなんだ。わたしに分かることなら何でも答えてあげよう」


アイチ「さっきから、『自分の頭で』考えようって言っているけど、誰だって自分の頭で考えているんじゃないの? 他人の頭でなんか考えられないんだから」


個人主義者「いやいや、わたしが言っているのはそういうことじゃないんだ。いいかい、たとえば、スマホでネットニュースを見るとするね。そのニュースを鵜呑みにしてしまって、そのニュースについてそれが本当なのかどうか、そのことについて考えないことを、自分の頭で考えないと言っているんだよ」


アイチ「でも、ニュースを鵜呑みにする場合でも、その人の頭がそうしようと考えたわけじゃないの?」


個人主義者「そんな行為は考えの名に値しないよ。受け入れるにしても、そのニュースを批判的に検証して、正しいと思い見なしたあとじゃないと」


アイチ「そういうものなんだ。ところで、ニュースを鵜呑みにしちゃいけないの?」


個人主義者「ニュースを鵜呑みにするということは、他人の意見に従って生きるということだよ。きみはそういう受動的な人生を送りたいのかい?」


アイチ「わたしは、人生って、そもそも受動的なものだと思うけど。だってさ、別に親に『生んでください』ってお願いして、自ら望んで生まれてきたわけじゃないもの」


個人主義者「やれやれ、これが今時の若者か……きみねえ、高校生くらいになったらもっと大人な考え方をしなくてはいけないよ。親に反抗的な気持ちがあるのかどうか知らないけれど、それを言っちゃあおしまいだってことが、世の中にはあるんだから」


アイチ「えっ、わたし、別に親に反抗する気持ちなんてないよ。ただ、事実、わたしは、親に生んでくださいとお願いして生んでもらったわけじゃなくて、いつの間にか生み落とされていたわけだから、人生って最初から受動的なものなんじゃないかなって、そう思っただけだけど」


個人主義者「……まあ、いい。しかしね、たとえそうだとしてもだ。そうやってともかくも生まれてきた限りは、一回だけの人生をしっかりと自分の意志でもって生きていった方がいいじゃないか。自分の意志で生きていけば、たとえ意に沿わない人生だったとしても、後悔することは無い。それが自分の決断だったからだ。そうは思わないのかな?」


アイチ「自分の意志でって言われても、わたし、他人の意志で生きたことないからなあ」


個人主義者「いや、だから……まったく分からない子だな。そりゃ人間はいつだって自分の意志で生きているかもしれないけれど、わたしが言っているのは、自分なりの人生の見方を作って、それで生きていくということなんだ。自分なりの人生の見方、言わば、自分なりの哲学だよ。他人の考えに従うのではなくね」


クマ「なかなか苦労しているみたいだね」


個人主義者「ええ、今日びの高校生はみんなこうなんですか? 人生を主体的に生きる気概というのは無いんですかね?」


クマ「さあ、ボクは、高校生は、ほとんどアイチとしか話したことはないからなあ」


個人主義者「話すというなら、あなたからも、生きていく上での個人主義の重要性を説いてあげてくださいよ。このままでは、この子は人生を空費してしまう」


クマ「キミの言う個人主義というのは、自ら考えて自ら行動し自らその行動の責任を取るという考え方のことだね」


個人主義者「そうです。そうして、主体的に人生に臨むことが、価値ある人生を送るために必要なのです」


クマ「その考え方自体は、キミ独自の発想なの?」


個人主義者「なんですって?」


クマ「いや、その個人主義という考え方自体は、キミが考え出したものなのかなって」


個人主義者「……個人主義はわたしの独創じゃありませんよ。まあ、近代ヨーロッパの産物ですかね」


クマ「だとしたら、その自分の考え出したものではない個人主義に従っているキミは、他人の意見に影響を受けているということにならないかな?」


個人主義者「何を言っているんですか。わたしは、他人の意見を全て排斥しろなんてことは言ってないですよ。さっきも言った通り、他人の意見を聞いて、それを自分の頭で批判的に検証した上で、正しいと思ったら、それを受け入れればいいんです」


クマ「キミは、個人主義について批判的に検証したのかい?」


個人主義者「もちろん、しましたよ」


クマ「そうして、正しいと思った」


個人主義者「そうです」


クマ「その正しいと思った理由は、キミ自身が考え出したの?」


個人主義者「なんですか?」


クマ「個人主義を正当だとする根拠は、キミが初めて考え出したの?」


個人主義者「そんなわけないでしょう。そもそも、個人主義という概念が生まれたときに、それを正当化する根拠だって一緒に生まれているわけですから」


クマ「だとしたら、個人主義を批判的に検証すると言っても、キミは、個人主義に関して、キミではない他人が考えた正当化の根拠をただ受け入れただけということにならないかな?」


個人主義者「いや、しかし、そんなことを言ったら、他人の意見を受け入れることが、おそろしく手間がかかることになるじゃないですか。いちいち、自分でその根拠を考えなければいけないなんて」


クマ「でも、キミは他人の意見をただ受け入れることには反対なわけだから、そこまですべきなんじゃないかな?」


個人主義者「…………」


アイチ「どうして、そんなに他人の意見か自分の意見かにこだわる必要があるの。そもそも、他人の意見と自分の意見って、そんなにはっきりとした違いがあるのかなあ。クマと話していると、クマが言っていることが、クマの意見なのか、わたしの意見なのか、よく分からなくなるときがしょっちゅうあるけど」


個人主義者「だから、それが他人の意見を無批判に受け入れているということなんだよ」


アイチ「そうかなあ。仮にそうだとしても、どうして、批判しなくちゃいけないの?」


個人主義者「それが考えるというそのことじゃないか」


アイチ「批判っていうのは、相手に間違いがないかどうか見つけようとすることでしょ?」


個人主義者「そうだよ」


アイチ「わたし、相手が間違ったことを言っているんじゃないかなんてこと考えながら、人と話すの嫌だなあ。だって、そんなの窮屈でしょ」


個人主義者「…………」


クマ「どうやらキミの個人主義はアイチには受けが悪いみたいだね」


個人主義者「自ら考え自ら行動し、人生を主体的に送ることに、なぜ魅力を感じないんだ……」


クマ「個人主義が悪いとは言わないけれど、自ら自らって、自分にこだわり過ぎる生き方っていうのは、どうも不自由じゃないかとボクは思うね。キミは、自分の生活が他人に依存していることは認めるね。自分の衣食住は他人がいないと成り立たない」


個人主義者「それは当たり前でしょう」


クマ「じゃあ、それと同じで、自分の精神的生活も、他人に依存していることを認めたっていいんじゃないかな。自分の思考は、他人がいないと成り立たないってね。そうやって、ちっぽけな自分なんていうもの捨ててしまえば、かえって、キミが言う混迷を深める世の中においても、自在に生きていけるんじゃないかな」

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