第35話 考えることは生きること
〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。
クマ「スマホで何を読んでいるの?」
アイチ「哲学の本だって、倫理の先生に勧められたの」
クマ「へえ、岡本裕一朗著『答えのない世界に立ち向かう哲学講座』(早川書房)か」
アイチ「先行配信版で、無料なんだって」
クマ「どれどれ、ボクにも読ませてよ……なになに、『哲学は、決して一部の哲学研究者や好事家のためのものではありません。むしろ、時代を切り開いていくアクティブで知的な人々にこそ、必須のアイテムといえるのではないでしょうか』か。面白いね、アイテムと来たか。哲学は、この冬のマストアイテムです。みなさん、ぜひこの冬は、コタツに入ってみかんを食べながら、時代について語り合いましょう。レッツ・エンジョイ・テツガクってなもんだね」
アイチ「読んでみたんだけど、最初からつまずいちゃって」
クマ「どんなところで?」
アイチ「初めにね、『生贄の儀式』っていう問題が出されるんだ。それは、こういう問題なの。探検隊が未開の島を探検するんだけど、その未開の島にはある部族がいて、その部族が今まさに子どもと女性を生贄の儀式に供するところを、探検隊は目撃するのね。隊長はすぐに止めようとするんだけど、同伴している人類学者が反対するの。この土地にはこの土地の文化や宗教があるから止めるのは間違いだってね。そのとき、隊員のあなたなら、隊長と人類学者のどちらに賛成するかっていうものなんだけど……」
クマ「なるほどね……アイチがどういう点でつまずいたか聞く前に、この本ではさ、どちらの意見に賛成すべきってことになってるの?」
アイチ「それは決められないんだって。人類学者の考え方は、文化相対主義(=それぞれの文化には独自の価値があって、文化相互の優劣は決められない)的な考え方なんだけど、その文化相対主義で全てがうまくいくわけではないっていうまとめなの」
クマ「それじゃあ、何を言ったことにもなっていないし、そもそも、文化相対主義で現にうまくいくかどうかっていうことと、文化相対主義を取るべきかどうかっていうこととは、別の問題なんじゃないかな。そう考えることで現にうまくいくっていうのは政治の話であって、哲学の話じゃないね。ところで、アイチは何につまずいたの?」
アイチ「わたしがつまずいたのはね、こういう問題って、今考えることができるのかなってことなの。今考えることに意味があるのかなって。だってさ、こういう状況って滅多に起こらないよね。わたしの身に起こることは多分一生無いと思う。仮に一生に一度あったとしても、そんな一生に一度あるかどうかなんていう特別な状況について、特別でも何でもない普通の今の状態で考えることなんてそもそもできるのかなあっていうことが疑問なの。仮に考えてみたとして、その考えって現にそういう状況になっても持ち続けることができるのかなって」
クマ「究極の選択的な問題には全てそういう視点が欠落しているね。究極の選択を迫られたとき、どちらを選ぶかなんていうことは、まさにその場にいなければ分からないことだ。あらかじめそれについて考えることができたら、それは究極でもなんでもなくなるからね」
アイチ「たとえば、わたしは、交通事故とか、学校のいじめとか、保険金目当ての殺人について考えることはできると思うの。それらが行われている場に立ち会ったことはないけど、身の回りに起こっていることだからね。でも、生贄の儀式って言われても、それって、そのあたりで普通に行われていることじゃないでしょ。普通に生活していたら出会わないことを、普通の生活の中で考えるっていうのは、どういうことなんだろう」
クマ「特殊なことっていうのは、一般化はできない。それがまさに特殊であるというそのことだからだ。ボクたちにとって特殊な状況である生贄の儀式なんていうものを、一般に『生贄の儀式は止めるべきか』なんていう風な問いにすることは、まあ、無理な話だね。ちょっと問題を変えてみるけど、たとえば、一人の命を犠牲にすることで百人の命を救うことができる時があったとして、そのとき、その一人の命を犠牲にすべきかなんていうのも、同じ話だな。そういう特殊な状況下では、特殊な決断が必要となるのであって、そんなことを一般化できないんだ。一般化しても意味が無いと言ってもいい。そんな状況に出くわさないんだから」
アイチ「だとしたら、こういう問題って、何を考えていることになるんだろう」
クマ「何を考えていることにもなっていないね。考えるっていうことがどういうことか分かっていない。この本では、その生贄の問題に関してグループでディスカッションしたって書いてあるけど、一人くらい、『でも、こんなことってわたしの人生の中で絶対に起こらないから、考えたって意味ないんじゃないですか』っていう普通の感性の人がいてもいいと思うけど、まあ、いなかったんだろうな」
アイチ「わたし、いつも疑問に思うんだけど、考えるために、こういう本を読んで、哲学を勉強する必要ってあるのかなあ」
クマ「そんな必要は特に無いよ。考えるってことは、常に、自分について考えるってことであって、その自分は今ここにちゃんと存在しているわけだからね。そんな『生贄の儀式』なんていう自分の身に一生起こらないような問題をよそから引っ張ってきて悩むなんていうのは、考えることとは全然違うことだ。考えるっていうのは、同時に、考えたそのことを生きるっていうことでもある。アイテムとして持ったり、持たなかったりできるようなものじゃないんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます