少女とクマとの哲学的対話

春日東風

第1話 主義を持たずに生きていこう

〈登場人物〉

アイチ……高校2年生の女の子。

クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。



アイチ「ああ、疲れた……」


クマ「お帰り。今日の学校はどうだった?」


アイチ「サイテーだよ。聞いてよ。隣の席にカスガっていう男子がいるんだけどさ、そいつが、この頃、テツガクにはまってるとかで、休み時間中にずっとその話してくるんだよ。今日なんか、数学の授業が自習でさ、その間も、聞きたくない話をしてくるんだよ」


クマ「へえ、哲学。なかなか面白い男の子じゃない」


アイチ「全然面白くなんかないよ。ニーチェがどうだとか、アドラーがどうだとかさ、聞いてもいないのに、話し続けてくるんだよ。うっとうしいったら」


クマ「ふうん……まあ、その二人とも、人気があるからな」


アイチ「知ってるの?」


クマ「ああ、よく知ってるよ。ニーチェは19世紀のドイツの哲学者で、アドラーは19世紀から20世紀にかけて活躍したオーストリア出身の心理学者だ」


アイチ「なんかマイブームらしくてさ、その二人のことを尊敬しててね、二人が言ったことを、暑苦しい口調で語ってくるんだよ」


クマ「なるほどね」


アイチ「二人が言った通りに、日々実践してるんだってさ。で、わたしにもそういう風にした方がいいって勧めてくるんだよ」


クマ「ニーチェとアドラーじゃあ、言っていることが全然違うと思うけどな」


アイチ「そうなの?」


クマ「そうさ。そもそもからして、アドラーはともかくとしても、ニーチェは人間が日々実践するべきことなんて教えてくれるヤツじゃないんだ」


アイチ「ふうん」


クマ「二人の思想に興味ある?」


アイチ「無いよ。なんで自分がこうして現に生きているのに、他人の、生き方についての考えなんて聞く必要があんのよ」


クマ「ああ、それは、キミの言う通りだ。真面目に自分の人生に向かっている人には、哲学も心理学も必要無い」


アイチ「じゃあ、どうして、カスガは哲学とか心理学にはまっているわけ? 真面目に生きてないの?」


クマ「そうだろうね。他人の考えによって、自分の人生をより良くしようなんていうのは、不真面目の極みだ。一体、誰の人生を生きているのかってことになる。まあ、ボクはヌイグルミだけどね」


アイチ「カスガは、自分のことをニーチェの徒、アドラーの徒って言ってたけど、『徒』って、なに?」


クマ「『徒』っていうのは、その人に付き従う者という意味で、ニーチェ主義者、アドラー主義者って言ってるのと同じことさ」


アイチ「なんでそんな主義者になっちゃうわけ?」


クマ「それが不真面目だっていうそのことさ。自分で自分の人生について考えるより、他人の考えを利用した方が楽だからだよ」


アイチ「そんなの楽したことになるのかな?」


クマ「ならないね。自分の人生に他人の考えを利用しようとするのは、自分の人生を見ないということに他ならない。そんなの楽でもなんでもない。ただ、現実を見ていないだけだからさ。いずれ、しっぺ返しを受けることになるよ」


アイチ「カスガ、かわいそう」


クマ「こればっかりはしょうがないね。言ったって聞くもんじゃないからね。一過性のものだと祈ってやるしかない。ただ、まあ、かわいそうではあるんだけど、大体にして、世の人は何かしらの主義者なんだよ。だから、そういう意味では、普通のことでもあるんだな」


アイチ「そうなの?」


クマ「そうさ、ヘーゲルっていう哲学者の教えを忠実に守っているやつもいるし、ユングっていう心理学者の教えを忠実に守っているやつもいる。引き寄せの法則に頼って行動しているやつもいるし、占いに頼るやつもいる。キリスト教を信仰しているやつもいれば、仏教を信仰しているやつもいる。自分以外のところに行動の規範を求めないやつなんて、そうはいないだろうな」


アイチ「……わたしは、別に何を信じてもいないと思うけどなあ」


クマ「アイチはそうかも知れないな。現実しか見ていないからな」


アイチ「それって現実『主義』なんじゃないの?」


クマ「一本取られたな。でも、『現実主義』ってのはさ、理想のことばかり考える『理想主義』に対するもので、理想よりも現実を重視する態度のことを指すんだ。理想と現実なんて対比をしないで、現実をしっかりと見据えることは、現実主義とは言えないな。いかなる主義でもないと言うべきだな」


アイチ「ふうん。わたし、特別なことをしている気なんかないけどなあ」


クマ「特別なことをしないで現実だけを見るっていうことは、なかなか難しいことなのさ」


アイチ「そんなもんかな」


クマ「そんなもんさ。そのカスガくんが好きなニーチェなんかは、そうやって何かにすがって生きる人間を軽蔑していたんだけどな。まあ、それはそれだけど、さっき、アイチが言った通り、自分の人生を生きるのに特に他人の考えを参照する必要なんかないな。ただ、必要は無いんだけど、面白くはあるな」


アイチ「面白い?」


クマ「他人の考えを知ることで、その他人の目から世界を見てみるのは、面白いことではあるよ。ニーチェの考え方を知ることで、ニーチェの目から世界を見ることができる。アドラーの考え方を知ることで、アドラーの目から世界を見ることができる。それはそれで興味深いことさ。ただ、それは、ニーチェやアドラーの言ったことに従うってこととは、絶対に違う」


アイチ「わたしはやっぱり他人の考え方になんて興味ないけどなあ」


クマ「まあ、これはボクの、ただの趣味みたいなもんだからさ。趣味ならいいんだけど、何度も言うけど、彼らの考えを絶対的な教えにして自分の人生を生きるのは間違っているな」


アイチ「ふうん。だったら、その教えっていうものそれ自体が間違っていることにならないかな?」


クマ「その通りだ。哲学や心理学なんてのはくだらないものだよ。真っ当な人間には必要が無いものだ」


アイチ「そうなの?」


クマ「そうさ。ただし、間違えないでくれよ、哲学はくだらないけど、哲学者はくだらなくない。心理学はくだらないけど、心理学者はくだらなくない」


アイチ「え、どういうこと? 哲学をやるのが哲学者で、心理学をやるのが心理学者じゃないの?」


クマ「違うな。哲学者や心理学者は、自分たちの目の前にある現実に、それぞれ向かい合っているだけだ。哲学をやろう、心理学をやろう、なんて思っている哲学者、心理学者なんていない。ニーチェもアドラーも、それぞれの仕方で現実に向かい合っただけさ」


アイチ「その結果、教え的なものを作り出したの?」


クマ「そうだな。彼らがそれぞれの仕方で現実に向かい合って編み出したものが確かにある。でも、それは、この現実をギリギリまで直視して、苦し紛れに産み出した仮説……あるいは、ちょっとロマンチックに言えば、希望なんだ。それはね、彼らのものなんだよ。他人が勝手に、自分の人生に利用していいもんじゃないのさ」


アイチ「うーん、でもさ、こんだけ人間がいるんだから、ニーチェとかアドラーと全く同じように考える人がいてもおかしくないよね」


クマ「確かに、それはあり得るね。その時、その人はね、ニーチェやアドラーそれ自身になるのさ。だからね、ニーチェやアドラーの教えを守っているなんて言う人間は信用に値しないけど、『おれがニーチェだ!』『わたしがアドラーよ!』って言う人間なら信用できる可能性はあるな」


アイチ「そうかな。そんな風にわざわざ言う人なんて、逆に信用できない気がするけどなあ」


クマ「はは、実はアイチの言う通りで、わざわざ言うってことは、自分ではそう思っていないってことさ。語りっていうのは騙りだからね。だから、そういうことを何も言わずにひっそりと生きている人間こそ、本当は信用に値するんだよ」


アイチ「でも、何も言われなければ、そういう人の存在が分からないと思うんだけど」


クマ「それはしようがない。『大切なものは目には見えない』からね。でも、目には見えないけど、確かに存在するんだよ。誰にもすがらずに、真面目に生きている人というのがね。そういう人の存在を感じて、ひそかな交流を果たすんだ。魂の交流。何の損得勘定もありえない友情だよ。これこそ、真の友情だと思うけどね……って、ちょっと話がずれたかな」


アイチ「まあ、カスガとは友達になりたくないかな、悪いけど」


クマ「何も悪くないさ。カスガくんもきっとそのうち目が覚めることだろう。多分ね。もしも目が覚めなければ……ふふ、まあ、眠りながら死んでいくのも、それはそれで幸せなことかもしれないからな」

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