第7話

 俺はすぐさま後を追いかけた。




『蜜柑ちゃん! どこへ行くんだ!』




 心で問いかけると、ややくぐもった声が帰ってきた。




『もう見てられないよ……。わたし、お父さんとドライブに行くの! そうすれば、きっとお父さんも元気出してくれるから!』




 蜜柑ちゃんの声だけでなく、車中に居る蜜柑ちゃんのお父さんの声も聞こえた。




「マジに運転手がいねえのか、このクルマ……。しかしどこへ向かっているのか、何が狙いなのか。そこが分からねえ」




 異常事態にも関わらず肝の据わった人だ。伊達にヤクザをやっていないということか。けれど、車内に子供向けの朗読ラジオが流れるようになってからは流石に動揺を隠せないようだった。




「これ、蜜柑が好きだった番組じゃねえか!? それにこのクルマ、よく見たら俺が普段使っているやつと寸分違わず同じだ。どうなってやがる……?」




 それ以降、お父さんは黙って身を任せるようになった。俺デコトラのみならず、このセンチュリーまでもが無人で動いていることには今も不思議がっているようだが。




 そういや、向こうの車内の言葉は俺の耳にも届くんだな。蜜柑ちゃんが、そうなるように意識を向けてくれているのかもしれない。




 俺達は街中を走り、いくつものトンネルを抜けた。古びた山道にまで来ると、車の通りが一気に途絶える。




「おいおいおい……! わき目もふらずにこの旧道を選ぶなんて……」




 俺の頭に刻まれている地理情報によると、この道路は近隣の人間くらいしか使わないらしい。近くに、もっと便利で舗装の行き届いた新道があるためだ。




「この辺りはな、死んだ女房を連れてよく走った場所なんだよ。女房はたいそう酔いやすくってな。スピードを落として走らなきゃならなかった。こんな車の通りの少ない道路、出来ることならかっ飛ばしたかったんだがな。ああ、蜜柑もそのトロいスピードが好きだったっけな……」




 長いトンネルを抜けると、青い海が一面に広がった。デコトラと化した俺にも嗅覚は残っているようで、潮の香りが鼻をついた。海に来るなんて子供の頃以来だ。マリンブルーに圧倒されてしまう。




 蜜柑ちゃんの車内から、窓を下ろす音がした。




「本当、お前は何でも知ってるんだな……。そうだよ、窓を全開に開けて海沿いを走るのがな……蜜柑は、一等好きだった……。好きだったんだよ……」




 お父さんは、もう涙声だった。




「蜜柑……。お父さんはな、お前がいてくれて幸せだった。悲しいこともあったが、楽しいことのほうが遙かに多かったよ。あの日々があったおかげで、今の俺があるんだ……」




『わたしも、お父さんがいてくれたおかげで幸せだったんだよ! 最期まで、ずっとずっと! だから死ぬなんて、言っちゃダメだよ!』




 二人の言葉は、決して行き交うことはない。人間とクルマ。生者と死者。大きな隔たりがあるのだから。




 けれどその言葉に、意味がないわけじゃない。




 誰かが言っていた。




 胸の底から湧き出た言葉をありのまま表に出すことさえ出来れば、心の泥は雪がれると。




 衷心からの言葉を紡いだお父さんは、いま。救いの陽を浴びたのかもしれない。








 ドライブコースを外れ、元いた町に戻る最中。蜜柑ちゃんのお父さんは降車を希望した。




「俺、これからも蜜柑のことを大事にして……精一杯に生きるつもりだ。だから、見ててくれよ。蜜柑」




 そのままたばこを取り出し、一服するお父さん。憑き物が落ちたかのように晴れやかな顔だった。




「目が覚めた気分だよ。そもそもあんなネットに転がってる与太話を真に受けている時点で、よほど参ってたんだろうな、俺も。さっきのは俺の心の弱さが招いた白昼夢か何かだったんだと思う」




 「そうだそうだ、そうに違えねえ」と、お父さんがうんうんうなずく。対して蜜柑ちゃんは『お父さんったら、意地っ張りなの!』と少しご機嫌斜めの様子だった。




「死ねばすべてが救われるだなんて、俺としたことが情けねえったらないぜ! 極道モンである以上、生ぬるい死出の旅へなんて行けるはずがねえだろ? 俺は俺らしく、これからも生きていかなきゃならねえ。蜜柑の所へ逝けるのは、もっと後だ。あいつの好きだったこの世界を生きて、そして死ぬまで楽しみ尽くしてやる! それが、蜜柑への手向けにもなるだろうから」




 その独白は、俺たちに向かってなのか、自身への問いかけだったのか。分からないけれど、お父さんの瞳の奥からは、決意の炎を見た気がした。




「これはきっと白昼夢、都合のいい幻だ……。けれど、挨拶くらいはしっかりしておかねえとな」




 別れ際、蜜柑ちゃんのお父さんは俺たちに向かって深く深くお辞儀をした。それも九十度腰を曲げた最敬礼。受けた恩義はきちんと返す人なんだろうが、ちょっとビビった。




「じゃあな。トンチキなクルマどもに言うのもなんだが……達者で暮らせよ」




『お父さんもね! ばいばーい!』




 こうして蜜柑ちゃんのお父さんと別れた俺たちは、適当な駐車場で停まってから話をした。




『蜜柑ちゃん。素性を明かしちゃいけないってルールがあるわけでもないんだからさ。家族水入らずで、お父さんと暮らしてもよかったんじゃないのか?』




 元々、無人トラックにある程度の理解があった人なんだ。やりようによっては、センチュリーに蜜柑ちゃんの魂が宿っていると気付いてもらえるかもしれない。




 しかし蜜柑ちゃんは『それはダメ』と、断固として断った。




『私はもう、死んじゃった人間なんだから……。これ以上お父さんを縛り付けるようなこと、したくないんだ。だから、さっきのでおしまい。お父さんにはお父さんの、わたしにはわたしの……。これからの、生き方があるんだもん』




『これから、か……』




 クルマに転生して、それからどうするか。




 まともなカタチでない以上、まともにクルマ生を全うできるとは到底思えない。悪意ある人間に素性を知られたら最後、解体されてスクラップか、それともどこかで標本扱いにでもされるのか……。




 ちゃんと考えてみると、お先が真っ暗過ぎる。誰も来ない山奥でずっと引きこもっていればいいのか? って、それだと場所が変わっただけでやってることが前世と変わらねえな……。




 気分が重くなる。改めて、あのふざけた女神を恨んだ。FXとかに失敗して自己破産しろ。




『あ、そうだ!』




 そんな俺に対し、一段と明るい声をあげた蜜柑ちゃん。




『次は、おにいちゃんの番だね!』


『何の話だ?』


『今度はお兄ちゃんのおうちへ行くの!』

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