第47話 外した鎖のその先は II


 母の口から溢れた真っ赤な血を見て、さすがにあたしも気付いた。

 母さんを、お医者さんのところへ連れて行かなきゃって。

 あたしを育てるため毎日のように働いていた母だったけれど、自分でも「まずい」と思ったのだろう。すぐに医者へ駆け込んだ。

 診てもらった結果、母は即入院することになった。

 病はもう、取り返しのつかないところまで進行していたのだ。


 その病気は、明確な治療法が確立されていなかった。

 全身の筋肉が徐々に衰え、抵抗力が低下し、だんだんと動けなくなってゆき。

 そして、体全体を刺すような痛みに四六時中襲われる。そんな、悪夢のような病気らしかった。

 この病にかかった者の末路は決まっている。

 筋肉の一つである心臓がやがて止まるか、感染症にかかり治癒できずに死ぬか。

 全身の痛みに耐えきれずに、自殺するか。


 そんなことを、母の担当医から聞かされた十歳のあたしは。

 絶望を通り越して、現実から目を背けることを選んだ。


 学校帰りに毎日入院先へ立ち寄り、その日あったことを母に話す。

 明るく、楽しげに、笑いながら。

 まるで、あの二人暮らしの小さな家の中で話しているかのように。

 毎日毎日毎日毎日。

 ただただ、話す。いつものように、話す。

 たとえ、母の返事がなくなっても。

 たとえ、母が身じろぎすら出来なくなっても。


 そうして、一年と半年が過ぎた頃。

 あたしはその日も、いつものように入院先の病院を訪ねた。

 どんよりとした雲が立ち込め、今にも雨が降りそうな天気だった。石造りの病院が殊更ことさら冷たく、薄暗い雰囲気に感じられた。

 母のいる病室のドアをくぐり、一番奥の、カーテンで仕切られたベッドへと向かう。

 カーテンを、勢いよく開けると。

 そこには、いつも通りの姿の母が、横たわっていた。

 家にいた頃と変わらない、母の姿。あたしは、ニコッと笑みを浮かべると、


「母さん、ただいま!

 今日はね、学校で絵画コンクールに出す絵を描いたの。テーマは『家族』。もちろんあたしは、母さんの絵を描いたわ。先生にも『素敵に描けているね』って褒められたんだから。

 家に帰った時に、いつも美味しい晩ご飯を作ってくれる母さんの後ろ姿を絵にしたのよ。

 あたし、料理をしている母さんの姿を見るのが大好き。ああ、家に帰ってきた、って。あたしの居場所はここなんだって。母さんの背中を見るとね、そう思えるの。だから…」


 くしゃっ、と。

 広げていた、その絵の端を握りしめて。


「……早く、うちへ帰ってきてよ。母さん」


 目の前でベッドに横たわる母に、震える声でそう言った。

 いつものように、返事はない。そう、思っていた。

 しかし。その日は、少し違った。

 母の口から、微かに動く。


『…フェ…ティー…ナ』


 久しぶりに、母に名前を呼ばれた気がした。


「なぁに?どうしたの?」

『………して』

「よく聞こえないよ。もう一度言って?なにをして欲しいの?」



 記憶の中の、十二歳のあたしがそう尋ねる。

 それを今の、十六歳のあたしが、後ろから見ている。

 だめ。それを聞いては…

 そう、止めようと手を伸ばすが。


 母は、声を振り絞るように。

 言った。



『……ころ、して…おね…がい…』



 それを聞いた瞬間。

 十二歳のあたしと、今のあたしの意識が重なる。

 目の前のベッドに横たわっているのは、あの、優しくて美しかった母…ではなく。


 毛髪は抜け落ち、歯は欠け、肌は浅黒く変色し。

 骨と皮だけに痩せこけた。

 そんな、変わり果てた姿の、母だった。


「あ…あぁ……」


 ずっと、見て見ぬフリをしていた。

 母は死なない。うちへ帰ってくる。あの頃と同じ、元気な姿で。

 そう思い込みたくて、病に蝕まれゆく母の本当の姿を、見ないようにしていた。

 それが。



『………コロシテ…』



 あの、気丈な母が、絶対に言うはずのない言葉を耳にして。

 瞳に映る光景が一気に、現実のものとして認識され。


 殺して?母さんはあたしに、母さんを殺せって言っているの?

 そんなこと、出来るわけない。いくら母さんの頼みだからって、それだけは叶えられるわけがない。

 嘘だ。母さんが、こんなこと言うわけがない。

 嘘だ。嘘だ。嘘だ!!


「ああああああああっ!!」


 あたしは逃げ出すように、その病室を後にした。

 家に帰り、誰もいない部屋で、毛布にくるまり声を殺して泣いた。

 その次の日は、母の見舞いには行けなかった。

 あれを見るのが、怖くて。

 また、あの言葉を言われることが、怖くて。

 そして。



 その晩、母は息を引き取った。

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