第46話 外した鎖のその先は I

 



 眠る意識の片隅で。

 嗚呼、これは夢だ、と。

 そう、認識しながら見る夢。

 "明晰夢めいせきむ"。


 これはまさに、そのたぐいだった。




 声が聞こえる。

 泣きながら帰ったあたしを、いつも抱きしめてくれた。

 優しくて、大好きな、あの声。


『──この世界にはたくさんの色があるけれど、

 中でも不思議な色があるの。

 一つは青。一つは緑。

 そしてもう一つは……

 フェレンティーナ。あなたの、赤い色。

 その三つが重なると、どうなると思う?

 明るく輝く、光になるの。

 隣の家のベスの眼は青いでしょう?

 向かいのキャロルは緑色ね。

 この世界にはいろんな色を持った人がいるわ。

 みんなが青でも、みんなが緑でも

 光は生まれない。


 だからね、フェレンティーナ。

 あなたの赤い色はとっても大事で、

 とってもすてきな色なのよ。

 だからもう、泣かないで──』


 泣かないで、フェレンティーナ……




 ぼんやりと光る、真っ白な世界で。

 大好きだった母の、声がする。

 もう二度と聞けない、母の声が。

 それから。


『……そう。あんたは、母さんのことが大好きだった』


 母とは別の女の声が、頭に降ってくる。


『赤い髪、赤い瞳。まるで血みたいだっていじめられる度に、母さんはあんたを優しく包み込んでくれた』


 ……そう、そうよ。それがなんだっていうの?


『……なら、何故あんたは、母さんのことを忘れようとしているの?』


 え…?


『これを見て』


 女の声が聞こえた後、急に目の前の景色が切り替わる。

 ここは……あたしの、家だ。孤児院に入る前…母が存命だった頃に住んでいた、小さな木造の家。

 その、玄関の風景。

 懐かしさと、もう戻れない寂しさに、涙が出そうになる。

 ふと、なんだか美味しそうなにおいが漂ってきた。これは…母が夕食を作っているにおいだ。学校から帰ると、いつもこんなにおいがしてきて、たまらず家に飛び込んだっけ。

 あの頃と同じように、あたしは思い切って家の扉を開け、中に入る。廊下を抜けると、小さなキッチンがあって。

 そこに、


『おかえりなさい。フェレンティーナ』


 母は、いた。

 まだ元気だった頃の姿で、こちらを振り返った。


『学校は、楽しかった?』


 母は手元に視線を戻しながら、そう尋ねてきた。スープのコトコト煮える音と、食材を刻む包丁のリズミカルな音に、えも言われぬ安心感が押し寄せてくる。

 あたしはとりあえず「うん」と答えた。それに母は、


『そう、よかったわね』


 と返してから。

 ごほっ、ごほっごほっ。

 と、発作のように激しく咳き込み始めた。

 あたしは「大丈夫?」と声をかけ、背中を丸める母の代わりに鍋の火を消した。


『ごめんね。大丈夫よ、ありがとう』


 そう言って母は、弱々しい笑顔を浮かべた。




 そうだ。思えば母は、この頃からもう既に病に侵されていたのだ。

 なのにあたしは、『大丈夫』という母の言葉を鵜呑みにして、医者へ連れて行くことをしなかった。


『それだけじゃない。まさかそんなに状態が悪いだなんて…信じたくない気持ちも、あったんでしょ?』


 再び、母とは別の声がそう言ってくる。

 …そうかもしれない。母はあたしの側にずっといてくれるって、根拠もなく信じていた。けど、子どもならみんなそうでしょ?だから、まさかあんな…


 咳と共に血を吐き出すほどに病状が悪化していただなんて、思わなかったのよ。

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