五十円玉二十枚の謎
ピクリン酸
1
「五十円玉?」
渋さんは僕の言葉を繰り返した。僕と渋さんは大学の構内を歩きながら、ちょっとした謎の話をしていた。退屈な講義の後だった。
「そうです、五十円玉を二十枚も毎週持って来るなんておかしくないですか? もうバイト先ではこの話で持ちきりなんです」
ちょっとした謎というのは、僕がバイト先の本屋で聞いた話だ。
毎週土曜日になると、レジに五十円玉を二十枚持ってきて、千円札と両替しろと言ってくる男が現れるのだそうだ。僕のバイト先では、両替だけであっても受け付けることになっているから、五十円玉を数えて二十枚あれば千円札を男に渡す。男は五十円玉を数えるのをいらいらした様子で待ち、差し出された千円札をひったくってそくささと帰るのだという。
男は、ぱっとしない顔付き体付きで、黒いスーツを着て、帽子を目深に被っていて、両替に来るだけで一度も本を買ったことはないという。
僕は土曜日にシフトが入っていないので、目撃したことはない。
「うん、確かにそいつは不自然だ。よりによって五十円玉というのは……むしろ貯まりにくい硬貨だね」
「渋さん、この謎、解けます?」
僕がなぜ渋さんにこの話をしたのかというと、渋さんはこういうことにはちょっとした機転を働かせるからだ。渋さんならもしかしたら、この謎が解けるかもしれない。
僕と渋さんは落語研究会の先輩後輩の関係である。落語研究会では、会員同士を高座名で呼び合う。僕は入会したとき、亀庵縞々という名前をもらった。渋さんの高座名は落亭渋々で、僕ら後輩は渋さんと呼ぶ。
僕らは同じ講義を受けた後(つまり渋さんは再履修しているのだ)、落研部室に向かっていた。その道中での会話である。
部室棟は大学敷地の隅に建っている。その二階、東側から二つ目の窓が落研部室である。部室へは僕も渋さんも落語の練習をしに行くわけではない。実は、我が部室は落語研究とは全く関係のない持ち込み物で溢れかえっているのだ。一応、落語研究会だから、座布団やら毛氈やら、落語のDVD、CDなど、落語グッズも保管されている。しかし、それを大きく上回る量のマンガ、ゲーム、その他の娯楽遊具が揃っていた。麻雀牌などはなぜか二セットある。僕たちはそれを目当てに部室に向かっているという訳だ。
部室棟の錆びついた古い階段を上がる。カンカンカンと軽快な音がする。二階へ上がると薄暗い廊下、この奥が落研部室だ。
「……すぶぅ……ぃ、すぉぶぃ……い」
廊下の奥から声が聞こえてくる。
「すぶ? なんでしょう、部室から聞こえてくる声ですよね?」
「ああ、会長だろう。前々から『時そば』をやってみたいって言っていたからな」
「『時そば』で、すぶすぶ言っているんですか? そんな場面ありましたっけ?」
「すぶ、じゃないよ、『そばぁーい、そばぁーい』と言っているんだ。そば屋台の掛け声さ」
「ああ、なるほど」
「あの掛け声だってかなり苦労してるんだぜ。参考にするそばの屋台なんて今時ねぇから、わらび餅だ、石焼き芋だ、と何かしらの屋台が通るたびに追っかけて行って、掛け声を聴いて真似するんだ。『いーしやーきいも』って具合にな。そんで、聞くだけじゃ悪いからって必ず買ってきやがるんだ。当人は、芋ばかり食ってるから『転失気』が上手くなった、なんて喜んでるがね」
現在の落語研究会会長、亀庵楽々はリアリティを特に追求した落語をする。『七段目』をやったときには、ほんとうに部室棟の階段の七段目から何度も落ちて、アザだらけになりながらも練習した、という伝説があるほどだ。会長は今の部員の中でも最も落語に熱心で、その分実力も伴っている。大学生活、落語一本、といったかんじだ。同学年の渋さんはというと、サークルにはたまに顔を出すだけで、真面目とはいえず、やっぱり噺もそこそこで、落語はほかにもたくさんある趣味の一つでしかないようだった。
でも僕は、真面目な会長より、ちゃらんぽらんな渋さんと行動を共にすることが多い。実を言えば僕も、落語をとことんやろうという気概はないのだ。アザを作ってまで練習する会長のことを異常だと、心の何処かで思っている。
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