Spirit Ciel

数多一人

Consecutive 1 陽炎

 僕は小さい頃から、なるべく自分だけで生きてきた。

 物心がついた頃から母親は既に亡く、仕事に忙しい父は息子の僕を親戚に預けている事も多かった。そこで虐待とかを受けていたわけではないのだけど、あまり歓迎されていなかったのは子供心に察していた。親戚の両親にも僕よりちょっとだけ年上の息子がいたけど、やっぱりどう接していいのか分からないような……悪く言えば腫れ物を観察していたような気分だったのかな、とは思う。

 ただ、父親は月に一度だけ僕と一緒に遊ぶ日を作ってくれていて、その日だけ僕は年相応の子供だった。遊園地に行ったり、博物館に行ったり、二日続けて休みが取れた日はちょっとした旅行に出掛けることもあった。父があまり得意ではない料理を振る舞った日は、二人で微妙な顔を見せ合ったのも思い出深い。僕が料理をし始めたのも、今にしてみればこの出来事があったからだと思う。

 中学校に進学してからは、既に自分一人で生活をしていたようなものだった。朝早くに起きて朝食を自分で用意して、家に帰ってきてからは洗濯物を干してから夕食を摂って…休日には掃除したりして、その合間にゲームをやったり本を読んだりしていた。

 家事全般が出来るようになったのは、やっぱり親戚の家で居心地の悪さを感じていたからだろう。それに、父親に対して金銭面以上の負担になりたくなかったというのが大きな要因でもあった。こんな生活だったからか、僕に付き合ってくれる友人はいなかった。僕自身が生きる事に必死だったからだ。遊んでいる余裕なんて、それこそ土日の昼間しかなかった。

 高校に進学をすると決めた時も、父親が少しでも楽になるようにと学費がある程度免除されるような安い場所を選んだ。その結果、中学を卒業するまで住んでいた地域で寮住まいをする事になったけど、僕にとっては逆に気楽だった。

 荷物を纏めて新しい住居に向かう日に初めて、父親が「子供らしい日々を送れなくてごめんな」と僕に対して頭を下げたのは……とても驚いた。今でも鮮明に思い出せてしまう。きっと、ずっと僕に対して負い目を感じていたのだろうと思うと、逆に僕の方が申し訳なく思ってしまったくらいだ。

 接した時間が少なくても、僕は自分の父の事が好きだったから。僕を育ててくれた父を誇りに思ってると言った時の、父親の涙も同様に忘れられない。釣られるように僕もちょっと泣いてしまって、その後二人で笑顔になった事も、僕はずっと憶え続けているだろう。

「僕はこれから、自分のやりたい事を見つけに行くよ」

 そう言って、僕は笑顔で父親から旅立った。



 桜はとうに散って四月ももう終わる頃。木々に緑が色付いた並木道を、鞄片手に朝の空気を堪能する。歩きながら感じる日差しは、静寂もあって心地が良い。これがあと何分か経てば雑踏が聞こえ始めて騒がしくなるので、まさに今しか感受できない一時というわけだ。

 まだ少しだるい身体を背伸びで解しながら、見慣れ始めた通学路を眺めてみると地面には春の残滓がちらほらと残っている。これもいずれは地域の自治体が掃き掃除をして綺麗にするのだけど、花弁が枝に残っているところを見るともう少し先の話になりそうだ。

 やっと身体に馴染んできた制服の襟を正しながら、ふと父のことを思い出す。元々単身赴任を繰り返して日本各地を飛び回っていたので最低限の生活力はあるだろうけど、栄養価の偏った食事はしていないだろうか? でも、僕が食事を作るようになる前から何とかしていたので心配は要らないだろうし、離れた場所からでは健康を祈るだけだ。学費についても多少は免除をもらえる形で入学したので、余程のことが無ければお金が足りなくなるなんてことにもならないだろう。

 考え事をしているうちに、道の向こう側から校門が見えてくる。七時ちょっとを過ぎた今頃でも登校してくる生徒がいるけど、一部はジャージ姿も見える。運動部に所属している生徒だろう、ランニングがてらに走りながら門を潜る人が殆どだ。確かサッカー部が全国大会に出場できるほどの強豪だったので、恐らくはそこの部員なのかもしれない。

 入学した際に何処かの部活に入ることも考えてはいたけど、諸経費がかかることを考えると文化部も含めて遠慮してしまった。

 …そういえば、父に進学せずに働いてみたいと言った時、最低でも高校を卒業しておけと言われたっけか。社会に出るのはそれからでも遅くはないと苦笑交じりに窘められたけど、今にしてみれば出発する時の謝罪は僕があんな事を言ったからなのだろうか。今更どうこう言うのも建設的ではないし、今は僕自身に出来ることをやろう。

 校門を抜け、昇降口で上履きに履き替えて、一階にある自分の教室に向かう。程なく自分の教室の前まで辿り着き、扉を開けて中の様子を窺ってもやっぱり誰もいない。一番乗りかは分からないけど、一先ず自分の席について、深呼吸をしてみた。

 以前と違って戸惑っているのは、自分の時間に余裕が出来た事だ。ゲームや漫画を人並みに楽しめても、いつかは飽きが来る。

 僕には趣味と呼べるものがない。学生のうちは予習や復習で暇を潰せるけど、学生でなくなった時はどうすればいいのだろうか。いっそ仕事をしている方が気楽なんじゃないのだろうか? でも、僕にはまだ知らない事ばかりだし、学生生活の中で得られるものもきっとあるだろう。一年も経っていないんだし、結論を出すには早すぎる。

 考える時間はたくさんあるんだ…焦らずに、僕がやりたいことを探していこう。雑念を払い、机の横にかけた鞄から教科書とノートを取り出して、先日受けた授業の復習を始めた。


 夕食の材料を買いに行くために、帰り道からちょっと離れた場所にあるモールの入り口を潜ると、そこには既に雑踏で溢れかえっていた。僕と同様に買い物をしようと手提げバッグを抱えた主婦や、制服姿の男女もちらほらと見える。学生の場合は遊んで帰るつもりなのだろう、ゲームセンターのある場所から時折黄色い声も聞こえてくる。

 買い物も料理も既に習慣付いて久しいけど、ふとクラスメートは僕のような主婦紛いの事をしている人はいるのだろうかと疑問が湧く。料理が好きだとか理由が無ければ毎日のようにはしないだろうし、どちらかと言うとお菓子を作ったりの方が多いかもしれない。そういえばあんまりお菓子を作った事は無かったので、簡単に作れるものから挑戦してみようか。夕食の献立を決めるついでに、先に本屋に寄ってみよう。

 目的地が決まったところで少し足を速めようとすると、

「おっと悪い」

 誰かが僕の肩にぶつかってきて、不意に姿勢を崩される。倒れないように踏ん張ってから、衝突した相手を確かめようと反射的に振り返った。

「な、なんだ…?」

 全く予想外だったものが目に入って、思わず声を漏らす…陽炎のような揺らぎが目の前にあって、僕と衝突した誰かを追うように過ぎ去っていったからだ。見間違いか何かかと目蓋をこすっても、波打つ何かは気のせいでもなんでもなく…何故か妙な存在感を僕に与えていた。

 …その陽炎が動きを止める。かと思えば、踵を返したようにゆっくりとこちらに近付いてくる…?

(…やばい)

 直感的に、この陽炎が自分にとって脅威になるモノだと感じた。気のせいだと思いながら、一歩ずつ後退していくけど…『それ』が標的を僕に定めたのか、他に通行人がいるにも関わらず、にじり寄ってくる。

 鼓膜に届くほどに心臓が胸を叩く。僕にしか聞こえてないはずなのに、まるで自分が爆音の発信源のようだ。もやのような、幻のような『それ』を認識した瞬間から、嫌な予感が途切れない。

 これはいけないものだ。理由も根拠も無く確信が強まっていく。だというのに、周りの人は僕が見ている陽炎に全く気付いていない…?

(なんで気付いてないんだ…!?)

 まるで関心が無いとでもいうのか…いや、みんなこぞって何処か一点を見ているようだけど、今それを確認する余裕は無い。

 僕は弾けるように駆け出す。足が一瞬もつれて転びそうになるけど、立ち止まっていられない。

 恐い。僕を脅かすかもしれない『それ』から逃げたくて走る。人にぶつかりながら、何度も躓きそうになりながらも走る。

 陽炎は僕を追っている。初めて見たもののはずなのに、見たことも聞いたこともないはずなのに、『それ』が僕を襲うものなのだと訳もなく感じる。逆立つ肌が、寒気が、震える足が、それを証明している…!

『―――――!』

 耳鳴りのような陽炎の叫び声が聞こえる。やっぱりアレは意思を持った何かだ。僕にしか感じ取れない存在が、襲いかかろうとしているのだ…!

(なんで…なんで!?)

 だけど、今の僕に理由を考えている余裕なんてない。とにかく逃げなきゃ…でも、何処に逃げればいいっていうんだ!?

「何がどうなってるんだよ…!?」

 思わず口から出てきた本音に応えてくれるものはいない。とにかく今の僕には走り続ける事しかできなかった。


 モールを抜け、十字路を曲がり、赤信号をクラクションを鳴らされながら渡り、まばらな雑踏を抜けて、走る。とにかく走る。だけど、何処まで走っても背中に感じる嫌な予感は拭えない。あの陽炎がまだ僕を追っているのだという感覚は未だ付きまとっている。時折聞こえてくる甲高いような、音にならない怒号が僕に何度も恐怖を思い出させている。いっそ諦めて何処かへ去ってくれればいいのに、しつこく僕を追い回すのはどんな理由なんだよと、舌打ちをせずにはいられない。

 ……気付けば太陽は落ち掛けていて、周囲は田んぼだらけで、人の気配は一つも無くて。いつの間にか市街地の外に出ていたのか、全く知らないところに出ていた。

 僕を追う気配は消えていないけど、少しは頭が冷えてきたのか辺りを窺う余裕だけは出てきた。代わりに疲労が重しのように身体を包んでいて、気を抜けば倒れてしまいそうだ。

 逃げ続けてはいるけど…僕を追っているものが何なのか、分かってはいない。ただ直感的というか本能的に、やばいものだと感じているだけだ。

 誰が、何の為に、僕をどうしようとしているのか? どうして知りもしないものが、知りもしない僕に纏わり付いているのか?

 その正体を知りたい。あの陽炎が何者なのか、まだ僕の傍にいるのか、そしてほんの少しの好奇心が湧いて、走りながら振り返ってみる。

 僕の感じているそれが、聞こえないのに聞こえる叫びが、気のせいであればよかった。知らない場所までやってきた事で、途方に暮れるくらいなら良かった。

「………は?」

 あまりにも見慣れているものに近かったそれは、知っている色と違っていて。しかも、あるはずのないものまで付いていた。

 僕を追いかけていた陽炎は既に幻のようなものではない。はっきりとした形を持っている…それはいい。

 問題はそれが人の頭くらいの大きさの拳で、夕日に照らされているからか元からなのか真っ赤な色をしていて、手のひらの部分に巨大な目が付いている事だ…!?

「ば…!」

 化け物、と口走ろうとした矢先に、足がもつれる。まずい、と思った時には走る勢いそのままに地面を転がっていた。

『―――――!』

 またあの聞こえない叫び。急いで立ち上がろうとするも、化け物は既に目前。その巨大な手そのもので、僕をどうするつもりなんだろうか。

 嫌な予感しかしない。あの手が僕に触れた時、僕はきっとどうにかなってしまう。物凄く痛いのかもしれない。ひょっとしたら死んでしまうのかもしれない。

(死ぬ?)

 わけも分からず、僕はここで死ぬ? 自分のやりたい事も見つけられず、僕を育ててくれた父親に何も返す事無く死んでしまう?

 嫌だ。絶対に嫌だ。だって僕はまだ何もしてないじゃないか。何も報われてないじゃないか。そして何より、父親に悲しい顔をされてしまうのが一番嫌だ!

 何も残せずに死にたくなんてない。僕にはまだやらなきゃいけない事があるんだ! 

 無我夢中で腕を振りかぶる。あの化け物を殴りつけられるのか、そもそも殴ることに意味があるのがとか、色んな思考が過っても、僕の「死にたくない」という感情が押し流す。

 死にたくないけど、どうせ死ぬなら。抵抗ぐらいはしてやらないと、僕の気が済まない。

「こっ……の!!」

 腰の入っていない腕を前に突き出すだけの動作が、やけにゆっくりに感じる。手の形をした化物は指それぞれが生きているかのようなで僕を捕まえようとしているのが、はっきりと観察できる。気味が悪い。走馬灯が走る時というのはこんな感覚なのだろうか。浮かぶのが思い出よりも恐怖と怒りというのは、僕自身が思ったよりも意地っ張りだからだろうか? それにしては、随分と冷静で我ながらびっくりする。

 だけど一瞬のみ、一瞬ゆっくりに見えているだけだ。せめて目を閉じていれば一瞬で終わるかもしれない。だから僕はゆっくりに感じる流れの中で、ゆっくりと目蓋を閉じた。

 瞬間、頭の中を父さんとの思い出が、ページを大急ぎでめくっているかのように過る。ああそうだ、やっぱりこれは走馬燈なんだと、そしてこれが現実なんだという妙な実感を覚えながらやがて来るであろう痛みに備えて覚悟を決めた。

 バアアアン、と水の詰まった風船か何かが破裂するような音が響く。予想しなかった鼓膜への衝撃に目を開くと、僕に迫っていたはずの手の形をした化物は何処にもいない。

「…えぁ?」

 思わず気の抜けた単語のようなものが口から出てくる。慌てて周囲を見回すと、僕の足元に手の化物が転がっていた。

「うわぁ!?」

 思わず後退りするが、化物は小刻みに震えるだけで、僕に襲い掛かろうとしていた元気は既に無くなっているようだった。やがてもがくように動いていた指の動きが止まると、化物が風に吹かれた埃のように、跡形もなく消えていった。

(消えた……)

「おかしいとは思ってたけど、やっぱ“目覚め”かけてたんだな。だったらとっととぶっ飛ばしてくれた方が楽だったのに」

 急に聞こえてきた誰かの声が、化物がいた場所の先から聞こえてくる。視線を上げて正体を確かめてみれば……漫画かゲームの中から出てきたようなシルエットが、僕を見下ろしていた。

 そいつは帽子をかぶっていて、マントを羽織っている。夕日に映された表情は呆れたような困ったような、微妙な表情をしていた。どうやら男みたいだけど、ぱっと見でそれほど自分と歳が離れている印象はしなかった。そんな事より目を引くのは…マントの裾から延ばされた右腕が、光のような何かがまとわりついていた。細い電気のようなものが音を鳴らしている。

「な、なんだそれ?」

 思わず人差し指で指し示しながら単純な疑問が口から出てきたけど、マントの男から返ってきたのは溜息だ。

「お前の光ってる右腕と一緒だよ」

 呆れたような台詞の内容を確かようと自分の右腕を確かめると、確かに……何故か光っている!?

「ななななんだこれ!?」

 慌てて蠅を払うように腕を振り回すと間に、自分の右腕は光らなくなった。蝋燭の炎じゃあるまいし、振ると消えるものでもないと思うと、ますます分からない。

「なんだも何もお前があの化物を攻撃した、その残り火みたいなもんだ。ほんっと、ついさっきに力が使えるようになったばっかりなんだな」

 マントの男は少しだるそうに溜息を吐くけど、僕は自分の身に起きた事に混乱していて、どうしていいかよく分からなかった。力ってなんだとか、あの化物はなんなんだとか思ったけど、上手く言葉に出来ない。

「まあいいや。とりあえず腹が減ったし、なんか食いに行くか」

 彼はとりあえずといった感じで投げやりに言うと、僕に向かって右手を差し伸べる。もう光ってはいないけど、一瞬だけ恐れに身体が震えた。

 よく分からない状況だけど、彼なら少しは説明してくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、マントの男の手を借りながら立ち上がり、服についた汚れを払う。幸いどこも切れたりはしてないようだけど、派手に転んだしクリーニング行きだな……思わず落胆の溜息が出るけど、こんな思考が出来るくらいには落ち着いたようだ。

(一体、何がどうなってるんだか……)

 我が身に降りかかった出来事に頭を悩ませながら、踵を返して歩き出すマントの男の後ろについていく。そしてここから先の生活が、何となく平穏で終わらないかもしれないという予感に、僕は頭を押さえながら大きく溜息を吐いた。

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