ロマンティックな冗談を
みつはた
ロマンティックな冗談を
ああ、最悪だ最悪だ。なんでこうなった。地の底まで沈んだら時間遡行ーーなんてできるだろうか。もしもできたなら、その時は自分で自分を全力で殴ってやりたい。何が言いたいかって、とにかく地中でもなんでもいいから、今すぐ誰もいない場所へと行きたい。そこで一生生きていきたい。食料とか家具とかどうしよう。ネット通販か。アマゾンって、そこまで荷物届けてくれるかな。
「おーい、聞こえてる? わ、すごい速さで目が回ってるんだけど」
思考がぐるぐるに絡まって、上手く今の状況を整理できる気がしない。
「え、保健室行っちゃう? 保健室にGOしちゃう?」
目の前で保健室行っちゃう? とか言っちゃってる奴のことを上手く考えられない。
「ちょっと、月音さーん……」
「うるさい黙って黙って!」
ギッと目を鋭くして口調を荒らげると、眼前の奴はムスッとした顔になって、唇を尖らせた。ああ、いつもの癖だ。
ーーそうだよ、落ち着こう。こいつの憎ったらしい顔を、お前は何回も見てきただろう?
自分で自分に問いかけて、うんうん、と頷く。その間も、あいつはこちらをじっと見つめてきた。
とにかく、落ち着けや、自分。
こうなってしまったのも、さっきの出来事があったからだろ?
まあ、事の発端は10分程前に遡る。
嫌というほどに経験してきた、冬という季節の2月という月。私はこの季節が大っ嫌いで、もうそれこそ冬が好きなんて人がいたら全力でその人をぶっ叩いて、お前の感覚は節穴か! と説教を始める。お前の感覚は節穴か、っていう使い方は間違っている? 気にするな。そこは突っ込んではいけない。しかし私は本当に「冬」が嫌で嫌でたまらなくて、何回も学校に行きたくない、寒い、と駄々をこねて迷惑をかけたことがある。例に漏れず、その中には、さっきから保健室保健室ばっか繰り返しているあいつ、雛河翔馬もいる。
そして、この事件は私の大の冬嫌いが引き起こしてしまった、些細なようでとんでもなくでかい出来事だ。
ーーここからが、事件の本編である。
「空木さーん、おはようございまーす」
うつぎさーん、と私の名字を連呼する翔馬。「空木」と書いて「うつぎ」と読む、難しい私の名字を、よく噛まずに言えるな、と思った。ここは、ストーブで暖められた教室、そして今は5限目の休み時間である。ふわふわの、色素の薄い翔馬の髪がやけにきらきらして見える。たぶん、ずっと寝てて、蛍光灯の白光が眩しいだけだ。まだまだ襲ってくる眠気とその眩しさのせいで目を細めながら、翔馬を見上げた。
小さいころに比べて大分大きくはなったものの、未だに私の背は越していない。その事実に安堵する。
「……なんだよ、月音ちゃんは今、絶賛昼寝中なんだよ。起こすなよ、馬鹿翔馬」
「そこまで言わなくても良くない……?」
「折角こんな暖かい空間で休んでる最中だっちゅーのにお前は……」
「はいはい、ごめんね。でも次、移動教室だよ。早く行こうよ」
「あのさあ……。あんたは……友達はどこ行ったの。そいつと行きゃあいいじゃん。それから私の友達は? 」
「月音ちゃんそれボケだよね? 僕の友達も月音ちゃんのお友達の小糸ちゃんも今週はインフルエンザで休みだよ?」
「そうだったっけ」
「ホントにボケだよね!? ツッこんでもらいたいだけだよね!?」
最初はこんな感じに普通に話していただけだった。ただ、それがちょっとおかしくなってきたのは、それから何分か経ってからだったと思う。
「ほら、早く起きて……!」
「い、や、だ……」
起き上がるという意志さえも見せようとしない私を、ついに翔馬が引っ張っていこうとする。私は四肢を投げ出したまま、翔馬のさせたいようにさせていた。どうせこいつに私の巨体は動かせまい。なにせ身長差がかなりあるのだ。腕をぐいぐいと引っ張る翔馬だが、恐らくその体格でこの山のような身体は動かないだろう。
「月音ちゃん、重い……。どこにそんな重みがあるの! 身長!? 身長なの!?」
「失礼ですわね翔馬サン! それではまるで、私がとても重いみたいではありませんか!」
「そう言いたいんだよ……! うっ」
ねえ起きて、嫌だ、の繰り返し。本当に無限ループだ。時計をちらりと見れば、もう予鈴まであと2分を切っている。いや、もうぶっちぎりだ。
「起きろ……月音……!」
「そんな少年マンガみたいな台詞言われても……。起きないよ?」
そう言った瞬間だった。ああ、もうムリ……。翔馬がそんな弱っちいことをほざいて、ずっと引っ張られたままだった腕がパッと離された。その反動でぐらりと椅子が揺れる。
ーーあ、倒れる。それを阻止しようと、反射神経だけは素早い翔馬が立ち上がって、こちらへ駆け出す。私はその様子を椅子から転げ落ちながら、あ、この先の展開読める、と思い床で頭をゴン!と打った。窓の外の曇り空がよく見える。ここが3階だからだろうか。
「つきねちゃ」
翔馬は、月音ちゃん危ない、とでも言おうとしたのだろう。全然最後まで言えてない。
彼は何もない床につまづいて、無様に私の上に倒れ込んだ。
無情にも、タイミング良くお馴染みのチャイムが頭上で鳴り響く。廊下から、ばたばたと足音が聞こえた。頭がズキズキと痛む。床の冷たさが肌に染みるようにして身体へと伝わってきた。
下から見る彼はやっぱり随分大人になっていて、見た目の割にごつごつした大きい手が、幼い日に繋いでいたあの手なのか、とふと思う。
「どいてくれよ、翔馬くん」
「……うん」
「ん? どうした?」
「いや……。こういうこと言ったら、月音ちゃん、怒るでしょ?」
「翔馬くんったら……このどスケベ!」
「そんなんじゃない。まだ何も言ってない」
「……割とガチトーンで言われて傷付くんだけど。なに、言いなよ」
「……怒らないって約束してくれるなら」
「怒らないって」
「……足捻っちゃった、痛い助けて……」
「ふざけんなお前男だろ!? 漢みせろよ漢!」
「ほらやっぱり怒った! なんでそういうこといちいち怒っちゃうんだよ!」
人差し指でビッ、と私を指しながら、くりくりした目ん玉にうっすらと涙を浮かべたそいつは、うわー、と叫んだ。こいつ、人の腹の上に乗ったまま叫ぶとは……。なかなかやりおるな。
「……保健室行く?」
「いいよ! 漢見せるから!」
言葉を鋭くして、翔馬は叫ぶ。その間にも、彼は足をさすり続けていた。
もしかして結構やっちゃってるんじゃないの、と聞こうと思って、口を開こうとした瞬間だった。
大分古くなってしまっているという教室の開きにくい扉がギ、ギ、と音を立てたと思ったら、そのまま速度を上げて勢いよく開いたのだ。
「えっ」
「おっ」
ぎょっとして目を見開く翔馬と、何が来た、と若干にやにやする私。
しかし、私の期待もすぐに淡く消えてしまうことになる。ざわざわしながら入ってきたそれらは、毎日顔を突き合わせているクラスメイトらだった。
なんだよ、と口を尖らせると、翔馬がぼそりと呟いた。私の腹の上に、未だ乗ったまま。
「……なんで帰ってきてんの」
「……確かに、そういえば」
そう応答すると、耳をつんざくような低い声がクラス中を包んだ。いや、包んだなんて柔らかな表現は合わない。クラス中を震わせた。
「あれえ、翔馬と空木、何してんの?」
その時、私と翔馬は、げっ、とつい声に出してしまった。声で分かった。柔道部の内田くんだ。優しい性格の彼は、柔道部で培われたであろう大きい体格で皆を包み込む、いわばクラスのマスコットキャラクターのような存在だ。……ただ、あまりにも声が大きいので、皆、それに少し迷惑しているのだ。そして今がまさに、その迷惑しちゃっている状況である。
こうなると絶対……。
「え、ちょっともしかして!? お熱い!?」
「あら、お2人……!」
「アベック!?」
「つ、月音ちゃん!? 雛河ともしかして!? えっ!?」
「リア充誕生かあ?」
「それにしてもお熱いな……」
ああ、と額に手を当てる。目線の先には翔馬がいて、その翔馬さえも、顔をあからさまに覆っていた。普段はこんな話題、自分には関係ないってわりきってるのに。まさか自分にそれが回ってくるとは。
まずい。非常にまずい。
いや、いつか噂されるんじゃなかろうかと、心配はしていた。その心配を完璧に無駄にしてしまっている、翔馬アンド私。あちゃー。これまた、やってもうた。
「つ、月音」
どうしよう、と彼の口が動いた。どうしようって、私にもどうすればいいか……。
「まあ、とりあえず降りようか翔馬くん」
「あっ」
それだ、 と翔馬は、ぺちんと膝を叩いた。自分が私に馬乗りしてたから、こんなこと言われてるんだ、と今更気づいたようだ。……いや、遅いわ!
私の怒りも30パーセントを超えてきたところで、ついに自分から殺気が立っていることに気付く。その迫力に、翔馬はすごすごと、私の腹の上から静かにおいとました。
「そもそも、なんで帰ってきたの?」
眉間にぎゅっと皺を寄せながら尋ねる。答えたのはこのプチ騒動の元凶、内田くんだった。
「ああ、突然さ、先生が学校を出なくちゃいけなくなって、教室で自習だって。それにしても、2人とも……」
「内田くんまで!」
泣きそうな気持ちで叫んだ。
「そんなんじゃないよ! 僕達は!」
倒置法を使って必死の弁明をする翔馬。なにを言っているんだお前は。お前が何を言ったとしても説得力の欠片も無いのに、その事をこの馬鹿は分かっていない。彼はちょっと前まで私に馬乗りしていた張本人だ。
「嘘つけ翔馬ー」
「実は付き合ってたんだろ?」
「いいじゃんよ、別に言っちゃっても。うちら応援するよー」
笑いながら話すクラスメイトにおどおどする翔馬。何か言いにくそうに、もごもごと口を動かす。そんなにしても、言葉なんて出ないくせに。ああ、どうしよう、自習時間が始まる。変なところで真面目なあいつらは、自習時間に喋らない。今どうにかしないと、この噂は事実になってしまう。どうにもならない、取り返しのつかないことになる。
例えそれが思い込みだったとしても、もう私の頭には、それ以外の考えは浮かばなかった。
ーーなんなんだよ、もう。
腹が立っているというのに、何故か懐かしい感覚があった。昔もこんなことあったな、って軽く過去を振り返る。
……でも、どうしてあの時よりもこんなに苛立つんだ。どうして、あの時よりも他人の笑い声がこんなに醜く聞こえるんだ?
「だから、違うって……」
申し訳無さそうに翔馬が私を見つめる。その瞳はゆらりゆらりと揺れていた。
腹の中と、肺に近い心臓の辺りが摩擦を起こすように痛んだ。頭の中が真っ白になる。嫌だ嫌だ、そんなこと言われるのが嫌だ。
「いいねえ、おふたりさん」
言われたくない。そんなこと言うな。
偶然のままぐずぐずと続いていた関係が、壊される。
__怖い。
次の瞬間、うわーっと私は叫んでいた。内田くんよりも大きな、大きな声で。そして、これまたタイミング良くチャイムが鳴る。本鈴だ。授業が、自習時間が始まる。全てがスローモーションの世界だった。
目を見張る翔馬。びくりと肩を揺らす女子もいた。顔が引きつっている男子もいた。
キッ、と翔馬を睨んで、その後全員の顔をしっかりと見た。その時だけは、全員が敵だった。友情とかそんなもの関係ない。それよりも大切な何かのために、私は今を変えようとする叫び声をあげたのだ。
「そんなのじゃ、ないからッ」
強い叫び声だった。腹の中心から沸き立つように出てくるそれらは怒りか、恐怖か。
「そんなこと言わないで!」
言葉が溢れる。喉の奥からとめどなく溢れ出てくる。
「このッ……」
詰まった。一瞬だけ。
「翔馬の、馬鹿あッ」
「いや、僕!?」
右足をドアの方へと踏み出し、前にいる人なんかお構い無しに、私は教室の開いた扉を突き破るようにして廊下へ飛び出した。
「月音ちゃんっ」
「うっさい! ついてくんな馬鹿!」
「サボる気なの!?」
「関係ないだろお前には!」
「関係アリアリだよ!」
走りながら叫ぶ。全力疾走だった。
ーー3階の階段まで来て、ようやく私はあることに気付くことになる。
「つ、月音ちゃーん……」
遠くから、蚊の泣くような声が聞こえる。一旦立ち止まって、後ろを振り返った。
「……あいつ、足痛めてんだった」
はは、と引きつった笑いが出た。左足を微妙に引きずりながら、翔馬が走りとも言えないような走りをして、こちらへ向かってくる。
彼は私が立ち止まっていることが分かると、嬉しそうな顔をした。
それに少しだけ苛ついたので、私はまた走り出す。
うえーっと絶叫する翔馬。その声をオールスルーして、私は階段を駆け下りた。
たまにちらちらと、後ろの様子を伺いながら。
別に心配しているなんて、そんな乙女みたいな理由じゃあない。一緒にサボって、話がしたかったのだ。こんな機会である。たまには深い話なんかも、していいだろう。
1階の階段を降り始めた辺りで、はあ、と流石に息が切れ始める。心臓がばくばくと鳴っているのが、手を当てなくても分かった。
後ろ__というか上を向くと、翔馬が2階の階段を降りているのが分かった。私が見ているのにも気付かない。いや、気付いてほしくないわ。
そこから校内をぐるぐる駆け回って着いたところは、校舎裏の目立たない場所だった。ようやく顔を出し始めたお天道様によって、木々の隙間から陽光が美しく漏れ出し、学校内にこんな綺麗な場所があったのかと驚く。人気がないのが非常にもったいない。
呼吸を整えて、痛くなった脇腹を抑えながら翔馬の到着を待つ。やがて後ろから、ザッザッと、地面を踏みしめる音がした。……かなり遅いリズムであったが。
「……お疲れさんどす」
「なんでそんな、言葉遣いな訳……」
左足をぎゅっと抑えこんで、彼はそう言った。それを見て、うわ、と思わず言葉が出てしまいそうになった。
流石に、やりすぎだ。
「……ごめん。走らせすぎた」
「いいよ、別に」
足を抑えながら、彼は器用にコンクリートへと座り込んだ。
「どうせ、僕と話でもしようと思ったんじゃない?」
「当たってるぜ……」
「やっぱりね」
ーーそして、話は冒頭へと戻る。
「……で、時に空木さん。これからどうしましょうか」
「……どうするってなあ」
若干の混乱はあったものの、やりすぎてしまったことを謝って和解した私達は、これからの方針を語り始めていた。
「やだな、付き合ってるとか、そういう噂されるの。絶対今から流れるよ」
「分かるわー。めんどくさいもんな、そういうの」
「いざ自分の番になったら、ってやつだね」
「それそれ」
人差し指をピッと指して、同意のポーズをする。その指に翔馬が人差し指を合わせて、にやりと笑った。マイフレンド、のやつだったっけ。お決まりの言葉も、そっくりのモノマネをして言った。
「……まあ、確かにこんなに仲良かったら、誤解もされるわな」
「女子の友達って、月音以外にいないからね」
「小糸はどうなの?」
「小糸ちゃんは月音の友達でしょ。そこに僕が入る隙はないよ」
「隙間に、入るつもりだったの……?」
「そんなに嫌……? しかも隙間ってその言い方さあ……」
あからさまに傷付いた顔をしている。
昔からそうだ。顔に出やすいんだよな、こいつ。
「でもまあ、相手が月音ちゃんでよかったよ」
「……いくらでも私の不幸を笑うがいい。それがお前の幸福ならな」
「重いねそれ」
その不幸、僕も貰っちゃってるから。その言葉に笑うと、翔馬も眉を困ったように寄せて、思いっきり口角を上げた。いつもの、笑顔。
小糸もそうだけど、翔馬の笑った顔はもっと安心する。胸の中がほっとするのだ。
つくづく不幸で可哀想で憎たらしい奴だけど、こういうところに、一緒に重ねてきた年数を感じる。
それでなんだか嬉しくなって、薄く微笑むと、いい顔だね、と言われた。
「そんなこと言っても何もあげないぞ」
「いや、そういうのじゃないって。ただそう思っただけだから」
「……落ちてあげよっか」
「……そんなの望んでないので結構です」
「へへ」
どうしようなんて言っているが、恐らく2人とも深くは考えていないだろう。この会話の軽さが、それを如実に証明している。
「なんかああいうこと話された後って、普通気まずくなるもんじゃない?」
「そうならないのが、一緒に過ごしてきた、年季ってやつだね」
「そんなもん?」
「……あと、月音ちゃんがあまりにも何も考えていないからだね」
「……すんません」
これっぽっちも思っていない反省を口にした時、私のブレザーの右ポケットから電子音が鳴り響いた。ん、と言って中に入っていたスマホを取り出す。
画面に映し出された名前を見て、ああ、なんだあいつかと思う。
「誰? 電話?」
「あー……。電話。小糸から」
「普通学校にいる人に電話掛ける……?」
__宮原小糸。
私の一番の親友にして、一番の理解者。生まれつきのくるくる天然パーマが特徴的だが、それ以上に目を惹くのは少しくすんだ金髪、そしていつも輝きを放っている深いブルーの瞳だ。外国人の祖母を持つ彼女は、ここらでは「お嬢さん」なんて呼ばれていることでも有名である。恐らくこの付近で彼女の顔を知らない者はいないだろう。
自由気ままな彼女が、インフルエンザにかかっているにも関わらず、こうやって電話を掛けてくるのは特に珍しくもない。画面に触れて電話に出る。
「もしもーし」
『もしもし』
「随分おばあちゃんになったね」
『ただ声が枯れてるだけだっての』
ごほ、と咳をしながら彼女は答えた。
「どうした?」
『暇だったから掛けた。まさか出るとは思ってなかった』
「え?」
『今、授業中』
ああ、そうだったなあ、と今更思い出す。私と翔馬は顔を見合わせて苦笑した。
「いやあ、あっしと翔馬、只今絶賛サボり中なのでありんすよお」
冗談めいた口調で返事する。
『……は? 翔馬……。雛河とサボってるって……。お前なに雛河巻き込んでるんだよ 』
「……まあ、いろいろあってね」
小糸の厳しめの言葉に心臓が少しだけ飛び跳ねた。ここで長々と話す訳にもいかないので、この場では適当に濁しておく。
『ふーん……。まあ、そっちのことは知らないけどさ、自分明日から復活するから』
「マジか!」
『そうそう、そんだけ』
「やっぱり今話す必要あったのかな……」
翔馬がまたも苦笑する。はは、と乾いた笑いが聞こえた。
「じゃ、また明日学校でなー」
『ああ、ちょっと待って』
「ん?」
思い出したかのように小糸が呼び止めた。
『話そうと思ってたことがあった』
「なになにー」
『雛河、今、近くにいるよな』
「ん、いるけど」
『ああ、そうか……。じゃあいいや、この話はまた明日で』
「おいおいおいおい、水臭いぞ小糸ちゃーん。教えてくれたっていいじゃないかー」
『どうせ明日会えるだろ。別に、急ぎの用事でもない』
「えー、それじゃあ翔馬を引っぺがせばいいの?」
「何の話してるの……」
眉を寄せて尋ねる翔馬には、多分私と小糸の会話は聞こえていないだろう。
『……別に急な用事じゃないんだ。ただ、月音に聞きたいことがあって』
「じゃ、翔馬は耳塞いでてよ。聞かれたくない話なんだって」
怪訝そうな顔をして、思いっきり耳の穴に指を突っ込む翔馬が滑稽で笑いそうになったが、なんとか持ちこたえる。
「それで? 用件はどのようなものでいらっしゃるの?」
『……単刀直入に聞く。間が開くと、聞きにくくなるからな。』
「なんでもどんとこい!」
『……お前と雛河は、恋愛関係にあるのか?』
冷える足を手でさすりながら、ヒーターの暖かさを全身で感じる。2月の夜はとにかく寒い。特に家の端にある自室は、寒さがひどい。そのため、極度の冷え症、そして重度の寒がりである私の格好は傍からみたらさぞ滑稽なことだろう。外に出ていってはいけない服装だ。
シャーペンを左手に持ってくるくると回しながら、課題を解こうと頭を働かせる。……いつもなら、最初から小糸に教えてもらいながらやっていく課題も、流石に今日は聞きずらかった。
『お前と雛河は、恋愛関係にあるのか?』
小糸から唐突に投げかけられたこの質問に、私は大きく目を見開いた。彼女は無理に答えなくてもいい、と言い残して電話を切った。ツーツーと電話が切れた後も、私は耳にスマホを当てたまま、呆然と遠くの一点を見つめていた。
「恋愛とか、なんだよそれ」
何か言いたくて、ぽつりと口の端から零れたその言葉は小学生みたいな幼い疑問だった。
ーーいや、どこにそんな要素があった?
考えたところで、このちっぽけで肝心な時に全く働いてくれない脳みそは、相変わらず寒いということしか私に伝えてくれない。
何がおかしいんだ。私と翔馬の関係なんてただの友達とかただの幼馴染みで、別段珍しいものでもないだろう。
小糸まで、そう言うのか。
そもそも私が誰かと付き合うことになったら、真っ先に小糸に言うつもりだ。
そういえば、小糸がこんな話を持ちかけてくるのも初めてだった。
何に興味を示しているか読み取れない彼女にとって、私と翔馬の関係はそんなに不思議なものだったのか。
分からない。
……分からない。
「……寝よう」
いくら考えても無駄だ。
悩んでいることがあれば早く寝て忘れろ。おばあちゃんの言葉だ。……果たしてそんなこと忘れていいのだろうか、と疑問に思ったあの日も、もう随分と遠い昔の話である。
こんな濃い出来事があったにも関わらず、寝ようと思えば案外寝れるみたいで、私はあっけなく無意識の世界へと引きずりこまれていくのだった。
朝の校内。
ーーざわつく玄関。飛び交うおはよう、という声達。足音。教科書が揺れる音。何より喋り声。そして、一向に止んでくれる気配のない雨、雨。曇るガラス。湿ったコンクリートの壁。
……多分、いつも通りの日常のはじまり。
「おはよう」
顔を覗きこまれたかのような感覚が私を襲う。隣を見ると、柔らかく笑う翔馬の顔が近くにあった。
びく、と肩が揺れた。
「お、おはよう」
「……どうしたの? なんか元気ないけど」
「え、いやいやいや、なんじゃそれ。翔馬くんの見間違いよー? 別に元気なんかもう有り余っちゃってるくらいでさあ」
にっ、と笑いながらへらへらしている私に、翔馬は怪訝そうな顔をして、そう、と一言だけ呟いた。
そして訝しげに私を見つめながら、横を通り過ぎていく。
「……」
笑顔を崩さないままで、私はその様子を目で追いかけていた。
翔馬はやがてクラスメイトに囲まれ、結局あの後どうなったのさ、とニヤニヤ笑う馬鹿共に質問攻めにされていた。
無性に腹が立つ。
ガコン、と勢いよく靴箱の扉を蹴って閉めれば、なんだなんだと少しどよめきが起こった。
ほっといてほしい。
『お前と雛河は、恋愛関係にあるのか』
昨日の夜からずっと頭の中で響く、凛とした声。
何度も何度もループする。リフレイン、リフレイン。
ああ、無限にループ。
「__おはよう」
親友の__小糸の声がした。
「……おはよう」
「なあ」
その場から立ち去ろうとした私を呼び止める、必死な声。
「なに」
「……月音、昨日は変なことを聞いて悪かった」
「……別に、気にしてない」
「顔と態度に出すぎだ。いつもの変人女子高生じゃなくて、ただの普通の女子高生になっている」
「いつも普通だし」
「嘘つけ」
小糸が軽く笑った。しかし、すぐに真剣な表情へと戻る。
自身なさげに、彼女の金髪が揺れた。
「昨日のことは、水に流してくれないか。いきなりあの質問をしてしまって……。お前も戸惑ってしまっただろう。その……本当に、反省している」
視線を若干逸らし、暗い声で謝る彼女に、私は自分の両手をぎゅっと握った。
「じゃあ、なんであんなこと聞いたの」
いつのまにか、聞こうと思っていた言葉が口から零れ出していた。
「そんなさ、謝るくらいなら、聞かなければよかったじゃん」
「……ごめん」
「ねえ小糸、教えてよ。ほら私、馬鹿だからさ、どんだけ考えても分かんないんだよ」
「……」
「なんであんなこと、聞いたの?」
雨の音はより一層強くなり、私の心の中を不安げにさせる。窓ガラスに打ちつける無数の雨が、玄関の生温い温度が、小糸の申し訳なさそうな顔が、場の緊張をさらに張り詰めさせて、固く握った自分の両手の中の汗を増やしている。
じっと、彼女の返事を待った。
__彼女が顔を上げるまで、そう時間はかからなかった、と思う。
「……最近、自分の中で少し不安に思ったことがあったんだ。
付き合っていない仲の良い男女が、クラスメイトに疎まれる……そんなドラマを見て。
もしも2人がそんな風な扱いを周りから受けてしまったら、と考えたら怖くなってしまった」
「……」
「……ほら、最近私は休んでいただろう。だから、私がいない間にそんな風になっているんじゃないかと思ってしまったんだ。妄想が過ぎたって、自分でも反省している」
「なんで、私と付き合っている相手が翔馬なの……。私、ほかにも仲のいい男子、いるじゃん」
小糸はすうっと息を吸って、それを吐き出しながら静かに話した。
「お前が性別関係なしに誰とでも仲がいいのはもちろん知っている。でも……その中でも雛河に対してだけは、昔からの付き合いだから接し方も他とは明らかに違うだろう。
……ただ、そうだとしても最近、お前たちの距離に疑問がある。
お前の雛河に対する視線。昔とは違うって、自分じゃ気づいていないかもしれないが……」
「昔と同じだよ……!」
「昔と同じなんて、それはずっと今まで変わっていないということか?
__昔と同じままの今があるものか。きっと、それが自然なんだ。
そのことを、私がお前の……月音のことをなにも考えずに発言したせいで、お前に余計な迷惑をかけた。本当に、ただそれだけだ」
「……」
何も言えなかった。言い返そうと思えば、いくらだってヤケになって暴れ回ることはできる。納得はできない。変わらないものなんてないってことが本当にそうなのか、と疑いたくなる。
でも、言われて初めて気が付いた。
私は、もう昔みたいなあの純粋な目で今も彼を見続けてはいない。
ずっと、このまま。我儘な感情が、昨日ふいに溢れ出してきた。擦り切れるように痛んだ心臓に聞いても何も答えてはくれないが、代わりに小糸が教えてくれた。
変わるのなら、自分がそれに対応していけばいい。
突然痛んだ心臓の意味も、壊されたくないと願った理由も分からないけど、翔馬と一緒にいたいという気持ちがあれば、大丈夫なはず。
小糸に怒ったって、最終的にはどうでも良くなって、いつも通りの関係に戻るだろう。私は、彼女に特別甘いという自覚がある。
「……小糸」
唇を真一文字に結んで、私の返事を待つ彼女に、にっこりと微笑んだ。
「話してくれて、ありがとう」
「……!」
目を開き、驚いた表情を浮かべる小糸の金髪は、心なしかさっきよりも明るく輝いて見える。
「……でも、恋人つくったら、報告ぐらいする」
頬を膨らませてそう言うと、小糸は疑うような顔を見せた。
「いや、本当にそうか? 空木月音といえば、天真爛漫、自由奔放……。そして、恐れ知らずの大馬鹿野郎。人に何も言わずに、勝手に物事を進めてしまうということが10割中8割を占める」
「そこまでかよ」
「お前はいつもそんな奴だよ」
軽快なツッコミを入れて、ああ、いつも通りの私たちだ、と思う。
雨は依然として止まず、それどころかさっきよりかもひどくなっている。数えきれないほどの雨粒たちが、コンクリートに打ちつけられては跳ね返り、やがて消えていく。
でも、それは私たちの騒がしい日々のように一瞬見えた。ニヤリと笑って、鞄を肩に掛け直す。
いつのまにか、いつも通りの日常に戻っていた。
下校時間の雨ほど恨めしいものは無い。たとえ傘を持ってきていたとしても、そこからはみ出して濡れてしまうこと、何より、どんなに気を付けていても靴下がびしょ濡れになってしまうことは勘弁して欲しかった。そして、
「……暑い」
「だよな」
今日はさすがの私でも暑かった。暖房が効きすぎているんじゃないか?
湿気でゴワゴワになった髪をくるくると指で弄る。早く風呂にダイブしたい。
曇ったガラスを指でなぞりながら、小糸の方を向く。
下校時間を過ぎたと言うのに、彼女は頬杖をついたまま一向に動こうとしない。
「帰りましょうよ、小糸さん! いつまで教室に残るつもりなんですかぁ!」
「雨が止むのを待ってるんだよ」
「……ちょいちょいちょい、今日は夜中まで雨が降るって予報ですけど」
「……そうか」
スマホで今夜の天気を調べたところ、傘のマークがずらりと並んでいた。
すると彼女は考え込むように口元へと手を持っていき、視線を右へ左へと泳がせた。
小糸が何かを考えている時のお馴染みの癖だ。
やがて私は近くの机に腰掛け、自由気ままに足をぶらぶらと上下させる。
それから、何分経ったのだろう。
「……頼まれている仕事があった」
突如、はっと思い出したかのように顔を上げて、彼女はぼそりと呟いた。
「……もしかして小糸、ずっと忘れてたの?」
呆れたように笑ってみせると、彼女は金髪をぐしゃぐしゃと掻き乱し、低く唸った。
「先、帰っててくれ。焦ってもいい結果に繋がらないような仕事だ」
「よくそんな重要な仕事忘れられるなあ」
「朝までは覚えていたんだが……」
忘れた事実は変わらないでしょ、と口角を上げると、気味の悪い笑顔だな、と散々なことを言われた。失礼すぎだろ。
「じゃ、お先に失礼致します……っと」
鞄を背負ってひらひらと手を振ると、脱力した元気の無さそうな右腕が見えた。かなり切羽詰まった状況であることが目に見えて分かる。
教室の外は、空気が重たかった。きっと、それはじめじめとした湿気のせいだろう。
廊下に、1人分の足音が響く。
はあ、と深くため息を吐いた。
今日も1日、疲れた。
まずは朝。
小糸とのちょっとした口論。
そして、仲直りした直後、あっという間にクラスメイトに囲まれた。そこからの地獄のような質問の嵐、嵐。
流石にあれはきつかった。
次に昼。
数人の男子にからかわれながらも、そこを必死に耐えてやっとこさ弁当にありつくことができた。
……それからちょうど一分後、私たちの周りで恋バナが始まったなど、言う必要もあるまい。
最後に、今。
私の隣に、翔馬がいない。
いつも一緒に帰るという訳でもないが、彼が友人を待つからと言って、玄関まで歩くことは今まで何回もあった。
……胸の中にぽっかり、穴が空いたような、奇妙な感覚。
喪失感にも似た感情が溢れる。
その時、ふと、彼の笑顔を思い出した。何故だろう、と考えるが、何も思い浮かばない。
代わりに、ふっ、と笑いが出た。
昨日の翔馬、面白かったなあ。
階段を、たん、たん、とリズミカルに降りていく。
『月音』
ころころと変わる呼び名。
『月音ちゃん』
小学生みたいな、からかうような声。
ミュージカルのヒロインになったかのような気がした。心が躍るとは、まさにこのことではないのだろうか。
心臓が高鳴る。翔馬が隣にいなくても、近くにいるかと思うくらいに彼のことを思い浮かべてしまう。
身体中を巡る血が、急に熱く煮えたぎる感覚。翔馬のことを思えば思うほど、それはどんどん熱を増して、そして。
鼓動をどんどん、どんどん速くさせるのだ。
__まるで、そう、恋をしているかのように。
ふと、立ち止まった。
恋。
……恋?
今、私はなにを考えた?
視線を上げる。
気づけばそこは既に玄関で、背の高い靴箱たちがずらりと並んでいた。
いや、おかしい。ありえない。
つかつかと、足を進める。
そうだ、最近はそういう話題が多かっただけだ。
やれ恋人だ、やれリア充だ、そんなの私には関係ない。
彼の目をつい見つめてしまうのも、彼に構ってほしくなるのも、彼の一挙一動を目で追いかけてしまうのも、何でもない。
本当に、何でもない?
瞬間、身体がぶわりと熱くなった。
鉄製の錆びた靴箱の扉を勢いよく開け、シューズと靴を交換する。靴箱の中に投げ込まれたシューズが乱雑に並べられる。
早く家に帰って、寝たい。
おばあちゃんの言った通り、寝たら何もかもすっかり忘れていられたらいいのに。
寝て、全てを忘れたい。
履きなれたローファーの爪先を、トントン、と急いで床へ叩きつける。これで、帰る用意は全て済んだ。
あとは、傘を取るだけだ。
未だに鼓動を激しく打ち鳴らす心臓を、なんとか無理に落ち着かせる。
ガラス張りの玄関の扉の近くに、傘立てはある。赤くて上品なデザインの傘。朝に比べて、随分とすっからかんになった傘たちをかき分けながら自分のものを探す。しかし、
「……ない」
何度探しても、どれだけ目を凝らしても無い。大きく舌打ちをした。
盗られたか。たまにいるのだ。人の傘を勝手に盗んでいく馬鹿が。
しょうがない、歩いて帰るか、と思ったが、雨はどんどん強くなってくるばかりだ。
あまりにも強すぎて、だんだんそれが直線に見えてくる。
地面に打ち付ける雨はさながら槍のようで、この中を1人で帰るという自信はない。
はあ、とため息を吐いた。
数分前の私と、まるで同じだ。
仕方ない、と外に出た時。
「月音」
どんなに地面を打ち付ける雨音よりも、耳に一直線に入ってくる声。
何度も何度もからかい、からかわれ、その度に笑い声を上げてきたその、声。
はっ、と顔を上げる。
「……翔馬」
そこにいたのは、雛河翔馬だった。
若干足を引きずるようにして、彼は私の前で息を切らしていた。制服はもうすでにびしょびしょである。濡れてしまった部分は変色して、早く乾かさないと風邪を引いてしまいそうだ。
「な、なんで、もう帰ったんじゃ」
妙に緊張してしまい、目を伏せながら尋ねる。
「いや、帰るときにさ、月音の傘を勝手に盗んでいく奴を見かけたんだ。すぐ追いかけたんだけど……。ごめん、逃げられちゃった」
「いや、翔馬が、謝ることはないよ」
なんとか平静を装いながら受け答えをする。
息が苦しい。
昨日、足を痛めたばっかりじゃん。
結局病院には行ったの?
そんな足を引きずって、私の傘ごときのために走ってくれたの?
そう聞きたいのになにも言葉が出てこなくて、目線が自然と下に下がっていく。
目を見ていたいのに合わせられないもどかしさが辛くて、女子らしくない、自分の大きい足ばかりが目に入った。
「だから、これ。僕の折りたたみ傘。使ってよ」
「……ありがと」
「これ持ってくるために、わざわざ学校まで戻ったんだからね! 感謝してよ!」
口の端を歪めながら、彼が軽口を叩く。昨日あんなことがあったのに、動揺も何もしていない。能天気なのは、翔馬の方だろう。
私の反応が無かったのが気になったのか、彼が私の顔を覗き込む。
朝と全く同じだ。
「……月音?」
名前を呼ばれて、肩がびくりと跳ねる。
「顔、赤いよ」
翔馬が手を伸ばす。
私よりも背が低いくせに、一丁前に男らしい手をしちゃってさ。
目線を少しだけ上げると、すぐ彼の顔が見える。
きらきらと輝く瞳。
周りの景色が、もやがかかったようにぼやけた。
こんなにも心臓が鳴っている。
早く気づけ、と。
お前は気づくのが遅すぎたんだと。
多分、ずっと前から
『好き』
伸びてくる翔馬の手。
その手は頬に触れようと、少しずつ近づいてくる。
顔の赤みは未だ引かず、すっと彼の瞳が細められるのを見て、もっと鼓動が早くなる。
心臓と肺の近くが、擦り切れるように痛んだ。
彼の手を、私は絶対に拒むことはできない。
翔真を好きな限りは、この先ずっと。
この鼓動が冗談であってたまるか。
ロマンティックな冗談を みつはた @mituhata77
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